Trost 3 【Vollendung - 5】




 軽めの夕食を終えて、オスカーは私室に戻るとキャビネットから封を開けていない新しいウヰスキーとグラスを取り出した。それを持ってソファに腰を降ろし、早速封を切ってグラスに注ぐ。
 水で薄めることも、氷を入れることすらもせずにストレートで、呷る。
 最近、酒量が増えていた。
 こんな呑み方はよくないと、分かってはいる。だが他に方法がなくて、止められないのだ。
 夢を、見る。
 顔の無い男が自分に手を差し伸べてくる。『おまえは俺のものだ、決して離さない』と、そう言いながら。
 どうしても顔が見えない。ただ、時にその瞳の色だけが見えることがあるのだが、それは、翠の双眸であったり、金と翠の二つの異なる色であったりする。
 そしてその夢を見た後の、言いようのない躰の疼き。
 まるで喉が渇いたかのように、何かに飢えているかのように、何かが欲しくて堪らなくなる。けれどそれが何なのか、何が欲しいのか分からなくて、その疼きを抱えたまま、まんじりともせずに朝を迎えるのだ。
 女を抱けばこの疼きは治まりでもするのだろうか、とも思うが、不思議なことに、女を抱きたいとは思えないのだ。普段の女性に対する態度は特に変わってはいない。ただ、夜、ベッドを共にしたいとは思わない。
 そうして他に何も術を思い浮かばぬままに、酒を呷り、何も分からなくなるまで酔いつぶれて、漸く夢も見ないほどの深い眠りにつくのだ。



 3杯目の酒をグラスに注いだ時。
 窓の方からした、カツン、という音に、オスカーは顔を上げた。
 そのまま窓の方を見ていると、また、カツン、と、何かが当たったような小さな音がして、オスカーはゆっくりと立ち上がり、バルコニーに続く大きな窓に歩み寄った。
 窓の前に立って外を見るが、そこには何もなかった。人の気配もない。
 だいたい1階ならまだしも、2階にあるここに、誰がわざわざ外からやってくるというのか。盗人とかいうなら別だが、とそう思い、踵を返そうとした時、また、カツン、と音がした。
 小首を傾げ、オスカーは取っ手に手を掛けた。
 そして辺りの気配に注意を払いながら、ゆっくりと窓を開ける。
 風が入ってきた。
 僅かながらも酒が入って火照っている躰に、それはとても心地よかった。
 バルコニーに一歩踏み出して空を見上げれば、そこは満天の星空── とはいかない。
 ここは聖地ではなく、かといって、外界の惑星でもない、次元の狭間、なのだ。満天の星空など望むべくもなく、その様に、改めて、ここは違うのだと、オスカーに思い知らしめる。
 辺りを見回して、やはり何も無いことに、何か小さなものが風に吹かれて窓に当たりでもしたのだろうと思い、部屋の中に戻るべく振り返ろうとした時。
 不意に暗闇から伸びてきた腕に、片腕を捕まれた。
「なっ!?」
 そしてそのまま部屋の中に押し込まれる。
「誰……っ……!!」
 振り仰いで、オスカーは言葉を失った。
 そこにあるのは、初めて訪れた約束の地で見掛けた男の顔だった。
 銀色の髪、金と翠の二つの瞳── その瞳に見詰められて、オスカーは息を呑んだ。
 言葉が出ない、躰が動かない。ただ、その瞳を見詰め返すことしか出来ない。
 男の唇が、動いた。
「やっと、見つけた」
 男の、オスカーの腕を掴んでいない右腕が上げられ、そのまま、オスカーの頬に触れた。
「ずっと探してた、この色──
 男がオスカーの瞳から目を反らすことなく、甘く囁く。
 その囁きに、ドクンと一つ大きく心臓が音を立てて、それから、覚えのある疼きが躰を襲った。それはまだとても小さなものだったが。
 その自分の体の反応にオスカーが戸惑っていると、男は頬に当てていた手をそのまま滑らせて、オスカーの顎を掴んだ。
 近づいてくる顔にオスカーは顔を反らせようとしたが、顎を掴まれているためにそれもままならずにいるうちに、唇が、触れた。
「んっ……」
 思い切り強く目を瞑り、空いている方の手で男から離れようとその胸を叩き、肩を押しやろうとするが、男はビクともせず、却ってオスカーを逃がすまいとするように抑える力が強くなった。
 舌を挿し入れ、思う様、オスカーの口腔内を蹂躙する。
 逃れようとするオスカーの舌を絡めとり、正に貪るという表現そのままに、その唇を味わい尽くそうとでもするかのように、男はオスカーに深く長く口付け続けた。
 やがて、抵抗していたオスカーの手から、そして堅くなっていた躰から、力が抜けていった。
 頭が朦朧としはじめ、膝から、力が抜けた。
 そこに至って、漸く男はオスカーから唇を離した。
 男に躰を預けて喘ぐような息をしているオスカーの躰を支えながら、男は辺りを見回して一つの扉に目を留めた。そしてオスカーの躰を抱き上げて部屋の中を進み、扉を開けた。
 そこは思った通りに寝室となっていて、部屋の中央にクィーンサイズの寝台が置かれていた。
 オスカーを抱き上げたまま寝台のところまで来ると、男は上掛けを剥ぎ、ゆっくりとオスカーを横たえた。
 見下ろせば、どこか焦点の合わぬ瞳で、男を見上げている。
 前髪を払って現れた額に口付けを落とし、そして一瞬の躊躇いを見せた後、男はオスカーのシャツの釦に手を掛けた。



