空に還る 【7】




 紅茶を一口飲んで、ナスティは当麻に訊ねた。
「さっきは何を考えていたの?」
「……ん……特に何をってことはないんだ。ただ……」
「ただ?」
「……帰ってきたんだなぁって、実感してた……」
 俯き加減に、前髪を掻き揚げながら当麻は答えた。
「そうね、やっと帰って来たわね、2年も掛かって。とんだ放蕩息子だわ」
「放蕩息子って……、ナスティ、その言い方はないだろう」
「自分のいるべき場所も分からずにふらふらしてるんだもの、放蕩息子以外の何だって言うの?」
「そりゃ、確かに否定できないけど……」
 それから暫く、二人は会話も無く、ただ黙って紅茶を飲んでいた。しかしその沈黙は、決して不快なものではなかった。
 その沈黙を先に破ったのは、当麻だった。
「……全部を覚えてるわけじゃないけど、それでも、ナスティや征士に『帰ってこい』って、そう呼ばれていたのは、朧ろげだけど覚えているよ。まだ耳に残ってる気がする。でも何か変な気がした。だって、今まであんなふうに呼ばれた記憶はないから。病室で目が醒めて、二人を見て……、ナスティが『お帰りなさい』って言ってくれて……嬉しかった。あの声を聞いて、帰ってきて良かったんだって、分かったから」
 当麻は、照れ隠しもあるのだろうか、俯いたまま、話し続けている。
 ナスティは口を挟むこともなく、ただ黙って当麻の話を聞くことにした。
「何か妙な感じだった。だって、置いていくなって、帰ってきてって、そう言いたかったのは俺だったんだから。なのに、そんなふうに呼ばれることなんて決してないと思ってた俺が……、俺を、呼んでくれる人がいるなんて、思ってもいなかった。
 ナスティには前に話したけど、俺の親父は、研究研究で、殆ど家にはいなかった。お袋も仕事を持ってて留守がちで、親子三人で過ごした思い出なんて、どこをどう探しても出てきやしない。
 ……俺の中の一番古い母親の記憶って、後ろ姿なんだ。俺はまだ小さなガキで、出掛けていく母親の後ろ姿を黙って見送ってた。でも思ってた。僕を置いていかないで、独りにしないで、早く帰ってきてって、いつだってそう思って、それを言いたくて、けど一度も言えなかった。ずっと思いながら、言えないまま、俺は諦めた。そのうち、親父とお袋は離婚しちまった……。
 お袋は家を出ていく前に俺を抱き締めたよ。あの時、初めてお袋を真正面から見たような気がする。お袋は『ごめんね』って謝ってた。『たとえ別れて暮らすことになっても、私たちが親子であることに変わりはないのよ』とも言ってたな。けど俺は思ってしまったんだ。ああ、この人は俺を捨てていくんだ、この人にとって、俺は()らないものなんだ、この人が自分の仕事を続けていくには俺は邪魔なんだ、って。
 ずっと誰もいない家に独りきりだった。学校に入ってからもずっとそうだった。誰にとっても、俺はいてもいなくても同じ、必要とはされていないんだ、自分は要らない人間なんだって、そう思っちまった」
 当麻はそこで一旦言葉を切った。
「……ごめん、ナスティ。なんか、今日の俺、変なんだ……」
「気にしないで続けて。いくらでも聞いてあげるから、言いたいこと、言ってちょうだい。胸の中に仕舞い込んでいたもの、全部出しておしまいなさい。いつまでも秘めておくことはないんだから」
 ナスティは立ち上がり、当麻の隣に座り直した。
「ナスティ……」
「言いたいことを言ってすっきりしなさい。言いたいことを言わずにいるなんて、精神的にも躰のためにもよくないんだから」
 ナスティは母親が子供にするように、当麻の肩を抱き寄せた。当麻はされるまま、凭れ掛かるように自分の頭をナスティの肩に預けた。
「……あいつ等が、初めてだったんだ……。初めて、俺を必要としてくれたんだ、初めて、友人だって、仲間だって、認めてくれた。俺に居場所を与えてくれた。でも戦いが終わって大阪に戻って、以前の日常に戻ったら、あの日々が嘘のようで、夢だったんじゃないかと思えてきた。夢じゃなかったとしても、あいつ等が必要としていたのは、軍師たる“天空”の俺であって、戦いが終わったら、俺はもう必要ないんじゃないかって、そう考えたら……怖くなった。俺はまた、自分の生きている意味を失ってしまう。ただそこにいるだけの日々に戻るんだ。
 あの皆で過ごした1年は、俺にとっては初めて経験することの連続だったような気がする。あんなふうに他人と一緒に過ごすなんて、それまでは無かったから、随分と戸惑った。たった1年だったけど、他人と一緒にいるってことが、独りじゃないってことが、とても嬉しくて……。
