「ナスティ?」
じっと微笑みながら自分を見つめているナスティに、当麻はどうしたものかと、彼女の名を呼ぶことで問い掛けた。
「なんでもないのよ」
ナスティは右手で当麻の頬に残る涙の跡を拭ってやりながら答えた。
「ただ、以前もそうだったけど、当麻って、私の前では随分と素直だなって思ってね」
素直── その一言に、当麻の頬が紅に染まる。
そんなふうに人から言われたのは初めてのことで、どう応えていいのか分からない。
「……ナスティといると、とても落ち着くんだ」
自分をまっすぐに見つめてくるナスティをそのまま見つめ返すことができなくて、当麻はナスティから視線を反らした。答える当麻の頬はまだ紅が残っている。
「凄く、安心する。だからかな。何となく、ナスティだったら俺の話をきちんと聞いてもらえるような気がするんだ。ナスティなら、俺の事、理解ってくれるって、どうしてそんなふうに思えるのか、今までそんなふうに思えた人っていなかったから、よく理解らないけど。征士や遼たちに対するものとも違う、何て言うんだろう……」
当麻は── この子は、幼い時に与えられなかった女親の温もりを、自分の中に求めている、あるいは見ているのかもしれない、とナスティは思った。
だからこそ、アメリカに行く時も、短い文面ではあったが自分に連絡を寄越したのだろう。そして帰国を決めた時にも。
「当麻」
ナスティは名を呼び、両手で当麻の頬を挟むと自分の方へと向けた。
「今のあなたにはもう分かってると思うけど、覚えておきなさい、ここが、あなたの家よ。あなたのいるべき場所。私はあなたを── あなた一人に限らないけど、皆のことを自分の本当の弟のように思っているわ。血の繋がりなんてものはないけど、私たちの間にあるものは、それ以上のものだと思ってる。あなたたちは私にとって大切な家族。だから、他に行くところが無いのなら、ここにいなさい」
「迷惑じゃ、ない?」
「そんな風に思ったら、こんなこと言いやしないわ。遠慮なんかせずにここにいなさい」
言い聞かせるように、ナスティは同じ言葉を繰り返した。ここにいなさい── と。
「いつか、あなたに新しい家族ができるまで、ここにいるといいわ。私は構わないから」
「……新しい、家族?」
「そうよ。あなただって、いつかは結婚するでしょ? それとも、独身主義?」
ナスティの言葉に、当麻は、遠い目をした。
「……無理だよ、結婚なんて」
瞳を閉じて、短い答えを返す。
当麻の脳裏を、一人の少女の面影が過った。ただ一度だけ腕にした温もりが甦る。
「無理だなんて、そんなことまだ分からないでしょうに。それとも、ご両親のことがあるから?」
「無理だよ」
ナスティの最後の言葉に、当麻は首を横に振って否定した。両親は、関係ない。
「だって……」
── 彼女は、ここには、この世界にはいないのだから。
あの娘を想いながら、他の人間を愛せるとは思えない。自分は、それ程器用な人間ではない。
「……忘れることができないうちは、他の相手なんて考えられない。それ以前に忘れられるとも思えない」
「好きな人がいるの?」
ナスティの問いに当麻は頷いた。
「護りたいって、そう思った相手がいる。彼女を護りたいと、手を離したくないと思った。それが不可能なことは最初から分かってたけど……。でも、叶うことなら彼女と行きたかった。もし彼女と一緒にいることができたら、俺は一人でアメリカへ行くことなんて、逃げ出すことなんて、無かったかもしれない」
「もしかして、その相手って、迦遊羅?」
ナスティは当麻の言葉からその相手を察して、名を口にした。
かつて、彼等が鎧戦士として戦った相手。
迦遊羅は本来迦雄須一族の末裔であり、彼等と戦ったのは彼女自身の意思ではなく、妖邪帝王阿羅醐に操られてのことであったが。
「ナスティ、覚えてる? 新宿で最初に戦った後、俺が衛星軌道に跳ばされたこと」
「え? ええ、もちろんよ。おかげであなたを探し出すのに随分と苦労させられたもの」
ナスティは突然の話題の転換に、一度、大きく目を瞬いて、それから答えを返した。
ばらばらに弾き跳ばされた五人を探し出して復活させるために、日本列島を横断したものだった。
そして漸く、烈火、光輪、水滸、金剛と集ったものの、どうしても天空の居場所だけが見つからず、そのために敵の罠に落ちたこともあった。
