新しき始まりの日に 【3】




「……大阪と東京に離れても、もう会えないわけではないし……」
 当麻の小さな手の震えが、握っている掌から伝わってくる。
「当麻……?」
「……ら…ない……」
「なあに、当麻?」
 当麻が何か言いかけているのに気付いて、麻子は問い掛けた。
 下を向いて唇をかみしめていた当麻が、顔を上げて母親を睨みつけるような眼をした。
「……僕、こんな人、知らないっ!!」
「と、当麻……っ!?」
「……あ……」
 叫んで、けれど当麻は自分自身もその叫びに困惑していた。自分のしたことが、理解できていなかった。こんなふうに叫ぶというのは初めてのことで──
「当麻」
 自分の手を握ったまま戸惑いの表情を浮かべている当麻を、祖母が呼んだ。その声にはっとして、祖母の顔を見上げると、次の瞬間には祖母の手を振り払い、廊下から庭に直接飛び降りて駆け去った。
「当麻っ!」
「当麻」
 いつの間にか傍らに来ていた祖父と、そして祖母の、当麻を呼ぶ声が重なる。
 当麻は自分を呼ぶ二人の声にも振り返ることなく、全てを拒否するかのように、こんなところにはいたくないとでもいうように、庭の奥へと駆けていった。
 母親が何をどう言おうと、結局のところ、父親も母親も、自分を捨てたのだと思う。
 今までだっていない時の方が多かった。一緒に過ごすことなんてめったになかった。けれど、今度のことはそれとは違う。祖父母が自分を引き取ったことだって、仕事に専念できるぐらいに思ったに違いないのだ。両親にとっては、何よりも仕事が優先するのだから。
 ── 二人とも、もう僕なんか()らないんだ。あの人たちが僕を要らないって言うなら、僕だって要らない! お父さんもお母さんも、そんなもの要らないっ! 欲しくなんかないっ!!
 当麻は心の中で泣きながら叫んでいた。本当の涙は、一滴も流れてはいなかったのだけれど……。
「……当麻……一体……」
 当麻の叫びに呆然と立ち尽くしてしまっていた麻子が小さく呟いた。
「……こんなこと、今まで一度だってなかったのに、どうして……?」
「麻子さん」
 舅の声に振り向く。
「もう二度と来てくれるな。少なくとも当麻が大人になるまでは、当麻が望まぬ限りは、会ってはくれるな」
「お義父さま……」
「あんたは、いや、源一郎もだな、あんた等は子供の育て方を間違った。二人とも仕事が忙しいのは分かる。時間的なゆとりがないというのも、分からんではない。だがまるっきりないというわけでないだろう。ましてや自分たちの子供のための時間だ。作ろうと思えば作れないことはないはずだ。違うかね?
 子供にとって何より必要なのは、親の温もりだ。肌の触れ合いだ。だのにそれをしなかった。あんた等はただ物を与えただけだった。忙しいからといって、その代わりにただ物を与えればいいというものではない。物なんてものは、なければないで済む。代わりの物はある。しかしな、子供にとって親というものは決してそうはいかんのだ。一番大切なことを、二人とも忘れていたようだな」
「…………」
「祖母さん、当麻を探してきてくれ」
「ええ」
 姑が当麻を捜すために庭に下りて奥の方へ行くのを見送りながら、傍らの舅に向かって力なく呟いた。
「……帰ります……。当麻のこと、お願いします」
 頭を下げて、それから玄関に出た。靴を履いて、ドアを開けて── 機械的な動作で。
 当麻のたった一度の叫びが、それまでの、親としていいと思っていたことの全てを否定したのだ。
 心は通じていると思っていた。たとえ始終一緒にいてやることはできなくても、その分、決して不自由な思いをさせたことなどなかったし、心は通じていると、そう信じていた。
 だから大丈夫だと思っていたのに、それは単なる自分の思い込みでしかなかったのだと、親の勝手なエゴでしかなかったのだと思い知らされた。
“親の心子知らず”ではない。親でありながら、自分の腹を痛めて産んだ子供の心を理解していなかったのだ。
 突きつけられたその事実に、まるで冷水を浴びせられたような思いがした。しかし、いまさら自分の生き方を変えることはできそうにない。
 頑なに自分ひとりの殻に閉じ籠もってしまった当麻の心を開かせたのは、祖父と祖母の、何の見返りも求めない、純粋な、肉親としての情愛だった。
 今まで当麻が知らずに育った人の心というものを、両親から与えられることのなかった肌の温もりを教えてやる。
 嬉しければ笑えばいい、悲しければ泣いていいのだと、そして甘えるということを教えた。子供はもっと大人に── 限度はある、際限なくとはもちろんいかないが── 甘えていいのだと。
 そうして祖父母の心が通じたのだろう。いつしか、祖母の懐は当麻が最も安らげる場所となり、祖父は当麻の最高と理解者となっていった。



