女王執務室── 。
女王アンジェリークと彼女の補佐官を務めるロザリアは、王立研究院から上がってきた報告書に一通り目を通し終えて、少し休憩をと、柔らかなソファにその身を移して紅茶を淹れたところだった。
軽いノックの音がして、女官長が「失礼いたします」と声を掛けながら扉を開けて姿を見せた。
「どうしました?」
「はい。炎の守護聖オスカー様が、至急女王陛下にお目にかかりたいとお見えでございます」
「オスカーが?」
何があったのかしら? と軽く首を傾げながら、ロザリアは立ち上がった。
「分かりました。まずは私が会って、用向きを伺いましょう。謁見の間に……」
「待って、ロザリア」
「陛下?」
扉に向かって足を踏み出したロザリアは、女王の言葉に足を止めて振り向いた。
「女官長、オスカーをここへ」
「陛下っ!? 用向きも分からぬままに守護聖といえどいきなりお傍にというのは……」
諌めるロザリアに、女王は首を横に振った。
「用向きはだいたい分かっているわ。だからいいの」
女王はロザリアを見上げながらそう告げた後、改めて女官長に視線を移し、再度同じ言葉を告げる。
「オスカーを、ここへ」
「……畏まりました」
僅かな躊躇いを見せた後、女官長は女王の命に従うべく、頭を下げると静かに扉を閉めて退室していった。
「陛下、よろしいんですか、本当に?」
「ええ、いいのよ、ロザリア。それよりも、さ、座って。お茶が冷めてしまうわ」
微笑を浮かべながらそう答える女王に、ロザリアはそれ以上何も言えず、促されるままに再びソファに腰を降ろした。
ヴィクトールから彼の知る全てを聞いたものの、そこに感情は付いていかなかった。それは、あくまでも他人から聞いた知識であって自分自身の記憶ではないからなのだろう。
もちろん、その内容に衝撃を受けた事実は否めない。そして、信じられなかった。
あろうことか、自分が敵の男に抱かれていたなどと。しかもその男の後を追おうとしてそれを果たせずに死に損なって、あまつさえ、正気を失っていたなどと、どうして信じられるだろう。
だがヴィクトールが偽りを言うことなど有り得ない。つまり、それが真実なのだ。
けれどどうしてもそれを事実として実感することができない、受け止めきれない。
それは全て、記憶として認識していないというその一語に尽きる。
なぜアリオスとそういった関係を持つに至ったのか、アリオスをどう思っていたのか、そして何を考え何を思って、男の後を追うなどという、到底自分の行動とは思えぬようなことをしようとしたのか。
それが分からない限り、先には進めないと思う。
現在のままでは、ただアリオスに流されるだけだ。
だから、かつての自分と向き合って、そして見極めるために、封印を解いてもらわねばならないと思うのだ。たとえそこに何があろうとも── 。
女官長に案内されて女王執務室の前に扉の前に立った時、オスカーはいつになく緊張している自分を自覚した。
先を行く女官長がノックして、「失礼いたします」と言いながら重い扉を開けた。
「炎の守護聖オスカー様をお連れいたしました」
部屋の奥、ソファに座ったままで、女王が軽く頷いた。
「女官長、私がいいというまで、決して他の者をこの部屋へは入れないようにして下さい」
「畏まりました」
女官長は女王に一礼し、そして傍らのオスカーにも会釈をすると、静かに扉を閉めて立ち去った。
それを見送ってから、女王はオスカーに視線を合わせた。
「オスカー、こちらへ」
「はっ」
頷いて歩を進めるオスカーの貌は、何かを思い詰めているかのような気配があった。そして、時に傲慢とも取れる自信家らしい表情はすっかり影を顰めている。その常にないオスカーの状態に、女王とその傍らに立つ補佐官は顔を見合わせた。
女王の傍近くまで歩み寄ると、オスカーは跪いた。
「突然の謁見の願い出、非礼の段、お詫び申し上げます」
「構いません、オスカー、気にしないで。ここは聖地ではありませんし、堅苦しいことは抜きにしましょう」
「恐れ入ります」
「用向きを、伺いましょう。何がありました?」
「…………」
「オスカー?」
深く頭を垂れたままのオスカーに、名を呼ぶことで女王は優しく先を促す。
「……陛下に、お願いしたき儀があって、まかりこしました」
「何でしょう?」
