Trost 3 【Vollendung - 7】




「何か良いことでもあったのか?」
 打ち合わせを終えて書類を整理しているオスカーに、ジュリアスがふいにそう尋ねた。
「は?」
 一体急に何を聞かれたのかと、オスカーは数度目を瞬いた。
「何やら、嬉しそうだ」
 その言葉に内心ギクリとしながらも、表面には出さぬように気を遣いつつ、考える振りをして小首を傾げた。
「さあ、特に何もありませんが……、そう、見えますか?」
 男── アリオス── と関係を持ったことを、恥じてはいるわけではない。
 しかし他人(ひと)がそれを知った時にどう思うかを考えた時、やはり話せないと思う。全ての人間が同性愛を容認しているわけではない。偏見を持ち、嫌悪し、軽蔑する者は、決して少なくはない。いや、むしろその方が多いはずだ。
 そしてジュリアスがそうとは限らないが、もしそうだったらと考えるととても言えないと思うのだ。ジュリアスに軽蔑されるのは、嫌だった。
 おそらく、かつてアリオスと関係があった時も同様だったろうと考えて、誤魔化した。
「そうか。どことなくいつもより晴れやかに見えるのでな、何かあったかと思ったのだが」
「そんなふうに見えますか?」
「まあよい。変わりがないなら、それもまた重畳」
 微笑みながら告げるジュリアスに、ずっと自分の様子を気に掛け、心配してくれているのだろうことが痛いほどに知れて、オスカーは申し訳なく思った。
「ジュリアス様……」
 どう答えたものか、オスカーにしては珍しく言葉を探しあぐねている様子に、フッと小さく笑って、ジュリアスは話題を打ち切った。
「ではまた明日。何か変わったことがあったら直ぐに報告を頼む」
「分かりました。では、失礼いたします」
 そう答え、一礼して退室するオスカーの背を見送りながらジュリアスは思った。
 最近になってだいぶ落ち着いてはきたとはいえ、完全に戻らぬ記憶に、時折不安そうに瞳を揺らしていた。そんなオスカーがあれほどにすっきりとした表情(かお)を見せたのは、女王の力によって記憶を封じて以降、初めてだと。
 環境が変わったことが、良い影響を与えたのかもしれぬと思った。今回の突然の出来事は驚きと不安の連続ではあるが、その点だけは、オスカーにとっては良かったのかもしれぬと。
 よもや、オスカーが既にアリオスと出会い、その手を取って関係すら持ってしまったとも知らずに。


◇  ◇  ◇



 オスカーがジュリアス言うところの晴れやかな表情でいられたのも、ほんの数日のことだった。
 アリオスが、来ない。
 また来る── そう言って帰っていったのに、それきり姿を見せない。
 他の人間といる時にはそんな状態は見せないように努めてはいたが、一人になると苛々とし、そして溜息を吐く数が増した。
 また眠れぬ日々が始まって、酒量が増えた。
 躰の熱を持て余していた。
 女を抱きたいとは思えない。かといって、他の男を抱きたいわけでも、抱かれたいわけでもない。
 アリオスでなければ駄目なのだ。欲しいと思うのも、抱かれたいと思うのも、アリオスだけだ。
 考えてみればオスカーが知っているのは名前のみで、アリオスがどこに住み、何をしているのか、何も知らなかった。
 初めて会った、いや、あれは見かけたという程度のものだが、あの約束の地に行けば会えるのだろうかとも思う。
 だが、会ってどうしようというのだ。
 縋りつけとでもいうのか、抱いてくれと。そんなこと、できるわけがない。
 それに必ず会えるという保証もない。
 そうして男を欲して熱を持って疼き続ける躰をかかえて、為す術もなく酒の量だけが増えていく。



 日の曜日──
 オスカーは気晴らしに、天使の広場に足を運んだ。
 様々な露店が並び、人々が買い物をし、子供たちは駆け回っている── そんなどこにでもある何気ない日常は、現在このアルカディアが置かれている緊迫した状況を忘れさせ、改めて人間(ひと)の強さというものを思い知る。
 人々の様子を目を細めて見やりながら、オスカーは果物屋で珍しげな幾つかの果実を購入した後、さてどうしようかと顔を巡らして、目を留めた。
 銀髪の細身で長身の男──
 ── アリオス!
 口元に笑みを浮かべ、そちらへ足を踏み出そうとして、止めた。
 傍らに立つ栗色の髪の一人の少女。
 ── アンジェリーク!?
 アリオスは新宇宙の女王であるアンジェリークと、花屋の前で楽しそうに談笑していた。
「……そういうことか……」
 オスカーは小さく呟いて、唇を噛み、拳を握り締めた。
 それから一瞬二人を睨みつけた後、踵を返すと急ぎ足でその場を立ち去った。



