新しき始まりの日に 【2】




 漸く当麻が自分に応えてくれるようになったことが嬉しくて仕方ない。まだまだ必要最低限のものでしかなかったが、それでも、やっと自分に応えてくれるようになったのだから、最初の時の事を思えばl大した進歩だと思うのだ。
 察するに、今まで人に触れるということがなかった為、人に対してどう接していいのか分かっていなかったのではないだろうか。そしてそんな風に育ってしまったのは、親の、つまりは自分の息子夫婦の責任なのだ。このままこの子をあの息子夫婦に任せておいてよいものかと、真剣に考えてしまう。
「ねえ当麻、おまえ、お祖母ちゃんの家に来る気はないかい?」
 祖母の言葉に、当麻は目を丸くして見つめ返した。
「……?」
「お父さんやお母さんと離れて、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと当麻と、三人で暮らす気はないかい?」
 当麻の髪を梳きながら問い掛ける。
「……分かんない……」
「困らせる質問しちゃったかね。言ってみただけだから、忘れていいよ。さ、もう少し寝なさい。まだ完全に治ってはいないんだから」
 瞳を伏せて躊躇いがちに答える当麻に、頬笑みを浮かべながら言葉を掛ける。そうして横になった当麻の肩を冷やさないように毛布を掛け直してやってから部屋を出ようとした祖母を、当麻が小さな声で呼び止めた。
「お祖母ちゃん……」
「何だい?」
 呼び止めたものの、何をどう言ったらいいのか分からず、口を噤んでしまう。祖母はそんな孫の姿に、焦ることなく再び口を開くのを辛抱強く待った。
・・・・・・僕、お祖母ちゃんのこと、好きだよ」
 一語一語、確かめるように言葉を綴る。
「お父さんよりも、お母さんよりも」
「ありがとう。お祖母ちゃんも、当麻のこと、大好きだよ」
 微笑(わら)いかけながらそう返した時、当麻は初めて小さな微笑みを見せた。



 祖父母が当麻を引き取ったのは、それから半年ほど後のことだった
 家に戻ってからもずっと当麻の様子が気に掛っていた。またあの家でたった一人で、両親に構われることなく過ごしているのだろうかと。
 母親である麻子は、人見知りするのが難点だが、それを除けばばおとなしくて物分かりのいい子だと、そう当麻を評していた、けれど、共に過ごした二週間── そう、最初は一週間程と言う話だったのが、結局はその倍になったのだ── 程で、それは違うと分かった。
 人見知りするのは、人と接することに慣れていないからだ。自分以外の人間に対してどう接していいか分からず、分からないから人から距離をおき、そしてさらに分からなくなる。その繰り返しで、他人といるということそのものに臆病になってしまっている。
 物分かりがいいというのも、物分かりがいいのではなく、諦めてしまっているのだ。仕事に追われてろくに家にいず、自分を顧みない両親に対して、何かを望むということを断念してしまっているのだ。望んでそれが叶わないと嘆くよりも、最初から何も望まなければ、後で嘆くことはないのだからその方がいい。
 何も聞こえない、何も望まない、何も……。そして自分一人の思考の世界に入る。自分だけの殻の中に閉じ籠もる。そうすれば誰も自分を傷つけることはできない、傷つくことはない──
 それが幼い当麻が自分を守るために身につけた手段だったのだ。
 なまじ頭が良かったことが、当麻の不幸だったのかもしれない。
 求めても無駄なのだと、五歳にも満たないうちにそう悟り、諦めることを覚えてしまった。普通ならばまだまだ親の温もりが欲しい時、親に甘えたい時であるのにも関わらず。
 久しぶりに会った当麻はまた元に戻ってしまっていて、あの時に無理にでも連れ帰ればよかったのかもしれないと、祖母を後悔させた。そして自分を見上げる幼い当麻の、まるで感情を殺したかのようなその瞳に、ただ黙ってその小さな躰を抱き締めてやることしかできなかった。
「おまえたちに親として子供を育てる資格などない! 当麻は儂等で育てる!」
 妻から話は聞いていたものの、実際に目にした、まるで感情というものが欠落しているかのような当麻の様子に、物静かな祖父にしては珍しく息子夫婦を怒鳴り付け、そして反論する間も与えずに当麻を連れ出した。
 家を出る時、当麻は一度も振り返りはしなかった。なんの感慨もないとでもいうように、生まれ育った家を後にした。



「当麻」
「当麻」
 祖父が、祖母が、孫の名を呼ぶ。手を差し伸べ、抱き締めて抱き締めて、人の温もりを与える。
 確かに一度は心を開きかけたのだ。心を開いてくれさえすれば、この子はどんなに素直に育つか知れないと、「お祖母ちゃんのこと、好きだよ」と、そう言った時の、初めて見せた笑顔を思い出すたびに思う。
 時にはどう接してよいものかと悩むこともあったが、それでも根気よく、決して焦らずゆっくりと時間をかけて、当麻の心を開かせるために語りかけてゆく。



