空に還る 【6】




 ── 帰ってこい、当麻!



 自分を呼んでいると思える声が、段々と大きくなる。それは、どこか祈りにも似た声だった。
 自分を呼ぶ、聞き覚えのあるその声が、自分を引き寄せる。
 最初は、自分一人しかいない気楽さ、自由気儘さを楽しんでいた。思うまま、空を駆けていた。しかし時が経つにつれ、肌寒さのようなものを感じるようになった。
 どうしてここはこんなに寒いのだろう。なぜ──
 誰かに聞いてみようにも、そんな相手はいない。自分の他には誰もいない。いないのだ。だから、か? この寒さは、孤独、なのだろうか。



 ── 戻ってこい、当麻!



 あの声のところへ行けば、一人ではなくなるのだろうか。あそこへ行ったら、もう寒さなど感じないで済むのだろうか。





 事務局で入院費の支払いを済ませたナスティが、病室に入ってきた。
「当麻は?」
「変わらない」
 軽く首を横に振りながら征士が答える。
 毎日繰り返される問いと答えだった。いつまで続くのだろう。
 ナスティはベッドの傍らに立った。当麻の、少し長めの前髪を梳いてやる。
「当麻」
 呼び掛けて、ナスティは腰を折り、当麻の額に唇を寄せた。
「早く帰ってらっしゃい。帰ってくるって言ったのは、あなたでしょう?」
 当麻の額に自分の額を触れさせ、ナスティは瞳を閉じて当麻に語り掛ける。





 ── 帰っていらっしゃい、当麻。ずっと、あなたが帰ってくるのを待っているのよ。
 暖かい、優しい声が、彼の内部から聞こえてくる。それが全身に広がっていくのが分かる。
 ── 戻っていらっしゃい、私たちのところへ、あなたのいるべき場所へ。





「……ナス……ティ……?」
 小さな、うっかりすると聞き逃してしまいそうな、自分を呼ぶ征士ではない声に、ナスティは瞳を見開いた。
「……当麻……」
 自分の顔のすぐ下で、自分を見上げている当麻の、宇宙の深淵を思わせるような瞳にぶつかった。
「当麻、戻ったのか!?」
 征士はナスティの様子に勢いよく椅子から立ち上がって、彼女の脇に立った。
「……征士……?」
 自分を見下ろす懐かしい顔に、当麻はナスティと征士の顔を交互に見た。
「……俺、どうして……?」
「覚えていない? あなたの乗った飛行機が事故にあったの。怪我は大したこと無かったのだけれど、ずっと意識が戻らなくて……」
 ナスティは当麻の頬に優しく触れながら話した。
「事故? ……そういえば何か大きなショックがあって……」
 ナスティが当麻と話している間に、征士がナースコールを掛けた。
「当麻、本当に帰ってきたのね」
 いつしか涙声になって、ナスティは当麻を確かめるように彼の頬に口付けながら告げる。
「ナスティ……。あまりよく覚えてないんだ。ただ、ナスティと征士の声が、聞こえたような気がする。『帰ってこい、戻ってこい』って……」
「そうよ、私たち、ずっとあなたを呼んでいたのよ」
 少しして、医師と看護師が病室にやってきた。
 診察しますからと言われて、二人は医師に任せて廊下に出た。
「……皆に連絡を入れなきゃね」
「ああ、そうだな」
「確か、伸が明日で、遼と秀は明後日って言ってたから、明後日には2年振りで皆が揃うわね」
 病室の前の廊下の椅子に腰かけながら、ナスティは頬を流れる涙を拭おうともせずに、けれど唇に微かに笑みを浮かべながら言った。
「ああ、やっと揃う」
 征士もまた、微笑みを浮かべながら頷いた。





 午後、精密検査を済ませて、結果が出るのは明日ということになった。
「何か、欲しい物はある?」
「……いや、何も無いよ。それより、ごめん、ナスティ。すっかり迷惑掛けて」
「いいのよ、もう。こうして無事に戻ってきたんだから」
「ナスティ」
「なあに?」
「……ただいま」
 やっと聞くことのできたその一言に、ナスティは満面の笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、当麻」
「ああ。ところで、征士は?」
 当麻は先程から姿の見えないもう一人のことを聞いた。
「今、電話を掛けにいっているわ。他の三人のところへね」
「……皆にも、心配掛けちまったな……」
「そうね、この2年間、心配の掛けどおしだわね。覚悟しておきなさい。
 意識が戻ったばかりで、あまり長く話をしていて疲れてもいけないわね。もう休んだ方がいいわ」
 言いながら、ナスティは当麻に毛布を肩まで掛け直してやった。
「……ああ」
「眠るまでここにいるから、安心して眠りなさい」
 まるで小さな子供に言い聞かせるような言葉だったが、当麻はナスティの言うとおり素直に目を閉じた。
 暫くして静かに病室のドアが開けられ、征士が入って来た。
「当麻は?」
「今、眠ったところ。どうだった、皆に連絡は取れて?」
 眠ったばかりの当麻を気遣って、小声で会話を続ける。
「ああ。皆、喜んでいた。それと、伸の予定が変わって、家の都合で明日ではなく明後日になると言っていた。時間の都合が合えば、途中で落ち合って三人一緒に来るそうだ」
「そう。当麻も漸く帰ってきたことだし、明後日には皆が揃って、一安心というところね」
 意識の()かった時とは違う、穏やかな当麻の寝顔を確認して、それからナスティは征士と一緒に病室を後にした。
 ずっと意識がなく眠ったままだったにしては、不思議と体力が落ちているような様子もなく── それは鎧珠の力によるかもしれない、と征士は言った── 検査の結果に何も異常が無ければ、明日、そのまま退院しても差し支えないだろうと医師は言っていた。そして光輪が、その言葉を保証した。
「明日は、退院の用意をしてきましょう。夕食には当麻の好きな物を用意して……」
 ナスティはきっと明日には退院できるだろうと、明日の予定を立て始めた。
「帰りに買い物をしていくから、付き合ってちょうだいね。大荷物になると思うから」
 ナスティが笑いながら言う。今回、こちらに着いてから初めての、久々に見る明るい笑顔だった。





 翌日、征士が言ったとおり、検査結果には何の問題もなく、医師や看護師に首を捻らせながら、当麻は無事に退院の運びとなった。





 その日の夜、飲み物を取りに自室を出たのだが、リビングに人の気配を感じて、ナスティは注意しながらリビングに足を踏み入れた。
「当麻」
 そこにいたのは当麻で、ソファに座って何かを思案しているかのようだった。
「当麻、まだ起きていたの?」
 ナスティの声に、当麻が振り向いた。
「なんか、目が冴えちゃって……。病院で寝過ぎたせいかな」
「躰の方は大丈夫なの?」
「ああ、何ともないよ。無理してるんじゃなくて、本当に」
「ならいいけど……。まだ起きているなら、お茶でも淹れましょうか? 丁度私も何か欲しいと思ってたし」
「なら、俺がやるよ。座ってて。紅茶でいい?」
 立ち上がりながら言う当麻に、じゃあお言葉に甘えてと、ナスティは当麻の座っていたソファの向かい側に座りながら頷いた。
 数分して、当麻がキッチンからカップを二つ乗せたトレイを手に出てきた。
「当麻に淹れてもらうのって、初めてね」
「そういえば、そうだな」





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