愛しき日々 【2】




 ── 戦っている間は、家や家族のことな忘れていたがな。
 征士が言ったように、戦いの間にはそんな── といっては御幣があるが── ことを考えている余裕など有りはしなかった。思い出したことなど、一度もなかったと言っても過言ではない。自分だけかと思ったら、結局のところ、皆も似たようなものだったらしい。
 けれど、家族、と言われて当麻が思い出すのは、父でもなく母でもなく、祖父母だった。
 父親は自分の研究しか眼中になく、母親もまた仕事で世界中を飛び回っていた。そうしてそんな二人の一人息子である当麻を育てたのは、父親の両親── 当麻にとっては祖父母── であった。
 両親に捨てられたも同然の子供だった。子供は他人の手に任せきりで顧みることはなく、とうとう堪りかねて、祖父母が当麻を引き取ったのだ。
 ── おまえたちに子供を育てる資格などない!
 滅多に人を怒鳴るということをしないお祖父さんが、あの時ばかりは二人を前に怒鳴りまくってねぇ、と後で祖母に聞いた。
 繕いものをしながら、祖母は当麻に言うとでもなく口にしていたものだ。
「源一郎にも困ったものだけど、麻子さんもねぇ……。キャリア・ウーマンか何か知らないけど、夫が仕事仕事で家にいないから自分も、みたいに……。妻たるもの、夫がいないのならばなおのこと、たとえ何らかの仕事を持っていたとしても、その留守を守って子供を育てて── それが本分なのに。子供を産みっぱなしで放りっぱなしにして。私のは古い考えなのかねぇ。けど、お祖父さんじゃないけど、あの人には母親の資格なんてないよ。まさかこの齢になって子育てしなきゃならないなんて思いもよらなかったよ。おまえだって、麻子さんが、お母さんが母親としてもっとしっかりしてたらこんなふうにはならなかったろうに。可哀そうなのはおまえだよね。本当に困ったお母さんだよ」
 当麻は人と話をするということがなかった。言葉が話せないわけではない。人の言っていることが理解できないわけではない。単に理解する、という意味でなら、当麻は子供とは思えないほどに理解(わか)っていた。だが、当麻は話すということをしなかった。乳幼児の頃なら、言葉が遅いのかもしれないと、単にそれだけで済んだだろう。けれど六歳近くになってそれでは済まされない。失語症かとも思って医者に連れていったりもしたが、そうでもなさそうだった。ただ、喋らないのだ。
 そしてもう一つ、当麻は常に人との間に一定の距離を置いていた。ある距離からは決して近寄ろうとはしない。他人にだけではなく── 他人に比べれば多少その距離は短くはあったが── 祖父にも祖母にも。近寄ろうとすると離れてしまう。そしてただ見つめているのだ。まるで捨てられた仔猫のような()をして。
 泣くということも、笑うということもしなかった。嬉しいとか、淋しいとか、そんなことも知らないのかと思ってしまう程に、言ってしまえば、感情の欠落したような子供だった。
 そんな孫を、祖父母はどう接していいものか、扱いかねていた。それでも祖父母にとって、当麻は息子夫婦の一人息子で、自分たちにとってはたった一人の孫だった。
 祖母は時々愚痴を零しながらも優しい手を差し伸べ、祖父も優しい眼差しで語り掛け、そうして、間にあった距離をなくしていって、当麻がくったくなく、話し、笑うようになるまで半年以上掛った。
 ここにいてもいいのだ、この人たちには甘えてもいいのだ、自分の思ったことを素直に言って構わないのだ、この人達は自分を守ってくれる人なのだ── と、そう当麻が真に理解するまで、それだけの時間が()ったのだ。親がいながら親を知らずに育った当麻が、初めて知った温もりだった。
 当麻はIQが250もある天才だと知れてどんなに世間が騒いでも、祖父母二人にとっては、親に見捨てられた可哀そうな、そして目に入れても痛くないほどに可愛い孫でしかなかった。そして当麻にとって、祖母の懐は唯一の安らげる場所で、祖父は唯一の理解者だった。