 オスカーは館に帰り着くと、出迎えた執事に一人にしてくれと言いおいて部屋に閉じ篭もった。
 キャビネットから新しい酒とグラスを取り出し、ソファに腰を降ろすと封を切ってグラスに注ぐ。一気に飲み干して、2杯目を注いだ。
 オスカーの脳裏に、先刻見かけたアリオスとアンジェリークの楽しそうにしている様が、浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
 アリオスのことは、未だ思い出せないでいた。
 ただあれこれと考えてみるに、知り合ったのは先の戦いの時だったのだろうと思われる。おそらく協力してくれた者の一人だったのだろうと。他の仲間たちは気を使って何も話してはくれないから確証はなかったが。
 その戦いの旅の中で、どういう経緯があって関係を持つに至ったのだろう。
 今も、そしてその時も、同じだったのだろうか。
 自分は、アリオスにとってアンジェリークの身代わりだったのではないだろうか── そんな考えが頭を(よぎ)る。
 いくらなんでも宇宙の女王たる彼女に手を出すことはできなくて、それで後腐れなくすむだろうと、アリオスは自分と関係を持ったのだろうかと。
 そしてまた思う。
 アリオスのことを思い出せないのは、思い出さないのではなく、思い出したくないからではないのかと。
 忘れたのは、確かに医師やジュリアスから言われたように頭を強く打ったからかもしれない。だがそれはきっかけにすぎず、アリオスとのことを忘れたくて、結果として記憶を失い、そして他の記憶を取り戻してもアリオスのことだけいつまでも思い出せずにいるのではないのだろうか。
 自分がそんなに弱かったと認めたくはない。
 けれどその考えが頭を占めて、そしてそれを否定するものがどこにもない。
 そうして、今()た、自分は同じ過ちを繰り返そうとしているのではないかと思えてならない。
「クッ、クククッ……。ウゥッ……」
 口元を歪め、自嘲の笑みを浮かべる。
 知らず、涙が零れた。だがそれを止めることもできず、オスカーは流れるに任せた。



 ふと気付くと既にあたりは暗かった。
「……眠ってたのか……」
 部屋の隅、おそらく執事が気を利かせたのだろう、壁に掛けられた小さな室内灯が一つ点いていた。
 ゆっくりとソファから立ち上がり、その仄かな灯りを頼りに照明のスイッチを入れる。眩しさに一瞬目を瞑り、それから再びソファへと戻ると腰を降ろした。
 テーブルの上のグラスには、何杯目かの飲みかけの酒が残っていて、オスカーはそれを手に取ると一息に飲み干した。
 もう何も考えたくなかった。
 アリオスのことも、アンジェリークのことも、そして一向に戻らぬ記憶のことも。
 せめて今夜だけは、何も考えず、何も思い出さずにただ眠りたくて、酒に頼った。
 そうやって1本のボトルを殆ど空けようかという時、何かを叩くような音がして、オスカーは手にグラスを持ったまま顔を上げた。
 辺りを見回して、気のせいか、と再び手元のグラスに視線を落とした。
 すると再度、先程よりもはっきりと、今度は明らかに窓を叩いていると分かる音がした。
 ゆっくりと視線を窓に向けると、外に人影が一つ。
 オスカーは立ち上がり、窓辺に寄った。
 そこに立っているのはアリオスだった。昨日までは、いや、今日の昼間までは、只管に訪れるのを待っていた男。
 オスカーは何の感情も見えない冷たい瞳でその姿を確認すると、腕を伸ばして、カーテンを引いた。
 カーテンが完全に閉まる前、窓の外、アリオスが「何のつもりだ!?」と叫んでいるのが分かったが、オスカーは気にする様子もなく、カーテンが窓を隠したのを確かめてから振り返った。
「っ!?」
 オスカーは驚愕に目を見開き、息を呑んだ。
 目の前に、表にいるはずのアリオスがいた。
「……どうして……?」
 問う声が震える。
「そこまで驚くところを見ると、おまえの方はまだ思い出してないみたいだな」
 言って、アリオスは唇の端を上げると小さく笑った。
「魔導という、俺の持っている力だ。で、どういうつもりか聞かせてもらおうか、オスカー」
 オスカーはアリオスを睨みつけたまま、自分の後ろにある窓を指し示した。
「出て行け、帰れ!」
「オスカー!?」
 露骨に嫌悪を示して帰れと告げるオスカーに、アリオスは困惑を浮かべた。
「何を怒ってる? 何か、機嫌を損ねるようなことをしたか? 来ると言いながらなかなか来れなくて今頃になっちまったことを怒ってるのか?」
「……おまえと話すことは何もないし、もう会う気もない、それだけだ。さっさと帰ってくれ」
「オスカー」
 帰れと、それを繰り返すオスカーに、アリオスは宥めるように名を呼びながら手を差し伸べた。
 オスカーはその手を払いのけ、アリオスを睨みつけるともう話すことは無いというようにその脇をすり抜けようとした。
「オスカー!」
 アリオスは咄嗟にオスカーの腕を掴み上げ、引き寄せる。そのアリオスの頬をオスカーの空いた掌が音を立てて叩いた。
「つっ!」
 アリオスは掴んでいた腕を離すと、自分の話を聞く気のないオスカーの頬を、オスカーが自分を叩いた以上の力で殴りつけた。
 アルコールの回った躰で、その力を受け止め支えきることができずに、オスカーは床に倒れこんだ。
 倒れた時にどこかを強かに打ちつけたのだろう、辛そうに顔を歪め蹲るオスカーを、アリオスは黙って肩に担ぎ上げ、オスカーが抵抗するのをものともせずにそのまま大股で部屋を横切ると、寝室への扉を開けた。





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