空に還る 【2】




 ── ここは何処なんだろう……。
 彼は、自分の周りを見回した。
 ── 俺、どうしたんだっけ? 確か飛行機に乗ってて、もう少しで成田に到着ってアナウンスを聞いて、それから……。
 記憶を手繰ってみる。
 飛行機が着陸態勢に入った時に、急にガクンと大きなショックがあったのを思い出す。その後はよく覚えていない。記憶が混乱している。ただ、その状況から導き出される答えは、事故、ということだった。
 ── ……ってことは、俺、死んだわけ? で、ここは死後の世界って?
 彼はもう一度、辺りを見た。
 自分の足下にあった白い物── ── が消えて── 、いや、風に流されていく。
 眼下に広がるのは、街だった。大きなビルや人家、その間を走る自動車、そして行き交う人、人、人── 。それが彼に自分がいるところを教えてくれた。
 ── ……空に、いるのか……。
 彼は以前にも空を飛んだことがあった。しかしその時の感覚とはまるで違う。というよりも、今は感覚はなかった。何も感じない。
 ── つまり、意識だけがここにあるということか。事故の時に、意識だけが弾き飛ばされたってところだな。
 彼の少し上を、飛行機が飛んでいくのが見えた。
 この状況に、彼はさして動揺は覚えなかった。
 こういう状態を生み出した切欠は、事故なのだろう。そして躰から飛び出した── 抜け出したと言った方が正しいのかもしれない── 意識は、彼の心の底に秘められていた望みを果たしたのだ。
 空に対する憧れは、幼い頃から強かった。
 それは人ならば誰しもが多少なりとも持っているものだろう。大空を飛びたいという夢が、ライト兄弟に飛行機を発明させ、それから人類の歴史から見ればほんの僅かの間に、人類を月に、宇宙にまで運んだ。
 しかし彼の持つ想いはそれとはまた異なっていた。
 空を飛びたいのではない。空に、還りたかった。
 なぜそんな想いを持ったのかは自分でも分からない。ただ空を見上げるたびに、空に還りたい、とそう思った。
 それは彼が天空の将たる宿命(さだめ)の下に生まれたからなのかもしれない。天空の鎧は、その名が示すが如く、空の、そして風の鎧。それ故に、彼にとって空はとても近しいものだった。そのことが彼の空に対する想いを増幅させていたのかもしれない。
 地上に残された自分の躰がどうなっているのか、気にならないでもなかったが、それよりも今は空にいる喜びの方が大きかった。
 ここには、彼を煩わせるようなものは何もない、誰もいない。ここにいれば辛いことも哀しいことも何もない。親のことも、学校のことも、周りのことなど何も考えずに済む。
 一人で、自由にどこ何処までも()んでいける──





 ナスティの知り合いの病院に当麻を移してから三日。当麻には何の変化も見られない。数日後には残りの三人もやってくることになっている。
 病院から戻って遅い夕食を摂った後、ナスティと征士はこれからのことを話した。
「とにかく病院の方では、何も打つ手が無いというのよ。どこにも異常が認められなくて、原因がさっぱり分からないから、治療のしようがないって」
「傷の方は?」
「そちらはもう殆ど治っているわ。だから余計分からないのよ。事故にあった他の人だって、傷の程度の差はあれ、本当に重症の人を除けば、皆、意識ははっきりしているの。当麻だけなのよ、あんなふうに眠り続けているのは」
「……確証は無いのだが……」
 暫く何かを考え込むようにしていた征士が、徐ろに口を開いた。
「なあに?」
「当麻の意識が、躰から離れているのではないか?」
「……どういうこと……?」
理解(わか)りやすく言えば、幽体離脱のようなものだ」
「幽体離脱?」
「そうだ。意識がそこに無ければ、肉体はただの器にすぎない。となれば、他の者にはただ眠っているだけにしか見えないのも当然のこと。当麻がそういう状態だと言いきれるほどの確信は無いが、あり得ぬ話ではない」
 征士の言葉にナスティは暫く考え込み、征士は口を挟むことなく、その様子をじっと見ていた。
「……もしもあなたの言うとおりだとすれば、確かに今の当麻の状態にも納得はいくわね……」
「だが、さっきも言ったように確信は無い」
「確かめる方法は無いの?」
「……鎧珠の力を借りれば、あるいは……」
「少しでも可能性があるのなら、やってみてちょうだい。今のままでいいはずなんて無いんだから」
「分かった。明日、やってみよう」
「お願いね。そうと決まったら、明日も早いことだし、もう休んだ方がいいわね。お風呂、見てくるわ」
 ナスティが席を立った後、征士はナスティに告げた自分の言葉を、心の中で繰り返した。
 ── 意識が、躰から離れている……。
 実を言えば、病室で最初に当麻を見た時からそうではないかと思っていた。
 真実を見抜くことの出来る礼将光輪たるが故に、そこに当麻はいないと、()れた。ここに在るのは、羽柴当麻という人間の器にすぎぬのだと、光輪の将は一瞬のうちに理解した。
 しかし征士はそれを認めたくはなかった。信じたくはなかったのだ。
 自分の考えすぎであってくれと祈りながら、彼は待った。当麻が帰ってくるのを。だが彼の祈りは虚しく、事故から一週間、当麻の意識はまだ戻らない。
 帰ってこれないのではない、帰ってこないのだ。
 鎧戦士の智将たる天空が、たとえ自分の意思以外で意識を躰から切り離されたのだとしても、帰ってこれぬはずがない。そうと意識してのことではないのかもしれないが、帰る意思が無いのだ。彼は、羽柴当麻として生きることを、人間として地上にあることを拒否しているのかもしれない。
「馬鹿者が……っ!」
 征士は自分の出した結論に顔を歪めた。





 翌日、ナスティにも席を外してもらい、病室の中には征士と当麻の二人だけになった。当麻は変わらずに眠り続けている。
 征士は懐から鎧珠を取り出した。
 どうすればよいのか自分は知らないが、きっと鎧珠は知っているだろうと思う。
 征士は全てを鎧珠に任せることにして、左手に鎧珠を持ち、右手を当麻の額に当てると、瞳を閉じて珠に自分の意識を集中させた。
 鎧珠が微かに発光し始める。



 征士の意識が、深く深く下りていく、どこまでもどこまでも……。
 そこには何も無かった。どこまで行っても何も無い。ただ、空虚だった。



 鎧珠の発光が止まり、ほどなく、征士がゆっくりと目を開いた。
「……私の思い違いであってくれればと、思っていたのだがな……」
 征士は右手で前髪を掻き揚げながら、小さな声で呟いた。
「当麻……我等が智将たる天空の当麻よ、今になっておまえは……、おまえは我等を、仲間を見捨てるのかっ!」
 決して大きな声ではなかったが、そう叫んで、征士はベッドの上の当麻を見据えた。





 どのくらいの間そうしていたのか、ドアをノックする音に征士は振り返った。少しの間をおいてドアが開けられ、ナスティが顔を見せる。
「征士、入ってもいい?」
「……ああ、構わない」
 ナスティは静かに征士に歩み寄った。
「どう、だったの?」
 征士はナスティの問いに俯き、それからもう一度、当麻に目を向けた。
「……当麻は……いなかった」
「……そう……」
 ナスティは征士の答えに頷いただけだった。





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