「当麻!」
「お祖父ちゃん」
 外出から戻った祖父が、愛しげに孫の名を呼ぶ。その声に当麻は嬉しそうに駆け寄り、祖父はは自分の懐に飛び込んできた孫の小さな躰を抱き上げた。
「いい子にしていたか、当麻」
 かさついた大きな手で頭を撫でてやると、その腕の中で、当麻は嬉しそうに笑い、自分を抱く祖父の躰に抱きついた。
「うん」
 その横で、祖母が柔らかな微笑みを浮かべている──



 小鳥の囀りで目が覚めた。一つ大きく伸びをしてベッドの上に起き上がる。
 ── ……夢を見たのなんて、随分と久しぶりだな。
 必ず生きて帰ってこいと、自分の帰りを信じて待つと言ってくれた祖父は、そして何も言わず黙って送り出してくれた祖母は、今頃どうしているだろう。二人とも変わりはないだろうか。
 妖邪との戦いが終わり、漸く落ち着いて物を考える時間ができて、そうして思い出すのは、両親よりも、自分を引き取って育ててくれた祖父母のことだった。



 優秀な科学者の父とジャーナリストの母、その二人が当麻に与えたのは、何不自由ない生活という奴だった。
 望むものも望まないものも、当麻が何も言わなくても両親は買い与えてくれた。しかし当麻にとって、そうして与えられたものは実はどうでもよいものばかりで、最も欲していたものは、結局は与えられたことはなかった。ただあの頃はそれが何であるのかもよく分かってはいなかったのだが。そしてそれを与えてくれたのが祖父であり、祖母だった。
 現在の自分が在るのは、ひとえに祖父母のおかげだと思う。
 自分だけの世界に閉じ籠もっていた彼を、最初に外の世界に出してくれた祖父母。もっともそれもまた、本当に小さな世界でしかなかったけれど。それでも初めて当麻に外に目を向けるけるということを教えてくれた。
 祖父母に引き取られてからも、その状況が状況であったために、小学校に上がるまでは同じ年頃の子と付き合った経験はなく、もちろん友人などはいなくて、友人の作り方すらも知らなかった、分からなかった。そのために祖父母と当麻の三人だけの世界から、いきなり学校という集団の社会に入った時、周りにどう対処していいのか分からなかった。祖父から話を聞かされてはいたが、話と現実では違う。加えて、当麻のIQのあまりの高さから、まるで異質なものでもみるかのような周りの人間の目が怖かった。
 クラスの中で、自分一人だけが浮いているという不安感と不安定さとに苛まれ、初めて経験するそれらのことに、当麻の心は悲鳴を上げていた。
「人間というのは弱い生き物なのさ」
 弱いから強がってみせたがるのだと、それは祖父の口癖のようなものだった。
「人間には二面性がある。理性と感情、慈愛と憎悪と……、色々とな。良い面も悪い面も、全てをひっくるめて人間になるのだ。どんなに良いいと言われる人間でも、疾しいところの全くない人間などまずいない。その逆に、どんなに悪いいと言われる人間でも、どこかしら良いところがあるものだ。この世に完全な人間などいはしない。不完全だからこそ人間なのだ。だから決して表面だけを見て、その人間を判断してはいけない。
 周りの者がおまえを恐れるのは、おまえが自分たちと違うと思っているからだ。本当はそんなことはないのにな。少しばかり他の者より頭がいいというだけで、あとは何も変わりはないのだが、皆、そうは思わんらしい。そして自分たちと異なるものを排除したがる。しかしな、だからといっておまえが自分を殺して周りに合わせる必要などはない。おまえはおまえだ、他の誰でもない。自分を見失うな。自分というものをしっかり持て。すぐには無理でもいつか必ず、本当のおまえを理解(わか)ってくれる者が現れる。
 学校というものは、ただ単に読み書きを勉強するためだけにあるものではない。学校というのは社会の縮図のようなものだ。まあ、色々と問題もあるところではあるがな。そしてな、社会に出れば、さらにもっと多くの、もっと大きな問題が待ち受けている。そして辛いからといって、それから逃げているだけでは何にもならん、それでは成長がない。それでも今はまだ学校の中だけで済むからいいが、いずれ社会に出た時にやっていけんぞ。
 男なら逃げずに立ち向かえ。そして傷ついたら、家でその傷を癒せばいい。そのために家族がいるんだ。儂と祖母さんがな」
 学校になど行きたくないと、それこそ普通の子供のように泣いた時、祖父は叱るのではなく、諭すように語りかけたものだった。
 結局、祖父に引き合わされて知り合った秀を除けば、小学校でも中学校でも友人らしい友人というのはできなかった。だが、現在(いま)はなにものにも代えがたいと思う、共に命を掛けて戦った大切な仲間がいる。
 最初の出会いは、鎧戦士の仲間として、天空の将としてだった。仲間の前では、“羽柴当麻”としてではなく、“智将天空”として在った。それがともに過ごす時間(とき)の中で変わっていった。
 まるで自分が自分でなくなっていくようで、自分の気持ちが掴みきれず、思いを持て余したりもした。それが不安で、そして怖かった。けれどその一方で、仲間といる時には自分一人ではないのだという安心感と、やっと自分の居場所を見出すことができたような、そんな心穏やかにさせるものもあった。
 そして“智将天空”ではなく、“羽柴当麻”という、不器用で人と接することが苦手な自分を、皆は『おまえのこと、好きだよ』と、そう言ってくれた。その想いに応えたいとも思う。初めて得たこの仲間を、例え他の何を失っても失いたくないと、護りたいと思う。
 この戦いを経て、仲間という存在を得たことで、自分の中の何かが変わった気がする。現在の自分は、仲間を知らず、小さな世界に閉じ籠もり、外の世界をを拒絶していたかつての自分とは違うと思う。
 そして再び仲間と会うその時の自分は、きっと今の自分とも違っているに違いない。これから先、自分がどんなふうに変わっていくかは分からないが、今までとは違う新しい何かが、これから始まるような、そんな予感がする。



