空に還る 【3】




 ── 寒い……。
 何も感じないはずなのに、ここでは感覚などないはずなのに、寒い、と思う。肌寒さを感じる。
 ── なぜ、寒いなんて……。
 何かが足りない── そう思う。だから、寒いのだ。でも、一体何が足りないのだろう。必要なものなど、何も無いのに。
 ここには彼の望む全てのものがあり、そして同時に何も存在しない。そう、彼と、彼の望んだ空以外には。
 ── 俺は、なぜここにいるんだろう。何のために、どうして……?
 彼の記憶は、時間が経つにつれて薄らいできていた。
 躰から離れ、束縛するものが無くなって、彼を留めるものが()くなったためなのだろうか。自分の名前すら、朧ろになりつつある。
 ── このままでいたら、俺はどうなるんだろう。空と同化するんだろうか……。それはそれで、たぶん俺の一番の望みなのだろうと思うけど。それにしては、この空虚さは何なんだろう。どこかにぽっかり穴が空いたような、そしてそれがだんだん大きくなっていくような、そんな感じがする。ほんの少し前までは風以外は何も感じなかったのに、こんなふうで、風と、空と、同化できるんだろうか。もし同化できたにしても、この虚ろな想いはどうなるんだろう……。それに、地上のどこかにあるだろう俺の躰は……。俺は、地上に何か想いを残しているんだろうか。今はもう殆ど思い出せるものなど無いけど、自分で気付いていなかっただけで、何か……。



 ── ……当麻! 天空!



 ── ……?
 何かに呼ばれたような気がして、彼は辺りを見回した。
 彼の周りには、何も無い。相変わらず風が吹いているだけだ。



 ── 当麻!



 彼を呼ぶ声が聞こえる。その響きのあまりの強さに、彼は耳を塞いだ。しかし意識体である彼にとって、それは耳を通して聞こえてくるものではない。彼の内部(なか)から聞こえてくるものだ。だから耳を塞ぐという行為は、単に実態を伴っていた時の記憶からくる行為であって、今、この場では何の役にも立ってはいない。
 響きが、だんだんと強くなる。



 ── 天空の当麻。私の声が聞こえるならば、応えよ!



 ── 当麻……。それが、俺の、名前……?
 聞き覚えのある、懐かしい名前。
 聞き覚えのある、懐かしい声。以前、どこかで聞いた。
 ── 俺はあの声を知っている。あれはかつて、俺にとってとても近しいものだった。俺を、呼んでいるのか……?





「当麻、帰ってこい、私たちの元へ。それとも、もう帰ってくる気は無いのか? 今になって私たちを見捨てて、一人で行くというのか」
 征士は、病室で当麻の眠るベッドの傍らの椅子に腰掛けて、自分の鎧珠を握りしめたまま、当麻に向って静かに語り続けた。
「当麻、こんなふうに行くことがおまえの望みだったのか? ならばなぜ、私たちに関わった。なぜ、私たちと共に妖邪と戦った。それが宿命と、ただそのためだけか、それが理由か? それならば鎧など纏わねばよかったのだ。人間と共に在ることが嫌ならば、戦わずにおればよかったのだ。そうすれば輝煌帝も発動することなく、私たちは阿羅醐の前に敗れ、人間界は妖邪の支配するところとなって、おまえを煩わせるものは()くなっていただろうに。今になって見捨てるくらいなら、最初から見捨てておればよかったのだ。私たちのことなど放っておけばよかったのだ。それを……、無責任だぞ、貴様。一度関わったなら、途中で投げ出したりせずに最後まで責任を持て」
 もしこのまま当麻の意識が戻ってこなかったなら、やがて遠くない日に、彼の意識と躰を繋ぐ糸が切れ、彼が戻って来ることは叶わなくなるかもしれない。そしてそれは、羽柴当麻という人間が永遠に失われることを意味する。
「当麻、戻ってこい。ここにおまえを必要としている者がいるのだということを思い出せ。確かに私たちは鎧戦士という同じ宿命の下に集った仲間だ。だがそれ以上に、おまえは私たちにとってかけがえのない友人。少しでも私たちのことを友人と思ってくれているなら、当麻、私たちの元へ戻ってこい! 帰ってこい! 当麻!! 私たちに、羽柴当麻という友人を失わせるな。私たちをおいて、一人で行ってしまわないでくれっ!」
 少しでもこの空のどこかにいるであろう彼にこの声が届くようにと、切に思う。
 鎧珠は、光の将の言葉を、彼等の智将たる(そら)の将に伝えてくれるだろうか──
「……帰ってこい、当麻……」
 征士は祈りを捧げるように手を組んだ。





