新しき始まりの日に 【1】




「……ええ、いつもお願いしている家政婦さんが、今回は都合でどうしても来れないって言うものですから。本当に急なことで申し訳ありませんけど、お願いします」
 最後に礼の言葉を告げて受話器を置くと、麻子は源一郎の正面に座り、すっかり冷めてしまったコーヒーに口を付けた。
「母さん、来てくれるって?」
 新聞に目を落としたまま源一郎が尋ねる。
「ええ。明日の昼過ぎには着きますって。本当は朝のうちに来ていただけると助かるんですけどね。でも、流石にそこまで無理は言えないでしょう」
 言いながら、麻子は手にしたバッグからスケジュール帳を取り出して目を通し、ペンを走らせる。
 源一郎は椅子から立ち上がると、脇に置いてあった鞄に読みかけの新聞を入れ、コートを手にした。
「じゃ、行ってくる。母さんによろしく伝えといてくれ」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 麻子は出かける夫を見送ることもせず、相変わらずスケジュール帳に書き込みをしながら応え、源一郎もそんな妻の様子を気に止めることなく出て行った。
 そして、そんな二人を見つめる小さな双眸があった──



 麗らかな春の日の午後、閑静な住宅街にある一軒の家の玄関先に、大きな荷物を手にした小柄な年老いた婦人の姿があった。
 荷物を脇に置いて玄関のインターホンを鳴らすが、家の中からの応答はなかった。少し間をおいて、もう一度インターホンを鳴らす。しかしやはり応えはない。
「待ち切れずに出てしまったのかねぇ……」
 小さく溜め息をついて呟いた。そして三度(みたび)インターホンを鳴らそうとした時、カチャリと鍵を外す小さな音が聞こえ、続いて玄関の扉が少しだけ開けられた。
 僅かに開けられた扉の隙間の影に、小さな人影が見える。その影に向かって、彼女は微笑みかけた。
「当麻かい? お祖母ちゃんだよ。お母さんは?」
 その声にチェーンが外され、扉が大きく開けられる。
 荷物を持って中に入った彼女の目に映ったのは、パタパタと階段を駆け上がってゆく孫の小さな後ろ姿だった。それを目で追いながら、草履を脱いで玄関を上がった。
「麻子さん、麻子さん?」
 荷物を持ったまま、嫁の名を呼びながら奥へ入っていくが、相変わらず応える声はなかった。
「本当に出かけてしまったのかね、私が昼過ぎに着くのは分かってるはずなのに」
 仕方なく、とりあえず居間に入ってソファの脇に荷物を置いた。その時に、テーブルの上に置かれた自分宛の封筒に気づいて手に取った。裏を返せば、”麻子”と記されている。
 立ったまま封を切り、中に入っている1枚の紙を取り出し、文面に目を通す。
 それには、仕事の都合で到着を待たずに出かけることと、それに対する詫び、そして家の鍵や貴重品の所在と、奥の和室を使ってくれるようにとの旨が簡潔に記されていた。
 読み終えてまた溜め息を一つ。
「いくら仕事だからって、あんな小さな子を一人でおいて……」
 とにかくまずは荷物の整理を、と示された部屋へ入る。そこは八畳の南に面した日当たりの良い部屋で、床の間も付いていた。普段は客間として使用しているのだろう。
 簡単に荷物を解いて割烹着を取り出すと、それを身につけながら二階へ上がった。
 当麻の部屋らしいドアの前に立ち、軽くノックする。中にいるのは気配で分かるのだが、しかし中からは何の反応も返ってこない。
「当麻、いるんだろう? お祖母ちゃんだよ。入っていいかい?」
 声を掛けながら再びノックをするが、やはり応えはない。今日、ここに来てから何度目かの溜め息をついた。
「当麻、入るよ」
 いくら声を掛けても返事がないのでは仕方ないと、そう思いながらゆっくりとドアを開ける。部屋の中で小さな影が動いたのが分かった。
「当麻」
 声を掛けて、一歩部屋の中へ足を踏み入れる。と、椅子に腰かけてドアの方を向いていた当麻の身体が、小さく震えたのが見てとれた。それをいぶかしみながらも、当麻の方へと歩を進める。
 椅子から降りた当麻が、窓際へと身を寄せた。
「最後に会ったのは、おまえが物心つくかつかないかの頃だから覚えてないかもしれないけど……」
 言いながら当麻に一歩近づけば、当麻が一歩下がる、怯えた表情をして。
「当麻……?」
 当麻は、祖母と言われても全く見覚えのない相手に警戒心を抱き、まるで猟師に追い詰められた小動物のように、小さな身体を強張らせて震えている。そんな孫の様子に、怯えさせないように優しく手を差し伸べた。けれど当麻は、自分に触れようとするその手を全身で拒否していた。
「当麻っ!!」
 祖母の脇をすり抜けて、当麻は部屋を飛び出していった。そんな当麻の後ろ姿を、ただ呆然と見送るしかなかった。
「……当麻……」
 一体、息子たちはどんなふうにあの孫を育てているのだろうか。昨日の電話の時、麻子は当麻を、人見知りが激しい子だとは言っていた。けれど、今の様子は単なる人見知りとは思えない。自分に向って伸ばされた手を振り払った力は、とても子供のものとは思えないほど強い力だった。まるで、触れられるということに怯えているかのようだった。



