病院に着くと、一輝は受付で教えられた病室に真っ直ぐに向かった。
部屋を確認してドアをノックする。だが何の応えもなく、一輝は一瞬の躊躇いの後にドアを開けて中に入った。
まず目に入ったのは、何もないといっていいほどの真っ白な部屋の中央に、ただ一つ置かれたベッドの上で、半身を起こしている無表情な女の姿だった。
記憶の中そのままの── 多少細くなってはいたが、精神を閉ざした時に、外見も時間を停めたのだろうか── 何一つ変わることのない母の姿だった。
一輝はゆっくりと一歩を踏み出した。しかし彼女には何の反応も見られない。
ベッドに近づいて彼女の傍らに立ち、静かに声を掛ける。
「……」
その声にピクリと小さな反応があったのを見てとった一輝は、もう一度声を掛けた。
「母さん」
ゆっくりと声のした方に女の顔が向けられる。その顔が少しずつ表情を持ってゆき、やがて優しい微笑みを浮かべ、薄く紅を引いた唇が開かれた。
「……だんなさま」
彼女の、母のその一言に一輝の双眸が見開かれる。
「だんなさま、やっといらして下さった。もうずっとおいでがなくて、どんなにお待ちしていたことか」
「母さん……」
女の、細く青白い、血管の透き通った二本の腕がゆっくりと一輝へと差し出される。
「…………」
一輝は自分を夫と思って手を差し伸べる女の姿に、その手を取ることができずに部屋を飛び出していた。
── もう人としての感情など捨てたと思っていたのに、まだ残っていたか……!
いつしか頬を伝う涙に気付き、一輝はそんな自分を心の中で嘲笑った。
── 暗黒聖闘士の首領ともあろう者が、まだこんな心が、涙なんてものが残っていたとはな……。
「……母さん……っ!!」
一輝は壁に拳を叩きつけた。
銀河戦争の中、競技場に殴り込み、部下を使って黄金聖衣を奪い去り、そしてその聖衣を巡っての殺生谷での戦い── その中で配下たる暗黒四天王を失い、けれど一輝自身は死ぬことは叶わずに生き延びて、やがて瞬の元へと戻った。
束の間の平和の時、何も知らぬ瞬と共に母の墓参をするという茶番を演じ── 。
瞬に母のことを告げることはできなかった。どうして話せよう。もし話したとして、どうして瞬を母に引き合わせることができるだろう。母は何も知らないのだ。母にとって子供は一輝一人だけなのだから。
誰にも何も話せずに、ただ一人、時折尋ねる一輝に母が呼び掛ける。
だんなさま── と、優しく微笑みながら。
櫻が、舞っていた。
春の嵐にあおられて、咲き始めた櫻の花びらが病室にまで舞い込んでいた。その花びらを手に取って、母が言う。
「今年のお花見、どうしましょうか。もう少し咲き揃ったら、天気の良い日に一輝を連れて出掛けませんこと? 私、美味しいお弁当を用意しますわ」
「……そうだな……」
楽しそうに話し掛けてくる母に、一輝は力なく応えながら、緩く結んだ髪についた花びらを取ってやった。そんな一輝を、母が、愛する男と思い込み、疑うこともせぬままに嬉しそうに微笑みながら見上げてくる。
一輝は演じることに疲れはじめていた。そしてそれがいつしか母への憎しみを芽生えさせていた。
母を愛するが故に、自分を見ない、自分を父に置き換えている母に憎しみが湧いてくる。そしてそれ以上に母をそのようにした父たる男に対して── 。
「……また来る」
一輝はそう言って踵を返した。
「いってらっしゃいませ」
病室を後にする一輝の背を、母の細く透き通った声が追った。
── 母さん、俺はそれほどに似ていますか、あの男に。あなたがただ一人誰よりも愛し、そしてこの俺が、この世で最も憎むあの男に……!!
広大な城戸の屋敷の中、居間で寛いで新聞を読んでいた一輝を氷河が呼んだ
「何か用か?」
「俺じゃない、おまえに電話が入ってる。西村とかいう男から、2番だ」
── 西村!?
西村というのは母の担当医だった。母の身に何かあったのか、悪い予感に襲われながら一輝は受話器を取った。
「電話代わりました、一輝ですが何か── 」
黙って電話の相手の話を聞いていたが、ややあって
「すぐに行きます」
そう一言告げて受話器を置いた。
「出掛けてくる」
ソファに座って本を読み始めた氷河に声を掛けると、一輝はジャケットを手に飛び出すようにして部屋を出て行った。
氷河はらしくない一輝の様子をいぶかしみながらも、自分には関係ないと、再び手元の本に目を落とした。
母が倒れ、容態がおもわしくないとの連絡を受けて急ぎ病院へと駆けつけた一輝だったが、一輝が到着した時、病室にその母の姿はなかった。
「医師が電話を入れた後、どうにか持ち直して、それで安心してちょっと部屋を出て戻ったらもういなくて……」
看護婦の声は殆ど一輝に耳には入っていなかった。
── 母さん、あんな躰で一体どこに……!?
