空に還る 【5】




「彼が普通の家庭で普通に育っていたら、そんな考えは持たなかったでしょうね。でも現実、当麻は普通の子とは余りにも違い過ぎて、それにご両親のこともあって、普通とは随分と違う育ち方をしてきて、いつも一人だったから……人と付き合うということを、あの子は知らないのよ」
「……ナスティは、随分と当麻のことに詳しいのだな」
「それほどでもないわ。でも、あなたたちよりは多少は知っているかもね。二人で研究室にいた時とかに、色々と聞き出してたから。
 あなたたちは食事の時とかお茶の時とかによく話をしていたけど、当麻は必要なこと以外は殆ど喋らなかったでしょう。だから二人だけの時に、少しずつね。
 自分から進んで話すなんてことは無かったから、大凡のことでしかないけれど。
 それに、阿羅醐を倒して帰郷して間もない頃に一度だけ、当麻から電話があったの。
 私が言ったことの半分以上は、私が当麻から聞き出したことや、電話を掛けてきた時の様子からの推測なのよ。でも、そう外れてはいないと思うわ」
「……電話で、当麻は何と?」
「『帰って来ない方がよかったのかもしれない』って、ポツリと言ったの。その時の声が、今でも耳に残っているわ」





 当麻から電話が掛ってきたのは、皆が帰郷してから2週間程経った日の、夜遅くのことだった。
「……俺、大阪に帰ってこない方がよかったのかもしれない……」
 電話の向こうで、当麻は呟いた。
「当麻……そちらで、何かあったの?」
 あまりに淋しげなその声に、ナスティは聞き返した。
「……いや、何も……。何もないよ、ナスティ。何も変わっちゃいない……。変わったのは、俺、かな……」
「当麻」
 独白に近いような当麻の言葉に、ナスティは掛けるべき言葉が見つからず、ただ彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
「……ごめん、ナスティ。ホントに何でもないんだ、ちょっと落ち込んでるだけ」
「当麻、何かあるのなら、私でよければ相談にのるわよ。少なくとも、聞き役ぐらいにはなれると思うわ。悩んでることがあるのなら、たとえ答えは出なくても、それを口に出して言うだけでも随分と違うものよ」
「ナスティ……」
「私が、いえ、私たちがいることを忘れないで。いいわね、当麻」
 言い聞かせるように言う。一人ではないのだと、分からせるために。
「……ありがとう……」





 当麻から電話があったのは、それが最初で最後だった。その後は、去年の春に葉書が届いたきり。
 当麻が大阪に帰り、渡米するまでの約1年、その間に、彼に何があったのかは知るよしもない。何も言わぬまま、当麻は一人で行ってしまった。
「あの時、何があったのか無理にでも聞き出せばよかったのかもしれない。それでなければ私の方からもっと連絡を取っていれば……」
「それを言うなら、私たちも同じだ」
 2年前の別れの際、アドレスを交換した時に、当麻は住所だけで、電話番号は無かった。皆の「電話は?」との問いに、
「うちの親父、電話嫌いなんだよ。それでも以前は入れてたんだけど、お袋と離婚(わか)れた後、必要無いって外しちまったんだ。ま、何かあった時には研究室の方に連絡入れれば、間違いないし。さして不自由は感じてない。普段は手紙でも十分だろう? もし緊急で何かあった時には……そうだな、電報でも打ってくれ」
 そう言われて、幾度か近況連絡を兼ねた季節の便りを出したものの、当麻からの返事は一度も無く、当麻との連絡は常に一方通行に終わっていた。そしていつしか、手紙を送る間隔も開いて、気に掛けながらも、最後に当麻に手紙をしたためたのは、秋頃だった。
 そして春、当麻は来なかった。





「……当麻は、あの子はあなたたちとは違うのだって、私は分かってたのよ。分かっていて、だのに、何もしなかった。そして一人で行かせてしまった……。もっと気に掛けてやらなきゃいけなかったのに……」
「ナスティ。ナスティがそこまで当麻のことで責任を感じることはない。こう言っては何だが、結局のところ、当麻自身の弱さが……」
「でもね、征士、当麻を変えてしまったのは、私たちなのよ」
 ── 変わったのは、俺、かな……。
「あなたは、電話で遣り取りした時の当麻の声を聞いていないから分からないかもしれないけれど、2年前の時も、この前も、一緒に過ごした時の当麻とはまるで違っていたわ。親に逸れた小さな子供みたいにどこか頼りなげで……。あの子は、外見はどうあれ、まだ小さな子供なのよ」
 小さな子供──
 それは征士の知る羽柴当麻には、決して似合わない形容だった。
 征士の知っている当麻は、時にはどこか人を見下したようなところもあるような、まだまだ中学生の子供と言っていい部類のくせに、まるで大人のような、自分の能力を、才能を知り、それを活かす術を知っている、自信に溢れた軍師だった。
 新宿で初めて出会った時から別れる時まで、それはずっと変わらなかった。
 そう、自分が知っているのは、あの共に戦った、共に過ごした1年間のみだ。過去のことは何も知らない。別れた後も彼は何も言ってこなかった。彼の何がどう変わったのか、何も知らない。
 ナスティは、自分たちの知らない当麻の姿を知っている。光輪である自分ですら気付かなかったものを、ナスティだけが知っている。
 それは研究のために共に過ごす時間が多かったこともあったためだろうが、それ以上に、ナスティが年上の、しかも女性だったからなのかもしれない。女性は皆、どこかに母親の部分を持っているから。それが母性本能と言われるものなのかもしれない。
 そしてそのせいなのだろうか、ナスティが当麻を“あの子”と呼ぶのは。










 ナスティが入院費のことで事務局に寄るというので、征士は一足先に当麻の病室に入った。
「……当麻」
 ベッドの傍らの椅子に座り、征士は変わらずに眠り続けている当麻に呼び掛けた。
「当麻、帰ってきてくれ。ここに戻ってこい、私たちの所へ。これ以上、ナスティを哀しませないでくれ。ナスティがどれほどおまえのことを案じているか、分からぬおまえではないだろう。早く帰ってこい。おまえがいるべき場所へ。ここがおまえの帰るべき場所なのだぞ、当麻!」
 ここに当麻はいない。ここに在るのは、羽柴当麻という名を持つ人間の身体── 器のみだ。そうと分かっていても、征士は当麻に語り掛けずにはいられなかった。
 たとえ当麻の意識はここになくとも、どこにいるのかは分からずとも、彼が少しでも自分たちのことを忘れずに覚えていてくれるなら、この目の前に横たわる躰を通じて、きっと空のどこかにいるであろう当麻の意識に、自分の声は届いているはずだとそう思う。いや、思いたい。





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