 この家に来てから五日目。その間に息子夫婦からの連絡はたった一度、麻子が電話を掛けてきただけだった。それも、四日で帰る予定が延びてまだしばらく帰れそうにないと、それだけを伝えて切れた。
 あの二人は親としての責任をどう考えているのだろうかと、当麻の様子を見るにつけ心配になってくる。子供を育てるうということをどう思っているのかと。
 当麻と過ごしていて分かったのは、当麻が抱き締められるということなく育ったのだろうということだった。だから人に触れられるということに怯えたのだろうと、そう察することができた。この子は人の温もりを知らないのだ。両親がきちんと揃っていながら、それはなんと哀しく、憐れなことか。



 朝食の時間になっても下に降りてこない当麻に、昨夜、食の進んでいなかったことを思い出して、具合でも悪いのかと様子を見るために二階へ上がった。
 最初の日を除けば、この五日の間、逃げることや拒否することはなくなったものの、当麻はある一定の距離以上は決して近寄ろうとはしなかった。そしてまた、何かを聞いても首を縦に振って頷くか、あるいは横に振って否定を示すだけで、当麻の声らしい声は一言も聞いていない。麻子たちが何も言っていなかったことからすると、話せないわけではなさそうなのだが、どうしたことか、当麻は話をするということをしなかった。それが一層、孫の将来に不安を抱かせる。
「当麻、まだ寝てるのかい? 入るよ」
 ノックをし、声を掛けてから部屋に入ると、当麻はまだベッドの上だった。
「当麻……?」
 当麻の息が忙しない。慌てて近寄ってみれば、小さな身体をさらに小さく丸めて、苦しそうな息をしている。熱が出ているのだろう、頬が紅潮していた。そっと額に手を当ててみると相当熱が高いのが分かった。
 自分に誰かが触れてくる感触に、当麻は薄目を開け、熱で潤んだ()で、心配そうに自分を見つめている祖母の顔を見た。
「すぐにお医者さまに来てもらうから、辛抱するんだよ」
 そう言って、肩まで布団を掛け直してやると、電話を掛けるために急いで一階に降りた。



「麻疹ですね」
「麻疹、ですか?」
「もう2、3日すると発疹が出ると思います。とにかく部屋を暖かくして冷やさないようにすることと、安静にしていることです。一応抗生物質を打っておきましたが、後で薬を取りに来て下さい。それから食事ですが、食欲がなくても、少しでもいいから消化の良い物を摂取するように。特に、ビタミンをね。でないと、熱で体力を消耗してしまいますから」
 往診してくれた医師と看護師を玄関まで見送って、祖母は当麻の部屋に戻った。
 薬が効いているのだろうか。熱にうかされ多少苦しそうではあったが、それでも朝に比べればその息は穏やかだった。
「……夕べから具合が悪かったんだろうに、なんで言ってくれなかったんだい。気づいてやれない私も悪かったけど、せめて一言、言ってくれれば……。お祖母ちゃんは情けないよ、当麻」
 額の汗を拭ってやりながら、祖母は一人ごちた。



 医師が言っていたとおり、3日後には発疹が出たが、思っていたよりも軽く済み、それと同時に熱も下がりだした。
「林檎、食べるかい?」
「……うん」
 頷いた当麻に優しく微笑みかけ、ベッドの脇の椅子に腰かけて、林檎の皮を剥き始める。当麻はその祖母の姿をじっと見つめていた。
 当麻にしてみれば、こんなふうに常に自分の傍らに人がいて、自分を構ってくれるというのは初めてのことで、気恥かしいような妙な気分だった。けれどそれ決して不快なものではなく、むしろ心地好いものであった。ただ、その気持ちを祖母に対してどう表現したらよいのか分からなくて、その結果、祖母をじっと見つめるだけになってしまう。
 切欠は、熱にうかされた当麻が、半ば無意識に、人を、自分を助けてくれる者を求めて祖母を呼び、その祖母が手を取って答えてやったことだろう。
 目を開けばそこにはいつも祖母の姿があった。心配そうな顔をして、自分を看病してくれいる祖母の姿が。
 呼べば必ず応えてくれる人がいる── それはなんと嬉しいことなのだろう。そして自分が触れられることを拒絶していた人の手の温もりの、なんと温かいことか。
「ほら、剥けた」
 皮を剥き終えた小さく切った林檎の一切れを、楊枝に刺して当麻の手に持たせてやる。
「美味しいかい?」
「うん」
 口を動かしながら当麻が答える。
「もう少し食べるかい?」
 頷く当麻にもう一切れ渡してやった。





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