 これといった抵抗らしい抵抗もないままに全ての衣類を剥ぎ取って、そうして顕わになったオスカーの全身に、彼── アリオス── は息を呑んだ。
 そして、自分がはっきりと欲情しているのを自覚した。
 オスカーの薄蒼の瞳を目にして思ったのは、捜していたものを漸くにして見つけたという感慨で、その色に誘われるように唇に口付けた。
 そして次に思ったのは、この男を、オスカーを抱き締めたいという衝動だった。抱いて、自分のものにしたいと。
 自分に男が抱けるなどと、男に対してそんな感情を抱くなどとは、信じられなかった。しかし今目の前にいるオスカーに対してそう思うことに、何の違和感もなかった。むしろ当然のことのように思えていた。
 アリオスはオスカーの躰の上に乗り上げて、改めて唇に口付けた。
 口付けを解けば、そこから零れるのは熱い吐息だ。
 その様に、オスカーが自分を拒絶していないことを再確認して、アリオスは鎖骨に唇を落とした。
「あっ……」
 手で躰の線を撫で上げながら、躰を下にずらし、オスカーの二つの胸の飾りの一つに口付ける。
「んっ、あ……」
 唇で挟み、舌で舐め上げ、吸い上げ、時に歯で軽く噛んでみる。
 そうして与えられる刺激に、それは程なくつんと硬く立った。
「……っつ……」
 指で抑えたり摘んだりしていたもう片方の飾りも、同じように舌で舐め上げてやれば、同じようにプクリと立ち上がってアリオスを誘う。
 オスカーの手はいつしかアリオスの頭に回され、掻き抱いた。
 それに小さく微笑(わら)って、アリオスは暫く胸の飾りに戯れるように愛撫を続けていたが、さらに躰をずらし、そこここを強く吸っては赫い痕を残していく。



 オスカーは不思議でならなかった。
 寝台に下ろされ、これから自分が何をされようとしているのか分かっていて、だが抵抗しようという気が全く起きなかったことに。
 男の自分が同じ性を持つ男に、女のように抱かれるというのに。だのに、愛撫を受けながら、心のどこかで安堵している自分に。
 ずっと何かが足りないと思っていた。だがその足りないものが何なのか分からなくて、自分の欲しいものが分からなくて、ジュリアスや他の者たちの前では以前と変わらぬように振舞ってはいたものの、ずっと不安でならなかったのだ。
 だが今、確信に近いものがあった。
 自分が欲していたのはこれなのだと。
 夢の中に現れる顔の無い男は、今、自分を抱いているこの男なのだと。
 記憶の中には、確かにこの男はいない。だが、躰は確かに覚えている。
 この男の手を、唇を、その全てを── そう言いきれるものが、今はある。
 たとえ記憶には無くても躰が覚えているから、だから何の抵抗も違和感もなく、当然のこととして男の愛撫を受け入れている。
 そしてそれ故に、辛い。
 躰はこれ程にはっきりと覚えているのに、どうして思い出せないのだろう。
 名前を、呼びたいのに──
 そう思った途端、涙が溢れてきた。
「どうした?」
 顔を上げたアリオスが、オスカーの涙に気が付いた。
「どうして……」
「?」
「どうして思い出せない……、おまえのこと……」
「思い出す……?」
 アリオスはオスカーのその言葉に、下げていた躰を上げて再びオスカーの顔を見下ろした。
 オスカーは両手を差し上げて、アリオスの頬を挟むようにした。
「躰は、おまえのことをこんなにも覚えているのに、なのに、どうしても思い出せない。名前すらも、分からない……」
 涙を流しながら訴えるように告げるオスカーに、アリオスは目を見張り、それから辛そうに顔を歪めた。
「おまえも、なのか……」
 その一言に、オスカーは首を傾げた。
「おまえも、記憶がないんだな。俺もさ」
 自分の頬に当てられたオスカーの手を取って、アリオスはその指先に口付けた。
「俺も、記憶がないんだ。何も思い出せない。ついこの間、人に教えられるまで、自分の名前すら分からなかった」
 言いながら、アリオスはオスカーの額に自分の額を合わせた。
「おまえ、も?」
「ああ。……俺の名は、アリオス、だ。お前は?」
「俺は、オスカー」
「オスカー」
 確認するように、アリオスはその名を繰り返す。
「オスカー、俺は、ずっと一つの色を捜してた。それが何なのか分からなかったが、ただ、その色がとても大切な愛しいものに思えて、ずっと捜して、そしてやっと見付けた」
 オスカーの前髪を払い、濡れて潤んでいる薄蒼の双眸を顕わにする。
「この瞳の色だ。おまえを捜してたんだ、俺は」
「アリオス……」
 名を呼んで、オスカーは両腕をアリオスの首に絡めて引き寄せると、自分から唇を合わせていった。
 まだ何も思い出せたわけではない。けれど互いに捜し求めていたものをやっと見出した喜びに、口付けに酔いしれた。





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