── ここは何処なんだろう……。
彼は、自分の周りを見回した。
── 俺、どうしたんだっけ? 確か飛行機に乗ってて、もう少しで成田に到着ってアナウンスを聞いて、それから……。
記憶を手繰ってみる。
飛行機が着陸態勢に入った時に、急にガクンと大きなショックがあったのを思い出す。その後はよく覚えていない。記憶が混乱している。ただ、その状況から導き出される答えは、事故、ということだった。
── ……ってことは、俺、死んだわけ? で、ここは死後の世界って?
彼はもう一度、辺りを見た。
自分の足下にあった白い物── 雲── が消えて── 、いや、風に流されていく。
眼下に広がるのは、街だった。大きなビルや人家、その間を走る自動車、そして行き交う人、人、人── 。それが彼に自分がいるところを教えてくれた。
── ……空に、いるのか……。
彼は以前にも空を飛んだことがあった。しかしその時の感覚とはまるで違う。というよりも、今は感覚はなかった。何も感じない。
── つまり、意識だけがここにあるということか。事故の時に、意識だけが弾き飛ばされたってところだな。
彼の少し上を、飛行機が飛んでいくのが見えた。
この状況に、彼はさして動揺は覚えなかった。
こういう状態を生み出した切欠は、事故なのだろう。そして躰から飛び出した── 抜け出したと言った方が正しいのかもしれない── 意識は、彼の心の底に秘められていた望みを果たしたのだ。
空に対する憧れは、幼い頃から強かった。
それは人ならば誰しもが多少なりとも持っているものだろう。大空を飛びたいという夢が、ライト兄弟に飛行機を発明させ、それから人類の歴史から見ればほんの僅かの間に、人類を月に、宇宙にまで運んだ。
しかし彼の持つ想いはそれとはまた異なっていた。
空を飛びたいのではない。空に、還りたかった。
なぜそんな想いを持ったのかは自分でも分からない。ただ空を見上げるたびに、空に還りたい、とそう思った。
それは彼が天空の将たる宿命の下に生まれたからなのかもしれない。天空の鎧は、その名が示すが如く、空の、そして風の鎧。それ故に、彼にとって空はとても近しいものだった。そのことが彼の空に対する想いを増幅させていたのかもしれない。
地上に残された自分の躰がどうなっているのか、気にならないでもなかったが、それよりも今は空にいる喜びの方が大きかった。
ここには、彼を煩わせるようなものは何もない、誰もいない。ここにいれば辛いことも哀しいことも何もない。親のことも、学校のことも、周りのことなど何も考えずに済む。
一人で、自由にどこ何処までも翔んでいける── 。
ナスティの知り合いの病院に当麻を移してから三日。当麻には何の変化も見られない。数日後には残りの三人もやってくることになっている。
病院から戻って遅い夕食を摂った後、ナスティと征士はこれからのことを話した。
「とにかく病院の方では、何も打つ手が無いというのよ。どこにも異常が認められなくて、原因がさっぱり分からないから、治療のしようがないって」
「傷の方は?」
「そちらはもう殆ど治っているわ。だから余計分からないのよ。事故にあった他の人だって、傷の程度の差はあれ、本当に重症の人を除けば、皆、意識ははっきりしているの。当麻だけなのよ、あんなふうに眠り続けているのは」
「……確証は無いのだが……」
暫く何かを考え込むようにしていた征士が、徐ろに口を開いた。
「なあに?」
「当麻の意識が、躰から離れているのではないか?」
「……どういうこと……?」
「理解りやすく言えば、幽体離脱のようなものだ」
「幽体離脱?」
「そうだ。意識がそこに無ければ、肉体はただの器にすぎない。となれば、他の者にはただ眠っているだけにしか見えないのも当然のこと。当麻がそういう状態だと言いきれるほどの確信は無いが、あり得ぬ話ではない」
征士の言葉にナスティは暫く考え込み、征士は口を挟むことなく、その様子をじっと見ていた。
「……もしもあなたの言うとおりだとすれば、確かに今の当麻の状態にも納得はいくわね……」
「だが、さっきも言ったように確信は無い」
「確かめる方法は無いの?」
「……鎧珠の力を借りれば、あるいは……」
「少しでも可能性があるのなら、やってみてちょうだい。今のままでいいはずなんて無いんだから」
「分かった。明日、やってみよう」
「お願いね。そうと決まったら、明日も早いことだし、もう休んだ方がいいわね。お風呂、見てくるわ」
ナスティが席を立った後、征士はナスティに告げた自分の言葉を、心の中で繰り返した。
── 意識が、躰から離れている……。
実を言えば、病室で最初に当麻を見た時からそうではないかと思っていた。
真実を見抜くことの出来る礼将光輪たるが故に、そこに当麻はいないと、識れた。ここに在るのは、羽柴当麻という人間の器にすぎぬのだと、光輪の将は一瞬のうちに理解した。
しかし征士はそれを認めたくはなかった。信じたくはなかったのだ。
自分の考えすぎであってくれと祈りながら、彼は待った。当麻が帰ってくるのを。だが彼の祈りは虚しく、事故から一週間、当麻の意識はまだ戻らない。
帰ってこれないのではない、帰ってこないのだ。
鎧戦士の智将たる天空が、たとえ自分の意思以外で意識を躰から切り離されたのだとしても、帰ってこれぬはずがない。そうと意識してのことではないのかもしれないが、帰る意思が無いのだ。彼は、羽柴当麻として生きることを、人間として地上にあることを拒否しているのかもしれない。
「馬鹿者が……っ!」
征士は自分の出した結論に顔を歪めた。
翌日、ナスティにも席を外してもらい、病室の中には征士と当麻の二人だけになった。当麻は変わらずに眠り続けている。
征士は懐から鎧珠を取り出した。
どうすればよいのか自分は知らないが、きっと鎧珠は知っているだろうと思う。
征士は全てを鎧珠に任せることにして、左手に鎧珠を持ち、右手を当麻の額に当てると、瞳を閉じて珠に自分の意識を集中させた。
鎧珠が微かに発光し始める。
征士の意識が、深く深く下りていく、どこまでもどこまでも……。
そこには何も無かった。どこまで行っても何も無い。ただ、空虚だった。
鎧珠の発光が止まり、ほどなく、征士がゆっくりと目を開いた。
「……私の思い違いであってくれればと、思っていたのだがな……」
征士は右手で前髪を掻き揚げながら、小さな声で呟いた。
「当麻……我等が智将たる天空の当麻よ、今になっておまえは……、おまえは我等を、仲間を見捨てるのかっ!」
決して大きな声ではなかったが、そう叫んで、征士はベッドの上の当麻を見据えた。
どのくらいの間そうしていたのか、ドアをノックする音に征士は振り返った。少しの間をおいてドアが開けられ、ナスティが顔を見せる。
「征士、入ってもいい?」
「……ああ、構わない」
ナスティは静かに征士に歩み寄った。
「どう、だったの?」
征士はナスティの問いに俯き、それからもう一度、当麻に目を向けた。
「……当麻は……いなかった」
「……そう……」
ナスティは征士の答えに頷いただけだった。
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