Trost 3 【Vollendung - 9】




 オスカーはいつ時もと同じ時間に目が覚めた。
 どれ程深酒をしても、どれほど眠りに着くのが遅くても、身に着いた習性なのだろうか、目が覚めるのは大抵同じ時間だ。
 ただ、普段なら目覚めればすぐに起き出しているのに、この日ばかりはそうはいかなかった。
 躰が重く、だるい。
 脚の間に、未だアリオスのモノが挿れられているような感覚が拭いきれない。
 それでもいつ時までもこうしているわけにはいかないと、オスカーはゆっくりと躰を起こそうとして、叶わなかった。
「くっ……!」
 苦痛の呻きを漏らしながら、再び寝台に突っ伏す羽目になった。
 仕方なく、そのまま暫く寝台に横になったままいることにする。
 程なくすれば、いつまでも起きてこない主を心配して執事が顔を覗かせるかもしれないと思うが、躰を起こせない以上、致し方ない。



『忘れるな、おまえは俺のもの、俺だけのものだ。決しておまえを離さない』
 夢の中で、顔の無い男が手を差し伸べながら告げる。
 その男がアリオスだと分かっている今も、その顔は無いままだ。
 どうして思い出せない?
 アリオスだと分かっているのに、躰はアリオスを覚えていて、少しも忘れてなどいないのに、いつまでも記憶だけが戻らない。
 あれほどのことをされても、それでもなお、思い出せない。
 どうして── !?
 そう思いながら、涙が溢れてくるのを誰にも見られたくないというように、両腕を顔の上で交差させた。
 出会わなければよかったと思う。
 どうして出会ってしまったりしたのか。
 出会わなければ、こんなふうに悩み苦しむことなどなかったのに。夢を見て魘されることもなかったのに。
 アリオスのことを思うだけで躰が震える。
『女』と言われることに激しい屈辱を覚える。その一方で、『俺のものだ』という言葉に躰の奥が熱を持って疼き、歓喜に震える。
 いつからこんなふうになってしまったのだろう。
 たった一人の男の言動に振り回されるなんて、自分らしくない。こんなのは自分じゃない、こんな自分を俺は知らない。
 そうして思う。
 もう一度アリオスを忘れることができたら、出会う前に戻って、もう二度と会わなければ、この苦しみから解放されるだろうかと。
 アリオスと出会う前は、全ての記憶が戻らぬことに苛ついて不安を覚えることはあっても、それだけだった。それだけならば堪えられる。思い出せないのがアリオスのことだけであるならば、いつか、忘れていることすら忘れられるのではないのか。
 だが、どうやって忘れればいい─────


◇  ◇  ◇



 昼少し前、オスカーはふらつく躰を庇いながらゆっくりと起き出し、壁に縋りながら這うようにしてバスルームに入った。
 鏡に映った自分の躰に激しい嫌悪を覚える。
 躰中、至るところに散った赫──
 この躰にアリオスの触れていないところはどこにもない。躰中、くまなく触れられ、嬲られ、そして自分はそれを悦んでいたのだ。
 オスカーは振り切るように鏡から目を反らし、シャワーのコックを捻った。
 熱いシャワーを浴びてから、身支度を整え、腰に愛用の大剣を差す。慣れているはずのそれが、とても重かった。
 そしてそのまま出掛けようとしたオスカーを心配した執事に勧められるまま、スープとサラダだけという軽い食事を胃に納めて、それから漸く表に出た。光の守護聖ジュリアスの元に赴くべく、常より遥かにゆっくりとした足取りで。



 訪れたジュリアスの執務室の取次ぎの間に、秘書の姿はなかった。
 一つ大きく息を吸い込み、扉をノックしようとして微かに隙間があるのに気が付いた。
 きっちり閉まっていないとは珍しいこともあるものだと思いながら、ふと視線を落として、扉の間に挟まったペンに気が付いた。
 それでか、と思いながら改めてノックしようとして、ふいに耳に入った単語に手を止めた。
「……アリオスの……」
「はい……。アンジェリークは……」
「……オスカーとも……」
 ジュリアスと話している相手は、その声からヴィクトールだと知れた。
 その二人の口から漏れる、アリオスと自分の名──
 いけないと思いつつも、オスカーは耳を欹てた。