「……封印を……」
意を決したように、オスカーは顔を上げて女王を真っ直ぐに見上げた。
「陛下が、私に掛けたという封印を、解いていただきたいのです!」
オスカーのその言葉に、女王は、やはり、と思った。
このアルカディアの地にアリオスがいると、そうジュリアスから報告を受けた時から、そう遠からずこの時が来ると思っていたのだ。
女王はゆっくりと腰を降ろしていたソファから立ち上がると、オスカーの前に立った。
「陛下……」
腰を屈め、その細く白い両腕をオスカーに差し伸べると、真っ直ぐに自分を見詰めてくるオスカーの両の頬に手を添えた。
「封印を解けば、全て思い出すでしょう。中には、貴方にとって辛い記憶もあると思います。それでも、後悔しませんか?」
「はい、陛下。たとえどのようなものであっても、それが自分の記憶であるならば」
「分かりました」
女王は頷くと、オスカーの前髪を掻き揚げ、額にそっと唇を寄せた。
「……今夜一晩寝て、明日の朝起きた時には、全て思い出しているはずです」
女王はそう言いながら立ち上がり、オスカーにも立つように促す。
「貴方を、炎の守護聖たる貴方の強さを、信じています」
頭一つ分ほども高いオスカーを見上げながら告げる女王の右手を取ると、オスカーは恭しくその甲に口付けた。
「私事でご心配をお掛けして申し訳ありません、陛下」
いいえ、と女王は首を振った。
「貴方は私の大切な守護聖。貴方方が私の身を案じてくれるように、私が貴方方を思うのも当然のことです。だから気にしないで。1日も早く貴方が元の貴方に戻ってくれることが、何よりなのですから」
「陛下」
オスカーが退室し扉が閉まったのを確認してから、二人の遣り取りを黙って見つめていたロザリアが女王に声を掛けた。
「なあに、ロザリア?」
「よろしかったんですか、オスカーのこと。ジュリアスが知ったら……」
「ジュリアスは反対するでしょうね。でも、あんなふうに思い詰めた顔で言われたら、ダメだなんて言えないわ」
答えながら再びソファに戻って腰を降ろし、すっかり冷めてしまった紅茶のカップに手を伸ばした。
「新しいものをお淹れしますわ」
そう言ってティーポットを手にしたロザリアに、ありがとうと言いながらさらに続ける。
「それに、オスカーの記憶はオスカーのものだわ。どのような理由があれ、他人がどうこうしていいものでは決してないのよ。あの時は他に方法がなかったからああしたけれど。だから最初から、オスカーが落ち着いたら封印は解くつもりでいたのよ。ジュリアスは、ずっとそのままでと考えてたみたいだけど」
ロザリアは淹れ直した紅茶のカップを女王に手渡し、自分の分も淹れ直してから女王の向い側に腰を降ろした。
「それにしても、なんですわね……」
溜息を付くロザリアに、なあに? という顔をして、女王は先を促した。
「あれだけ女好きと言われ、プレイボーイの名を欲しいまましていたオスカーが、殿方と、とは、未だに信じられませんわ」
「ああ、確かにネ」
女王は応えながら微笑して、それから、何かを思い出したように、少し遠い瞳をした。
「女王候補だった時に、実は一度だけオスカーとデートしたことがあったのよ」
「あら、それは初耳ですこと」
軽く目を見張って驚きを示すロザリアに、女王はふふっと微笑った。
「特定の恋人はいないんですか? って聞いた時に、彼、『一人に決めるなんてできない』って言いながら、『たった一人の運命の女性を探しているのかもしれない』とも言ってたの。その時は、女王陛下のことかしらって思ったのを覚えているわ。それがまさか、ねえ。もっとも、オスカー自身もその頃は自分が同性の男とだなんて、思ってもいなかったでしょうけれど」
クスクスと笑いつつ話しながら、正気を逸していた時のオスカーを思い出して、女王は思った。
もう、あんなオスカーは見たくないと。
◇ ◇ ◇
女王がオスカーと会っていた頃、ジュリアスは自分の執務室に予期せぬ来訪者を迎えていた。
「よお、久し振りだな、光の守護聖殿」
「……アリオス……」
執務机から立ち上がり、ジュリアスは来訪者の色の異なる二つの瞳を見据えながらその名を呼んだ。
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