狂 ひ 櫻(くるいばな) 【前編】




「兄さん!」
 階段を降り切ったところで、一輝は自分を呼ぶ弟の声に立ち止まり、振り返った。
「兄さん、出掛けるの?」
 瞬は階段を駆け下りながら一輝に尋ねた。
「ああ」
「どこへ行くの?」
「……おまえには関係のないことだ」
「兄さん!」
 冷たく言い切る一輝に、瞬は悲しみを覚えた。
 漸く兄弟らしく過ごせると思っていたのに、まだ兄には含むところがあるとでもいうのだろうか。城戸の屋敷に戻って一緒に暮らすようになってから暫く経つというのに、まだ打ち解けてはくれない。自分には、何も話してくれない。
「今日は戻らん」
 そう一言言い置いて、一輝は瞬に背を向けた。
 そしてその後を追い、なおも問おうとする瞬の目の前で重い扉が開き、まだ幾分冷たい外気と、それでも春先らしい陽の光を感じたと思った次の瞬間には、扉は再び閉ざされていた。
「兄さん……」
 扉はもうこれ以上の問いも、後を追うことも許さぬと、一輝に代わって瞬に告げているように思われて、そうして瞬はそこから一歩も動けずに、振り向くこともせずに歩み去る一輝をその扉の向こうに見ていた。



“どこへ行くの?”
 瞬の問い掛けが木霊する。
 言ってしまうべきなのか、それともこのまま何も告げず、何も知らせずにいるべきなのか。そのどちらをも選べず、結局は瞬には何も言えずにいる一輝だった。
 既に幾度となく通い、今ではすっかり通い慣れた道だった。しかし進めば進むほどに、目的地に近づけば近づくほどに、心は重く、歩みは遅くなる。
 あの何もない白い部屋で、ただひたすらに自分の訪れを待っているだけの女── いや、彼女が待っているのは自分ではない、今はもういない男を待っているのだ。その男によく似た自分をその相手と思い込んで待っているのだと、一輝は知っている。
 彼女の()には一輝は映っていない。というよりも、彼女にとっての一輝はまだ四歳ほどの小さな子供のままだ。彼女が自分の内の時間を停めたその時から、彼女の一輝は成長していない。ずっと子供のままなのだ。
 そうして彼女は一騎を呼ぶ。
「だんなさま」
 と、優しく微笑えみながら、かつて愛した男を呼んだように一輝を呼ぶ。
 それでも、医師に言わせれば少しは良くなったのだという。
 以前、一輝が訪れるようになるまでは、彼女は何に対しても心を開かず、関心を示すことはなかった。それが一輝にだけは、彼が初めて訪れた時から反応を示していた。
 だが一輝には分かっていた。
 彼女は医師が言うように良くなったのではないと。彼女はただ男の訪れを待っていただけなのだ。そしてその男が現れた。それだけのことなのだと。
 ── それほどに、俺はあの男に似ていますか? あなたが愛し、いや、正気を失った今もなお、愛し続けるあの男に……。