「では、アリオスの記憶は既に戻っているのだな?」
   ジュリアスは確認するようにヴィクトールに問い返した。
「はい。アンジェリークにも確認しました。完全に記憶を取り戻したようです。ですが、もう我々に関わる気はないと言っていたようで、アンジェリークは安心したように、嬉しそうに言っていました」
「……オスカーとも、そうなのだろうか……?」
 ヴィクトールの言葉に頷きながらも、ジュリアスは一つの疑念を口にした。
 オスカーとも、もう関わる気はないのだろうかと。
「これは自分の推測に過ぎませんが、アリオスの我々に関わる気がないというのは、かつての皇帝としての立場からだと思います。つまり、もう侵略などということはしないと。ですからオスカー様のことについても、その言葉がそのまま当て嵌まるものかどうかは……」
 分からない、とそう告げるヴィクトールにジュリアスは顔を顰めた。今はそれが一番の気掛かりなのだというように。
「ジュリアス様、オスカー様の記憶はどうなのですか?」
「陛下の封印が効いている。陛下は、人の意識を操作するような封印には完全なものはないとそう仰っておられたが、今のところは問題ない」
「そうですか」
 ジュリアスの言葉に、安堵したようにヴィクトールは息を吐き出した。しかし続く言葉に、眉を寄せた。
「今はいい。だがこれから先、もし万が一二人が出会うようなことになった時、それでも何事もなく済むかどうか……」
「確かに、そうですね。今のところ、二人が会っている気配はありませんが……」
「ヴィクトール、そなたには迷惑をかけてすまないと思っているが、このアルカディアにいる間は、アリオスの監視を続けてくれ。そして二人が出会いそうになったら、その時はなんとしても止めてくれ。頼む」
「分かっています。あの時、自分は何もできませんでした。ですから、今度こそは……」



 オスカーは、聞き耳を立てていた扉の前から一歩後ずさった。
『陛下の封印が効いている』
 封印──
 何のことだ、一体、ジュリアス様は何を言っているのだと、ジュリアスのその一言が頭の中を何度も駆け巡る。
 ジュリアスとヴィクトールの会話が途切れ、ヴィクトールが退室の挨拶をしているのに気付いて、オスカーは慌ててその場を立ち去った。
 二人に気付かれないように、珍しく誰にも会わなかったのを幸いに、オスカーは躰を苛む痛みも忘れたように足早に表に出た。そしてそのまま館の影に隠れてヴィクトールを待つ。
 そうして程なく出てきたヴィクトールの腕を掴んだ。
「オスカー様!?」
 驚いて声を張り上げるヴィクトールを、オスカーはそのまま物陰に引き込んだ。
「オスカー様、どうされたんです? 何か……」
 自分を睨むように見つめてくるオスカーの薄蒼の瞳に、ヴィクトールは続く言葉を飲み込んだ。
「聞きたいのは俺の方だ。封印とは、どういうことだ? 俺とアリオスの間に、一体何があったっていうんだ?」
「聞いて……っ!?」
 オスカーのその問い掛けに、ヴィクトールはジュリアスとの会話を聞かれていたことを知った。そしてそのことに、オスカーの気配に気付かなかったことを恥じた。
「どういうことなんだ、ヴィクトール!?」
 蒼褪めた顔でなおも問い詰めるオスカーの様子に、まさかという考えが脳裏を(よぎ)る。
 そしてその首筋、襟元から僅かに覗く赫い痕が目に入って、その思いは強くなった。
「オスカー様……、まさか、もうアリオスと……」
 それでも、どうか間違いであってくれと思いながら問い返すヴィクトールの視線が自分の首筋に当てられていることに気付いて、オスカーは咄嗟にそこを手で隠した。
 羞恥に顔を染めながらヴィクトールの視線から顔を背け、躰を小刻みに震わせているオスカーに、ヴィクトールは自分が()た失態を犯したことを知った。
「……なんてことだ、俺はまた……」
 小さく呟きながら、もう隠してはおけないと思った。
 ジュリアス様、お許しください── そう心の中で謝罪して、ヴィクトールは意を決したようにオスカーの名を呼んだ。
「オスカー様」
 ゆっくりと、オスカーがヴィクトールに視線を向ける。
「自分の知っていることをお話しましょう。ですが、ここではなんです、俺の館へ」
 ヴィクトールに促され、オスカーは小さく頷くと、先に歩き出したヴィクトールに続いた。



「実際のところ、あなたとアリオスの間に具体的に何があったのか、詳しいことは知りません。ただ──
 そう切り出して、ヴィクトールは自分の館の居間で、オスカーと向かい合って座ると語り始めた。
 アリオスこそが、侵略者、皇帝レヴィアスその人であったこと。
 レヴィアスがオスカーを自分のものだと言っていたこと。
 最後に虚空の城で対峙した時のこと。
 崩れ去った城から救い出したオスカーが、意識を取り戻した時には正気を失っていたこと。
 医師や首座たるジュリアス、女王補佐官、そして女王と諮って、オスカーの記憶の一部を封印したこと──
── 以上が、自分の知っている全てです」
 そう言ってヴィクトールが語り終えた時、オスカーは茫然自失といった態でソファに躰を預けていた。
 その様子に、暫く一人にしてやったほうがいいだろうと判断して、ヴィクトールは居間にオスカー一人を残して出ていった。
 遠くに扉の閉まる音を聞きながら、オスカーは小さな声で男の名を呼んだ。
「……アリオス……」
 俺は、どうしたらいい……? と──


 暫くの時をおいてヴィクトールが居間に戻った時、そこにオスカーの姿はなかった。





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