「ナスティ、俺は……」
「いいのよ、分かっているから。もう、寝なさい」
言って、当麻の頬にキスを一つ。
ナスティの思わぬ行為に── >ナスティにとっては慣れた行為なのだろうが── 、当麻は頬を染め、ナスティの唇の触れた頬を思わず手で押さえた。
「お、おやすみ……」
そう言って立ち上がり、その場を去り掛けて、当麻は足を止めるとナスティを振り返った。
「どうしたの?」
口を開きかけながらも言い辛そうにしている当麻を、ナスティは促した。
「……今回は、その、色々と迷惑掛けて、ごめん」
「何を言ってるの、いまさら。それにその台詞はもう聞き飽きてしまったわ」
言いながらナスティは当麻の前に立ち、自分の背を越した彼の顔を見上げた。
「久し振りにゆっくりと話ができて嬉しかったわ。特に今夜は、あなたにしては珍しく饒舌で、しかも素直に自分の気持ちを話してくれたし」
一瞬の躊躇いを見せた後、当麻は腕を伸ばし、ナスティの細く女性らしい柔らかな躰を、縋るように抱き締めた。
「心配の掛け通しで、本当にごめん。それから……ありがとう、姉さん……」
最後の一言は、やっと聞き取れる位の小さな呟くような声で、しかし耳元で囁かれたその言葉を、ナスティは聞き逃しがしなかった。
ナスティは当麻の背を優しく抱きしめ返して、もう何度も口にした言葉を、再度繰り返した。
「お帰りなさい、当麻。忘れないで、ここがあなたの家よ」
当麻は小さく頷いた。
翌日、お茶の時間を過ぎた頃、残る三人の仲間が、互いに待ち合わせしたらしく一緒に柳生邸を訪れた。
2年振りの、散々心配をかけ続けた友人との再会に、彼等は、当麻の無事を喜び、そして心配を掛けた罰だと言って小突きまわした。
笑いあって時を過ごす。忘れていた時間が戻ってくる── 。
そうして春休みを共に過ごし、次の約束を交わして、四人はそれぞれの家へと帰っていった。
「これからどうするつもりなんだい?」
帰る前に、伸が当麻に問うた。その答えを聞こうと、その場にいた他の者も耳を傾ける。
「もう少しここにいるよ。ナスティがいいって言ってくれているから。で、夏になったらアメリカに行く」
「当麻!?」
「アメリカって、どうしてっ!!」
「おまえ、また……」
口々に言う彼等に、当麻は笑って答えた。
「1年向こうにいたけど、色々と中途半端だったからな。今度は大学の卒業証書でも貰ってくるよ。それに、心配しなくても約束の日にはちゃんと帰ってくるって」
「本当に帰ってくるのだな?」
「ああ。帰る場所が在るって分かったから。ナスティやおまえ等が、それを教えてくれたからな。だから帰ってくるよ」
けれど放っておくとこの天空殿はまたどこをふら付くか分からないからと、伸は当麻にこれからはもう少しまめに連絡を取るようにと約束させた。
四人が帰り、ナスティと当麻の二人だけになると、家の中は随分と静かになった。
本を読み、資料をあさり、議論を交わし、時には一緒に外出して、日々を過ごす。
以前とは違う、穏やかな日々。
ある晴れた日の午後、ナスティは当麻と連れ立って散歩に出た。
数日前から飼い始めた、知人から貰った白い子犬の鎖を外し、自由に駆け回らせてやる、その様を目の端に留めながら、ナスティは当麻を呼んだ。
「ねえ、当麻」
「何?」
「前に、空に還りたいと思うって、そう言っていたでしょう? 今でも、そう思っているの?」
ずっと気になっていたことを、ナスティは聞いた。
「そうだな……。今でも、心の中のどこかにそれはあると思う。空を見上げてると、懐かしいと思うし。やっぱり、俺が“天空”だから、かな」
少し長くなった前髪を掻き揚げながら、当麻は答えた。
「でも、還りたいっていっても、違うんだ。家に帰るとか、そういう意味での帰りたいんじゃなくて……。最近思うんだけど── しいて言えば……、死んだら土に還るとか、そんな言い方があるだろう? そんな感じかな。つまり、最終的に自分の魂の行き着くところ、とでも言うのかな……」
上手い表現が見つからないと首を捻り、言葉を探しながら告げる。
「上手く言えないけどさ、ナスティが案じているようなことはもうないから安心して。ここが俺の家なんだろう? ここに帰って来いって言ってくれたのはナスティじゃないか。俺は、ここにいていいんだろう?」
「ええ、ええ、そうよ」
頷きながら応えるナスティに、当麻は笑った。
── 空に還りたい── その想いは、変わらない。
空は、娘のいる界に近い。あの空の彼方に、娘のいる世界が在る。
現世ではもう二度と会うことは叶わぬだろう愛しい娘は、彼方の世界で、彼のいる現世とは異なる時間を生きている。
満開の櫻の花の下で、別れを告げる前にただ一度、その手にした少女── 。
もし仮に、自分が他の女性と結婚することがあったとしても、それでも、自分が彼女を忘れることはないだろう。
いつの日か、この身が大地に還る時、魂は解き放たれて自由になる。
それがいつのことになるかは分からないが、自由になった魂は、どこまででも、望むところへ翔んでいくだろう。そう、空の彼方にまでも。
たとえこの身が滅んでも、心は、魂は変わらないから、だからきっとそれは愛しい娘の元へと辿り着くだろう。
空に還りたいと思い、そう願うのは、きっとそのためだ。
自分の魂は、彼女と出会う前から彼女を知っていて、だから、彼女の元に還るために、そのために、空へと還ることを望んでいるのだと、今はそう思う。
── 迦遊羅、俺の声は君に届くだろうか?
君を、愛しているよ、誰よりも。
いつまでも、君を想っている。
いつかきっと、君の元へと還るから……。
当麻は、どこまでも続く青い空を見上げながら、少女のことを想い、少女に語り掛けるように、その心をどこまでも翔ばした。
── 迦遊羅、君を、愛しているよ……。
── 了
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