「いつ……?」
「……三月(みつき)になるかねぇ……。連絡しようにも、おまえがどこにいるのかすら分からなくて……。最期まで、お前の無事を祈っていたよ」
 ── 三月前……。妖邪界にいた頃か……。
 玄関のドアが開く音がして、ドスドスと大きな足音が近づいてきた。
「母さん、当麻が帰ってきたそうですね」
 怒鳴るように言いながら、当麻の父親である源一郎が仏間に入ってきた。
「源一郎」
 当麻は自分を見下ろす父親を、これが実の父親を見つめる瞳かと思うような表情のない顔で黙って見上げていた。
「当麻……」
 源一郎の握りしめられていた拳が振り上げられたかと思うと、次には当麻の頬を殴っていた。
「源一郎!!」
「この馬鹿者が! 一年近くもの間、どこをうろついていた!? おまえを育ててくれた祖父さんの葬儀にも出ずに、おまえという奴は……!!」
 そう叫びながら再び殴ろうとする源一郎を、祖母が縋るようにして止める。
「いいんだよ、源一郎、いいんだ。お祖父さんは分かってたんだから」
「母さんっ!!」
 すっ、と当麻が立ち上がった。
「祖母ちゃん、俺、疲れてるから悪いけど先に(やす)むね」
 そう告げると、当麻はさっさと部屋を出た。その当麻の後ろ姿に源一郎が怒鳴りつける。
「当麻、おまえという奴は!! やっと帰ってきたと思えばその態度は何だ、それが父親に対する態度か!? 当麻っ!!」
「源一郎! おまえにいまさらあの子に父親ですなんて言う資格はないよ!」
 二人の言い合いを背に当麻は一年ぶりに自室に戻った。そこは一年前に出ていった時と何も変わっていなかった。全てが元のままで──
 一年前、東京に行く前日の夜、この部屋で、祖父と二人し水盃を交わしたのだ。



「……行くか、当麻」
「……うん」
 夕食の後、早々に部屋に戻って荷物の整理をしている当麻に、祖父が確認するために聞いた。
 行くか、とそれだけで理解(わか)っていた、祖父も孫も。
 先祖代々受け継がれてきた宝珠、それの真なる後継者が当麻だと知れたのは、一人の雲水が現れた時だった。その雲水が語る、珠の後継者が背負うあまりにも重すぎる宿命(さだめ)を、二人は何も言わず、ただ黙って受け入れた。
「明日、学校に休学届け出したら、ここには戻らずに真っ直ぐ新幹線に乗るよ。とりあえず、横浜で秀と落ち合って、あいつん家から東京に行くってことで話をつけてある」
「秀坊か。あれが一緒だったのはおまえには幸いと言うべきかの。おまえは人見知りが激し過ぎる。確か他に仲間が三人だと言っておったが……。おまえ、やっていけるのか? 儂にはそれが心配でな。それに何より……」
「……祖父ちゃんが何を心配してるかは分かるよ。人間嫌いの俺が、妖邪から人間を護る戦いなんてできるのかってことだろ? 確かに俺、自分も含めて人間て奴はあまり好きじゃないけど……。でも俺、祖父ちゃんが好きだよ、祖母ちゃんも、秀も。それに、人間て、悪いところばかりじゃなくて、良いところもたくさんあるのは、俺にだって分かってるよ。それにさ、この世界が妖邪のものになって大勢の人が不幸になったり死んでいくのは嫌だしね。だから、護りたいと思う。
 それと他の三人のことだけど、大丈夫だよ、上手くやれるさ。この世にたった五人きりの仲間なんだから。俺には無理かもしれないけど、でも、“天空”としての俺ならきっと上手くやれるよ」
 祖父の言い淀んだ言葉を察して、本の整理する手を動かしながら、半ば自分に言い聞かせるように言葉を綴っていた当麻だったが、ふとその手を止めて、自分の部屋を見廻した。
「……もう一度、この部屋に戻ってこれるのかな……?」
 囁くように小さく呟いたその声を、祖父は聞き逃さなかった。
「こら当麻、戦う前からそんな弱気でどうする! そんなことでは、勝てるもんも勝てんぞ」
「……そう、だね」
 祖父に言われて小さく頷いた当麻の、まだ僅かに自分よりも低い位置にある頭を、祖父の皺だらけだが大きく温かな手が撫でた。
「ちょっと待っていなさい」
 一言告げて部屋を出ていった祖父は、五分と経たずに戻ってきた。小さな盆に提子(ひさげ)と盃を乗せて──
「何を突っ立っとる。座らんか」
 祖父に促されて、当麻は向かい合う形で腰を降ろした。
「ほれ」
「俺、まだ未成年だぜ」
 言いながら、当麻は祖父が差し出した盃を受け取った。それに祖父が提子の中身を注いでいく。
── !」
 軽く口をつけて、当麻は祖父の顔を見上げた。祖父はただ慈愛に満ちた眼差しで当麻を見つめている。
 当麻は盃の中身を飲み干すと祖父に盃を返し、今度は当麻がその盃を満たした。
── 本当は、水盃というのは再会の叶わぬ別れの時に交わすものだがな……。お前が死地に赴くとは思いたくない。帰ってこい、必ず。これはその約束だ。おまえが無事に帰ってきたら、その時は本物の酒を酌み交わそう。な、当麻」
「……うん……」
 涙を堪えるかのように唇を噛み締め、当麻は小さな、注意していないと聞き洩らしてしまいそうな、本当に小さな声で頷きながら答えた。
「これ、男のくせに泣く奴があるか」
 当麻の肩が小さく震えている。
「必ず帰ってこい、待っているから。婆さんと二人で、お前が帰ってくるのを待っているから。おまえは儂等のたった一人の可愛い孫だ。そのおまえに先に逝かれるほど辛いことはない。だから必ず生きて帰ってこい」
 祖父の言葉に、当麻はただ頷くことしかできなかった。零れ落ちた涙が、膝の上に染みを作っていく。
「……素直になれよ。仲間に心を開けよ。時には自分を曝け出すことも必要だ。それができねば本当の仲間とは言えん。命を掛けて共に戦う、何よりも信じ合わねばならぬ仲間だ。分かるな、当麻」
「……うん……」
 祖父はすいと立ち上がると、当麻の傍らに膝を着いた。
「当麻」
 優しく呼び掛けて、少しかさついた、大きく温かな手で当麻の頭を撫ぜた。
「今晩は、久しぶりに昔みたいに、婆さんと三人で川の字になって寝るか、ん?」
 もしかしたら、これが最後になるのかもしれない、この人の温もりに触れるのは── 。そう思うと、涙が止まらない。
 他人はこの孫を、聡く、年齢よりもずっと大人びて物分かりのいい子だという。彼が大人びた振る舞いをするのも、物分かりがいいというのも、全ては他人から自分を守るために身に付けた手段にすぎないというのに。他の誰が知るだろう。彼が自分の感情を素直に表現することが酷く苦手で、精神的には実際の年齢よりも遥かに幼いのだということを──
 祖父は、昔、幼い当麻を抱き締めたように、まだ僅か14で、人間(ひと)ならざる物との戦いに赴こうとしている孫を優しく抱きとめた。