 微かな気配に、征士は顔を上げた。
 ── ……当麻……?
 ベッドの向こうに、朧ろげに人の形が浮かんでいる。
 征士は目を凝らしてそれを見た。
「当麻、か……?」
 確認するように呟きながら、征士は椅子から立ち上がった。
「当麻。当麻なんだろう?」
 決して大きくはないが、しかしはっきりとした声で、征士はその人の形をした影に呼び掛けた。
「いつまでふらふらしているつもりだ。さっさと私たちの元へ帰ってこい、当麻」
 柔らかな微笑みを浮かべながら、影に向かって右手を差し出す。そんな征士を、その影は小首を傾げるようにして、身動ぎもせずにただじっと見つめている。
「当麻」
 もう一度、名を呼ぶ。
『……せい……じ……?』
 影の唇が僅かに動いて、征士の名を呼んだような気がした。
「帰ってこい。他のどこでもない、ここが、おまえのいるべき場所だ」
 半分ほど開けられた窓から、不意に風が入ってきた。その風に、征士の少し長めの前髪があおられる。
 何かを運び込むかのように突然吹き込んできた風がやんだ時、影はもう消えていて、ベッドに横たわったままの当麻と、征士だけがいた。
「当麻っ!」
 辺りを見回しても、征士の声に応えるものは何も無かった。





「当麻っ!」
 自分の声に征士ははっとして、意識を取り戻した。顔を上げれば、目の前に当麻の顔がある。
 ── 眠ってしまっていたのか。では、あれは夢か……?
 自分が見たあの当麻の影は、ただの夢だったのだろうか。それとも……。
 征士は『ここが、おまえのいるべき場所だ』と、そう告げた時の、何とも言えぬ切なげな表情を浮かべた当麻の顔を思い返した。
 ── ……当麻……。
 考えに沈んでいた征士の耳に、ドアをノックする音が届いた。
「はい」
 答えて立ち上がる。征士の応えにドアが開いて、入ってきたのはナスティだった。
「ナスティ」
「遅くなってごめんなさいね。当麻の様子はどう?」
 征士は首を横に振った。
「……相変わらずだ」
 二人並んで、静かに眠り続けている当麻を見つめる。何も変わってはいない。
「遼たちが着くまでに目覚めてくれれば、と思っているのだけど……無理、かしらね」
 そう言って、ナスティは瞳を伏せた。
「……すまない……」
「征士、何を謝るの?」
「心配と迷惑ばかりをかけて……」
「いまさら何を気にしてるの。私が好きでやっていることなんだから気にしないで。面倒だなんて、迷惑だなんて、そんなふうに思ったこと、一度も無いわ。本当よ。だからあまり気を遣わないで」
「ナスティ」
 初めて出会った頃は自分よりも背が低かったはずなのに、いつの間にか追い越した征士を、ナスティはどこか淋しげな微笑みを浮かべながら見上げた。
「さ、今日はもう帰りましょう」
 征士を促すと、窓を閉めブラインドを下ろして、二人は当麻の病室を後にした。
 パタンと、ドアが小さな音を立てて閉められた時、当麻の瞼が小さく震えていた。





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