 だから、後が辛かった。
 最初は、あの約束を守るつもりでいたんだ。楽しみにしてたんだぜ。けど日が経つにつれて、もし皆に俺なんか知らないって、忘れた、もうおまえなんか必要ないって言われたら……。
 あいつ等に限ってそんなことはないって思う一方で、そんな考えが浮かんできて……、それを否定してもしきれなくなって、いたたまれなくなって、……それで逃げたんだ」
「皆のこと、信用できなかったの?」
 肩口に置かれた当麻の頭が振られたのが分かった。
「……違う、そうじゃない……。信じてたよ。信じていたかった。でも、俺は怖かったんだ。信じていたけど、それでも心の中のどこかに、裏切られたら、って思う自分がいた。
 裏切られるのが嫌だった。置いていかれるのが嫌だったんだ。
 置いていかれるくらいなら、それくらいならいっそ、誰も俺のことを知らないところへ行ってしまおうって思った。そこでなら俺はもう一度最初から遣り直せるかもしれないって思えたから。
 ……親父もお袋も俺を置いていった。友人と呼べるような奴も、俺は持てなかった。
 クラスの連中は、大抵俺を遠巻きにしてるだけだった。『馬鹿らしくって羽柴は自分たちなんかの相手はできないだろう』って……。たまに近寄ってくる奴もいたけど、暫くすると離れていった。
 俺のどこが違うって? そりゃ確かに、他の奴から比べればIQは高いさ、それは分かってる。でもそれだけだ。それだけなんだ。それ以外は何も違っちゃいない。他の奴等のように、一緒に出掛けたり悪ふざけしたりしたかった。特別扱いなんて、して欲しくなかった。独りでも何てことないって平気な降りしてたけど、本当は誰かに傍にいて欲しかったんだ。独りは嫌だよ……」
 ナスティは自分の肩を濡らすものがあるのに気付いて、当麻を優しく抱き寄せると、彼の頭を優しく撫ぜてやった。
「一人が平気な人間なんて、いやしないわ。人間は皆、互いに支え合って生きているのよ。一人だけで生きている人間なんて、どこにもいない」
 ここにいるのは、躰だけ育ったまだ幼い子供──
「ナスティも、怒ってる?」
「何を?」
「俺が、集まる約束をすっぽかして、アメリカに行ったこと」
「怒っては、いないわ。淋しくはあったけれどね。私は、あなたがなぜそんなことをしたのか、なんとなく理解(わか)るような気がしたから、怒りはしなかった。ただ、あなたが何も話してくれなかったから、それが哀しかったわ」
「……俺が一番嫌だったのは、そんな風に考えてしまう俺自身だった。こんな自分自身から逃げ出したかった……」
「1年向こうにいて、何か学んだことはあった?」
「……さあ、分からない。向こうにいた間、思い出すのは、皆のことだけだったよ。辛いことが多かったけど、でもそれだけじゃなかった、皆で過ごした時のことだけで。……ずっと皆に会いたいと思ってた。ナスティに会いたかった。ここに帰ってきたかった……」
「でも、もうこうして帰ってきたでしょう」
「……うん。……電話した時、ナスティ、『待ってる』って言ってくれただろう?」
「ええ」
 ナスティは軽く頷きながら答えた。
「電話を掛ける前は、俺、酷くビクついてたんだ。知らないって言われたらどうよしう、とか。でも、ナスティは覚えていてくれて、その上、『待ってる』って言ってくれて、だから、とても嬉しかった。あの一言で、帰れるって、帰っていいんだって、そう思えたんだ」
「でも、それにしては帰ってくるのに随分と時間が掛っていたわね」
「あれは……っ!」
 ナスティが何のことを言っているのかを咄嗟に判断して、当麻は勢い顔を上げた。
「あれは、何?」
 ナスティは、母親が子供に向けるような微笑みを浮かべながら促すように当麻に問うた。
「……自分でも、どうしてああなったのかはよく分からないんだ。たぶん、“天空”としての俺の力が作用していたんだろうとは思うけど……。
 俺、小さい頃から、何ていうか、空を見上げているととても懐かしいような気がして、あそこに還りたい、ってそんな風に思ってたから、そのせいじゃないかと……」
 涙を流した跡を拭うこともせずに答える当麻が、ナスティは微笑ましかった。





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