やがてどうにか宇宙── 衛星軌道上にいることが分かったものの、復活させるための術が分からずに、途方に暮れたものだった。
最終的には、天空を狙って敵の放った妖邪弾に烈火が跳び乗るという、暴挙ともいうべき手段によって漸く天空の復活が叶ったのだった。
「あそこにいる間、ずっと夢を見てたんだ。天空の鎧が、俺にその夢を見せてたみたいで── 、正確には、“夢”とは違うと思うんだけどね」
「どんな夢?」
「泣いている少女の夢」
「それが迦遊羅?」
「そう。その夢の中で、声もなく、助けを求めてただ泣いていた。そんな彼女に俺は何もしてやれなくて……見守ることしかできなかった」
目を閉じて、記憶を辿りながら夢見るように語る。その様は、つい先程までの、独りは嫌だと、そう言って涙を流していた姿とは、まるで別人のようだ。
「あれから2年近く経ったけど、迦遊羅に対する気持ちは変わらない。いつも彼女のことを考えたり思い出したりしているわけじゃないけど、愛しいと、護りたいと思う気持ちは変わらない。もっとも」
当麻はクスッと小さく笑った。
「実際には迦遊羅は俺なんかよりずっと強くて、護りたい、なんておこがましいけど」
「確かに、純粋に力だけを見るなら迦雄須の一族である迦遊羅の方がずっと大きいわね。でも、その立場を離れれば、彼女はあなたより年下の、一人の少女であることに変わりはないのよ。
それにしても、あなたが迦遊羅をね……」
「変?」
「いいえ、そんなことはないわ。ただ、考えたことがなかったから驚いただけ。
それより、話を元に戻すけど、あなたが迦遊羅を想っているのは分かったけれど、だからといって、結婚なんて無理だ、って決めつけるのは早過ぎない?」
「……でも、迦遊羅のことを忘れることなんてないと思うし、彼女以上に想える相手に出会えるとは、到底思えない……」
「何も、迦遊羅のことを忘れなさいと言っているわけではないのよ。ただね、あなたはまだ若いのだし── 何と言ってもまだ20歳にもなっていないのだから、今から結論を出す必要はないと言っているの。
まだまだこれから多くの人たちとの出会いがあるわけだし、そうして出会った人たちの中の誰かと縁があるということもあるでしょう? 何事にせよ、結論を急ぎ過ぎるのは良くないことだわ。時間はたっぷりあるのだから、じっくりと考えて、決して後悔したりすることのないように生きることよ。
ううん、あるいは、ああすれば良かった、こうすれば良かったって、後悔の連続ばかりになることもあるような気もする。でも最終的には、これで良かったんだ、って、そう言える人生を送りたいものだわ。そう思わない?」
「そう、だね……。そうなれば、いいね」
「なればではなく、そうするのよ。妖邪たちとのあの激しい戦いに勝ち抜いたあなたたちですもの、きっとできるわ。
さっき、自分が一番嫌だって言っていたけれど、当麻、自分を嫌っては駄目よ。まず、自分を好きになりなさい、自分を愛しなさい。そうして人を愛しなさい。そうすればきっと幸せになれるわ。私はそう信じてる」
ナスティの言うことは理解る。けれど理解することと、それを実行することは、必ずしも同じではない。
果たして、自分にそれができるだろうか── 。今迄の生き方を、考え方を、そう簡単に変えることができるだろうか。理解っていながら、今この時にもそれを否定してしまいそうな自分が存在するのが分かる。
ナスティは俯いたきり黙ってしまった当麻を、暫くの間、黙って見つめていたが、壁に掛った時計に目をやると、当麻の肩を優しくしく抱いた。
「病み上がりだというのに、すっかり話し込んでしまったわね。もう遅いわ、部屋に戻ってお寝みなさい」
「ナスティ……」
顔を上げてナスティを見る。
自分に向けられる、ナスティの優しい眼差しと温かな温もり── 。
それは、かつて幼い自分が何よりも求め、そして得られぬと諦めてしまったものに似ている、
── 置いていかないで、僕を独りにしないで……!
言いたくて、言いたくて、けれどどうしても言えぬままに終わってしまった言葉。しかしそれはもう必要のないものだ。なぜなら言わずともそれはここに在る。
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