 一輝が彼女のことを知ったのは、デス・クィーン島から日本に戻ってきてほどない頃、一人、幼い頃の朧げな記憶を頼りに、昔住んでいた家を訪れた時だった。
 荒れ荒んでいるだろうと思っていたその家は、一輝の思いとは裏腹に昔の記憶のままにそこにあった。
 大きな門を潜り中に入れば、多少古くなり、人が住んでいないことからくる寂寥感は拭えないものの、しかしこれが本当に何年もの間、人の住んでいない家なのかと疑うほどに、綺麗に片付けられ、人の手が入っているのが明らかに見てとれた。
 ── 一体誰が……?
 思いを巡らしているとふいに人の気配がして、一輝は振り返った。
 そこには五十がらみの女性が一人立っていた。
 一輝はどこかしら見覚えのあるその女性の顔を、記憶を手繰り寄せながら見つめ返し、彼女もまた一輝の顔をまじまじと見つめていたが、少しして彼女の目が見開かれた。
 女性がゆっくりと一輝に歩み寄って来る。
「ぼっちゃま……、一輝ぼっちゃまでらっしゃいますね?」
「……俺は確かに一輝だが、あなたは……?」
「覚えていらっしゃいませんか? 昔、こちらにお世話になっていた里江でございますよ」
 その言葉に一輝は思い出した。以前、ここに住んでいた頃に母や自分たち兄弟の身の回りの世話をしてくれていた一人の女性。今、目の前にいる女性には確かの彼女の面影があった。
「思い出して下さいましたか? それにしても随分と大きくなられて。あれからもう十年以上も経ったんですものねえ」
 一輝の様子に、彼が自分のことを思い出したのを察し、嬉しそうに里江は言葉を綴った。
「立ち話もなんでございますね、私の家へいらっしゃいませんか。すぐ近くなんなんでございますよ」
 一輝は誘われるままに頷いて里江の後について歩き出し、再び門を潜って外に出た。



 里江の家は歩いて十分ほどの所にあり、木造の二階建てで、決して広くはないがよく手入れのされた庭もあった。
 一輝は陽のよく当たる居間に通された。
 懐かしそうに、嬉しそうに自分を見つめてくる里江に、どのような態度をとればよいのか一輝は戸惑っていた。
 彼女が知っている── 覚えている── 幼い頃の自分と、その頃とはあまりにも違ってしまった今の自分。彼女の目には自分は一体どのように映っているのだろうか。
 とりあえず、一輝は里江の淹れた茶を一口啜ってからゆっくりと口を開き、あの家を見た時の疑問── 誰があの家の管理をしているのか── を、答えはもう知れていたのだが、それを確認するために聞いた。
「……あの家だが、あなたが手入れを?」
「はい、ぼっちゃまたちがいつ戻ってこられてもよいようにと思いまして」
「それは……長いことすまなかったな。だが、その呼び方はやめてくれないか。もうそんなふうに呼ばれる齢でもないのでな」
「ああ、そうでございますね。でも最後にお会いした頃の面影がまだどことなく残ってらっしゃって、すぐに分かりましたよ。それにお若い頃の旦那さまにもよく似ておいでで」
 里江の最後の一言に、一輝の眉がピクリと上がった。
「……俺は、父に似ているか?」
「ええ。といっても、昔、奥様に旦那さまのお若い頃の写真を見せていただいたことがあるだけですから、あまりよくは存じませんけれど。ぼっちゃま、いえ、一輝さまはお父さま似でらっしゃいますよ。そうそう、下の、瞬ぼっちゃまはどうしてらっしゃいます? あの方もだいぶ大きくなられましたでしょう?」
 里江のその問いに、一輝の双眸に黒い炎が灯った。しかし里江に気付かれぬうちに一輝はその心を押さえ込み、そして、今となっては憎しみしか抱いていないというのに、その自分の本心を押し隠して、大切な愛しい者のことを話すように告げる。
「そう、だな。昔は泣いてばかりいたが、大きくなった、あいつも」
 影の報告では、瞬は無事にアンドロメダ島から聖衣(クロス)を持って帰ったという。
 かつて約束したように、瞬は帰ってきたのだ、一人で強くなって、聖闘士(セイント)として。
 見せられた写真の中で、瞬は朧げではあるが記憶の中の母によく似た顔をして微笑っていた。そしてもう一人、地獄と言われた島の中で、唯一、一輝にとって安らぎとなった誰よりも愛しく、共に生きることを願った少女にも似て……。
「……さま、どうなさってらっしゃいます? 少しは良くなられまして?」
「えっ?」
 自分の思いに浸っていた一輝だったが、里江の言葉に我に返った。
「奥さまでございますよ。ぼっちゃまたちのお母さま。私はここ暫く伺ってませんけど、一輝さまは時々はお会いになってらっしゃるんでございましょう?」
「……なんの、ことだ? 何を言っている……?」
 この女は何を言っているのだ? 母だと? 母は死んだはずではないのか。
「ご存知、なかったんですか……?」
 一輝のただならぬ様子に、里江は少し青ざめた顔で恐る恐る尋ねた。
「……母は、生きているのか? 死んだとばかり……」
「……はい、生きてらっしゃいます。もうずっと入院されたままですが」