 当麻が祖父母の元での生活に漸く慣れた頃、麻子が訪ねてきた。
「今、当麻を呼んでくるから」
「いえ、その前にお義母さまにお話が」
 一旦上げかけた腰を、再び下ろして嫁と向い合う。
「実は、源一郎さんと離婚(わか)れることになりました」
「麻子さん!?」
「色々と話し合った結果、このまま一緒にいても仕方ないということになりましたの。むしろ、お互いに仕事を続けていく上で、家族というのは足枷になりかねないということで」
「足枷? 一体何が足枷なの!? 今までだって好きにやってきたでしょう? 第一、当麻のことはどうするつもりなのっ!?」
 麻子の言葉に思わず腰を浮かせていた。
「当麻のことは特に心配していませんわ。頭もいいし、物分かりもいい子ですから、きちんと話せば分かってくれると思います」
「麻子さん、あなた、当麻を幾つだと思ってるの。あの子はまだたった五歳なんだよ。なのにあの子は……。あなたは、あの子を見ていて不安にならないの? 他の同じ年頃の子に比べて、あの子がどんなに……」
「確かにあの子は普通の子とは違いますわね。それは分かりますわ。でもそれは当然なんじゃありませんの? 当麻のIQの高さは並みのものではありませんもの」
「あなたという人は……! お祖父さんの科白じゃないけど、あなたにあの子の母親だという資格なんかありませんよ、本当に」
 呆れたように、けれど怒りを込めて言う義母に、麻子が眉を顰める。
「あんまりな言い様ですのね。でも当麻を産んだのは私です、私はれっきとしたあの子の母親ですわ」
「あなたはただ産んだだけでしょう? 当麻に対して母親として一体何をしたというの? 子供を放りっぱなしにして、母親らしいことを何一つせずに、そんな人がどうして親だなんて言えるんですか」
「確かに仕事に追われてばかりで、あまりあの子のことを構ってやることはできませんでしたけど、でも、私は母親として自分のお腹を痛めて産んだあの子のことを愛しています。決して邪険になどしていませんわ。それに、いつも一緒にいて抱き締めて頭を撫でてやることだけが、母親の愛し方ではありませんでしょう。私は私なりに、母親としてできることをしています」
「それはあなたが勝手にそう思っているだけでしょう、あなたの自己満足ですよ。やっぱり最初から無理だったんですよ、あなたたちの結婚は。ましてや碌に子供の面倒も見ることのできないような人が親になるなんて、生まれた子が可哀想ですよ」
 冷たく言い放つ姑に、テーブルの下で握りしめられた麻子の手が小刻みに震えている。
「……お義母さまが嫁としての私に不満をお持ちなのは存じてますし、自分でも至らないのは承知してますけれど、そこまで言われる筋合いはないと思いますわ。
 まあそれはともかく、当麻のことですけど、このままこちらで育てていただけるんでしょうか? 無理だと仰るなら、もちろん私の方で引き取ります。何と言っても私は母親ですし、少なくとも、源一郎さんの元に置くよりはましだと思いますから」
「私が育てますよ、あなたや源一郎なんかに任せられるもんですか!」
「ではお願いいたします。源一郎さんと離婚れた後は東京に移ることになると思いますので、落ち着き先が決まりましたら連絡先だけお知らせしますから」
「そんなもの必要ありませんよ」
「あら、そんなことはありませんわ。源一郎さんと離婚れても、私が当麻の母親であることに変わりはないんですから。それに離婚れるといっても、お互いに嫌いになって離婚れるわけでなし、単に書類の上のだけのことですから」
 この嫁の、というよりも息子夫婦の考え方にはついていけないと、怒りと、そして呆れとか諦めとか、そなものが綯い交ぜになって、もはや言葉もなく、ただ大きな溜め息だけが出る。
「帰る前に、当麻に会わせていただけます?」
 その言葉に、会わせないわけにもいくまいと、当麻を呼ぶために腰を上げる。
 廊下に一歩足を踏み出して、そのまま立ち止まった。
「……当麻、おまえ……」
 目の前に、真っ直ぐ自分たちの方を向いて立っている当麻がいた。
 聞いていたいのかい、との問いを、声に出さずに飲み込んだ。
「……おいで、お母さんが来てるんだよ」
 言って、手を差し出す。その手に、少しの間をおいて当麻が自分の小さな手を乗せた。祖母に手を引かれて茶の間の中に入り、母親と向かい合う。
「当麻、久し振りね。いい子にしてた?」
 微笑みを浮かべながら問い掛けてくる母親の言葉を聞きながら、当麻は祖母の手を握る手に、力を入れた。それに気付いて包み込むように握り返してやる。
「今日は当麻に大切なお話があって来たのよ。当麻は頭がいいから、お母さんの言うこと、理解できるわよね。だから正直に話すわね」
「麻子さん!」
 いきなり話を進めようとした麻子を止めようと声を掛けたが。麻子は構わずに当麻に語りかけた。
「お父さんとお母さんね、離婚することになったの。これからは違う苗字になって、別々に暮らすのよ。お母さんの言ってること、分かるわね? でもね、お父さんとお母さんが別れてしまっても、当麻にとってお父さんはお父さんだし、お母さんはお母さんであることに変わりはないわ。だから……」
 母親の言葉が、当麻の耳を擦り抜けてゆく。
 誰かが自分に話し掛けているのは分かる。けれどそれは、どこか遠いところから聞こえる雑音のように意味を持っていない。今、自分の目の前にいる女── 母親── の言っていることは何一つ聞こえてはいなかった。
 しかし、何について話をしているのかは分かっていた。なぜなら、さっき祖母と話していた会話を全部聞いていたのだから。
 この人は自分を捨てたのだと、そう当麻は理解した。





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