 当麻はベッドから降りて窓の前に立つと、サッとカーテンを開けた。眩しい陽の光に一瞬目を細め、それから窓を開ける。部屋に吹き込んでくる朝の風が心地好い。暫し、風に心を預けて翔ばした。
「起きたのか。珍しいこともあるものだな。おまえが私に起こされる前に起きるなど。共に暮らすようになってから、初めてではないか?」
 もう一つのベッドの方から声がして、そちらを振り向くと同室者の征士が身を起していた。
「最後の日くらいはな」
 言って、微笑いかける。
「いい心掛けだ」
 そう一言言って、征士は当麻に微笑い返した。
 最後の日くらいは── そう、仲間と過ごすのも今日が最後だ。夕方までには皆それぞれに家に帰り着くだろう。
 再開を約束した。早ければゴールデンウィークには、再びここで顔を会わせることになる。しかしそれは戦いのためのものではない。戦いは終わった。次に会う時は、戦うための仲間としてではなく、かけがえのない友人として会うのだ。
「さっさと支度をして下に降りよう。いい心掛けついでに、最後くらいナスティの手伝いをしようぜ」
「そうだな」
 共に身支度を整えて階下に降りた。
 ナスティのいるキッチンからは、コトコトと包丁をさばく音と、パンの焼ける匂いがしてくる。征士と二人して、キッチンに入ってナスティに声を掛ける。
「おはよう、ナスティ」
「おはよう、ナスティ」
「おはよう。今朝は二人とも早いのね」
 二人の声に振りかえったナスティは、征士だけではなく、いつもなら最後まで寝ている当麻が早起きしてきたことに、少しばかり驚いた顔をして挨拶を返した。
「何か手伝うことある?」
「本当に珍しいこともあるものね」
 ナスティは当麻の申し出に一瞬目を丸くして、次には嬉しそうに笑って答えた。
「そうねえ。それじゃ……」
 最後の日が、そしてまた、当麻にとっては新しい日々が始まる──



 ── 祖父ちゃん、祖母ちゃん、俺、今日帰るよ。

──




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