 暫くして里江の家を出ると、一輝は彼女に教えられた、母が入院しているという郊外の病院へと足を向けた。
『……生きてらっしゃいます。ただ、奥さまは心を置き忘れてしまわれたんです。何が原因かは存じませんが、全てのものに対して、心を閉ざしてしまわれて……』
 里江の言葉に、一輝は昔の、瞬が生まれた頃のことを思い出していた。





「だんなさま」
 時折、思い出したように家に帰ってくる父を、母やそう呼んで微笑みながら迎えていた。
 とても美しく、優しい(ひと)だった。その母が、幼心にもどこかおかしいと思いはじめたのはいつのことであったか。
 父に、外に他にも何人かの女が、いや、女だけではない、子供までいると知れた時からだった。
「嘘、嘘よっ! あの人に他に女がいるなんて! どうして来て下さらないの!? いつもずっと待っているのに、あなた、どうしてっ!?」
 母の想いが父には煩わしく、疎ましかったのかもしれない。父は必ずしも母を愛していたとは言い切れなかったから。父が母と結婚したのは、母の父に請われてのことだったのだから。
 事業に失敗し落ちぶれた旧家の主とその一人娘、そしてその主に恩義のある、事業に成功し立場を逆とした男。主は娘よりも自分に齢の近い、結婚歴があり、既に息子もいる男に娘を差し出したのだ。家を建て直すために、かつての恩を楯として。けれどそれでも、母は誰よりも父を愛していたのだけれど。そう、狂うほど一途に──
 やがて弟── ── も生まれ、しかしその頃には父は全くといっていいほど家を訪うことはなくなっていた。そしてその時の難産が元で、母の中の狂気が一気に表面化した。彼女には、生まれた子供が分からなかった。



「一輝、一輝、お父さまは今日もいらして下さらないのかしら。お仕事がとてもお忙しいのは分かるけれど、もっと家に帰ってきて下さればいいのにね。一輝もお父さまに会いたいでしょう?」
「母さん」
「一輝、早く大きくならなきゃね。お父さまのお手伝いができるように。お勉強も一生懸命しなくてはだめよ。お父さまの後を継がなきゃならないんだから。そう、おまえがお父さまの後を継ぐのよ。他の女の子供になんか渡すものですか!」
「母さん、瞬が泣いてる」
「長男の政広さんが亡くなった今では、お父さまにとってはおまえが一番上の息子なんだもの、当然よね」
「母さん!」
 彼女は瞬を産んだことを覚えてはいなかった。彼女の瞳には瞬は映らない。瞬がどれほど泣こうとも、その声は彼女に耳には決して届かない。
「他の女の産んだ子供なんか認めない。認めてなんかやるもんですか! たとえどんなことをしたって、全ては一輝、おまえのものよ。お父さまの子供は誰が何と言おうとおまえだけよ!!」
「母さん!!」
 小さな腕で泣き続ける瞬をあやしながら、一輝が母を呼ぶ。けれど一輝のその叫びさえ、今の彼女にはもう届きはしなかった。
「お父さま、遅いわねえ」
 庭に植えられた一本の櫻の古木、満開になった花が風に吹かれて舞い散る様をじっと見つめながら── いや、彼女の瞳には映ってはいても、もう何も見てはいなかったのだけれど── 彼女は小さく呟いた。
 そしてある日、里江に連れられての外出から戻った時、家の中に母の姿はなく、かわりにそこにいた一人の男が告げたのだ。
 母は死んだ── と。





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