この十年余りの時間の間、決して自分から動こうとはしなかった母が、痩せ衰え体力のない弱った躰で一体どこへ行ったというのか、そのことのみを考える。
見回した部屋の中には、何も変わったものはない。ただ風で舞い込んだのだろう、薄い桃の色をした櫻の花びらが落ちているだけだった。
『お花見に……』
ふいに最後に会った日の言葉が一輝の脳裏に蘇る。
一輝はもしかしたらとの思いに、庭に出て櫻の木を探した。
それは簡単に見つかった。母の病室からは死角になっているところだが、それほど離れていないところにその櫻の古木はあった。
母は櫻が好きだった。
春、櫻の季節になり、屋敷の庭の櫻の木に花が咲き始めると、母はいつまでも飽きるということを知らぬ気に櫻の木に見入っていた。それは彼女が正気を失った後も変わることなく── 。
櫻の木の根元に白いものがあった。一輝がそれに気付いて走り寄る。
「母さん!!」
倒れている躰を抱き起こし、息があること確かめる。抱き締めて、そのあまりの軽さに不安を感じ、けれど腕の中の温もりに少し安堵した。
「母さん」
腕の中の母が瞳を開いた。微かな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと一輝に向かって手を伸ばしてくる。
「…………」
必死に何かを告げようとしながらも、それは声にはならない。一輝は母の手を握り返した。
「何が言いたいんだ、母さん!」
「……あ……あな、た……」
力ない母のその呟きに、一輝の目が細められる。
「……どんなに、おいでが遠のこうと……、私には、あなた、だけでした、のよ……」
── 母さん……、俺はあなたの何ですか? 俺はあなたが愛した男じゃない、あなたの息子なにの……!
「いつまでも……あなただけを、想って、いますわ……あなた……」
そう告げて、それが最期だった。
一輝の腕の中から、彼女の手がすり抜けて地に落ちる。
それをまるでスローモーションのフィルムでも見るように、一輝は見つめていた。
その顔には微かに微笑みを残し、正気に戻ることなく、最期まで一輝を夫と思い込んだまま、彼女は事切れた。
── ……最期まで、俺はあなたにとってあの男の身代わりでしかなかったんですか……? 母さん……!!
ほつれた髪やその痩せ細った躰の上に、舞い落ちた櫻の花びらが散っていた。
徐々に冷たくなり温もりの失われてゆく躰を、一輝はその櫻の花びらごと抱き締めた。
そして、かつては幼い自分を優しく抱きとめてくれたその胸元に顔を埋め、肩を震わせて声も立てずに、泣いた。ただ涙だけが、一輝の頬を流れていった。
それから五日後、城戸家の顧問弁護士── それはかつて一輝に、母は死んだと告げた男だった── と里江に手伝ってもらって様々な手続きと母の埋葬を終えてから城戸邸に戻った一輝を、瞬が出迎えた。
「兄さん、何の連絡もよこさずに今までどこに行ってたんです?」
少し咎めるように問いながらも、それはいつものことと、瞬は必ずしも一輝の答えを期待してはいないようだった。
自分を真っ直ぐに見詰めてくる弟に、己の腕の中で逝った女の面影が重なる。
瞬は顔立ちばかりか、その気性までも母に似ているところがある。
一時は怨み、その命さえ奪おうとした一輝を、瞬は、弟が兄をというよりも、まるで恋人を想うかのように、母が父を想い続けたように一途に一輝に想いを寄せてくる。
そして正気でなかったとはいえ、母が最期まで信じ込み、疑いを抱くことのなかったほどに父に似た自分……。まるで遠い昔の父と母を再現しているかのような自分たち二人。
── それでは瞬よ、いつかおまえも、想いゆえに母のように狂う時がくるか……!?
「……兄さん、どうしたの?」
常とは異なる苦しげな一輝の様子に、瞬が不安を抱いて尋ねてくる。
一体どんなことが、一体何者が、不死鳥の聖闘士たる兄にこのような辛そうな顔をさせるのかと。
「兄さん」
「瞬」
一輝は弟の名を呼ぶと、両の腕を伸ばし、瞬の体を力の限り抱き締めた。
「苦しいよ、兄さん」
初めは大人しくその身を委ねていた瞬だったが、やがて息苦しさに呻きを漏らした。しかし一輝の瞬を抱き締める力は一向に弱まることはなかった。
── いつか、深すぎる想い故に、その身を滅ぼすか。その身の内に狂気の芽を育みながら……。それともこんなことを考える俺の方がとうに狂っているのかもしれん。ああ、そうだ、エスメラルダを失った時から、俺は……!!
自分の身代わりとなり、一輝が不死鳥となって羽ばたくことだけを願いながら逝った、この世で最も愛しい娘と、狂気の内に、母としてではなく女として生きて死んだ女── 。二人の面影が重なり、そしてその二人によく似た瞬に重なってゆく。
── 瞬、おまえもいつか俺を置いて逝くか!?
「兄さん、一体何があったの!?」
瞬は増してゆく不安に兄に尋ねた。
「……皆、俺をおいて逝った。母さんも、エスメラルダも……。おまえは逝くな、おまえだけは俺をおいて逝くな、瞬!!」
「……兄さん……」
── 何があったのか知らないけど、まるでいつもと逆みたいだ……。
瞬は自分を抱き締めてくる兄の背に腕を回し、抱き締め返した。その腕に、一輝の体の震えが伝わってくる。
そんな二人の上に、折りからの強風にあおられて、満開の櫻の花びらが狂ったように舞い続ける。
── 了
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