 ── 俺、約束どおりに帰ってきたんだぜ……。だのに、なんで待っててくれなかったんだよ……。あれほど待ってるって、そう言ったのに……。祖父ちゃん……っ!!



「当麻!」
「お祖父ちゃん!」
 外から戻ってきた祖父が、愛しげに孫の名を呼ぶ。その声に、当麻は嬉しそうに駆け寄ってくる。祖父は懐に飛び込んできた幼い躰を大きな手で抱き上げた。
「今日は何をしていた?」
「あのねぇ、お祖母ちゃんのお手伝い。お洗濯したものをたたんだり、お庭の草をむしったりしたんだよ」
「そうかそうか、当麻はいい子だな」
「うん」
 当麻は屈託のない笑みを浮かべて、自分を抱き上げている祖父にしがみついた。
 最近になって漸く笑うということを覚えた孫の、その笑顔を嬉しそうに目に留めながら、頭を優しく撫でてやった。



 ── いい子だな、当麻。
 幼かった日々、そう言いながら頭を撫でてくれた大きな手……。
 厳しい時もあったけれど、いつも優しかった。頑なだった自分の心を包み込んでくれた人。初めて人の温もりを教えてくれた人だった。けれどその祖父はもうどこにもいないのだ。
 かつては祖父と祖母と幼い自分と、それが世界の全てだった。現在(いま)までの中で最も優しい、幸福な時間(とき)だった。 過ぎ去ってしまった、もう二度と還らぬその日々が、愛しく、懐かしい。
「……俺、まだ何もしてないのに……。育ててもらっただけで、何も返してないじゃないか……っ! 祖母ちゃんと二人で待ってるって言ったのに……嘘、ついたのかよ……」
 涙が溢れて止まらない。
 昔は、泣く、なんてこと、そんなことができるなんてことすら知らなかったのに。なのに、なぜ、現在の自分はこうも泣くことができるのだろう。





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