「オスカーッ!!」
アンジェリークの叫び声を耳にして、慌ててオスカーの執務室に飛び込んだジュリアスの目に映ったのは、執務机の脇にアンジェリークに支えられるようにして蹲っているオスカーの姿だった。
「どうしたのだ、オスカー!?」
オスカーに駆け寄り膝をついて覗き込めば、その顔は苦しげに歪み、荒く、浅い呼吸を繰り返している。
唇は色を失い、震えて、何かを綴ろうとして果たせないでいるようだった。
「オスカー」
心配そうに名を呼んで、執務机に着いたまますっかり強張った手を、指を一本一本引き剥がすようにして外してやってから、その体を優しく抱き寄せた。
「オスカー」
もう一度名を呼んでやると、その声と、そして温もりとに安心したかのように、ジュリアスの腕の中でオスカーは意識を失った。
「オスカー様……」
かつて目にしたことのない主の様子に取り乱す屋敷の者たちに、ジュリアスは指示を出してオスカーを寝室に運ばせた。
屋敷内の者たちの中で唯一人落ち着いた様子を見せていた執事が、ジュリアスに医師を呼びにやらせたと報告し、ジュリアスはその医師の到着を待って、後を医師と執事とに任せるとオスカーの屋敷を後にした。心配してジュリアスと共にオスカーの様子を窺っていたアンジェリークを伴って。
送ろうと、そう言ってアンジェリークと並んで歩きながら、ジュリアスはアンジェリークに問い質した。
「一体何があったのだ? 今朝会った時には、オスカーにはどこも変わったところはなかったように思うが」
「私が訪ねた時も、何も変わりはありませんでした。いつものように笑顔で迎えてくださいました。それで、育成のお願いをしたら、分かったと仰って……」
どうしてなのか、何があったのか分からないと、首を振りながら答えるアンジェリークに、だが本当に何もなかったはずがない、何かあったはずだと、ジュリアスは先を促した。オスカーを訪ねてからのことを順番に話すようにと。
「それで私、アリオスのことをお聞きしたんです」
「アリオスだとっ!?」
その名に、ジュリアスは思わず立ち止った。
それに気付いて、アンジェリークも歩みを止め、ジュリアスを見上げた。
「そなた、オスカーにアリオスのことを告げたのかっ!?」
問い詰めるジュリアスの瞳の中に、アンジェリークは自分に対する批難めいたものを見たような気がした。そして、僅かに隠し切れない怒りを。
だから、勘違いした。
はっきりとは言わなかったが、ジュリアスはアリオスのことは口外無用と、そう言っていたのだ。知っているのは自分とヴィクトールのみにしておけと、そういう意味で。そしてそれはアンジェリークに通じたと思っていたに違いない。そして実際、アンジェリークはそう理解していた。
なのにオスカーに話したと、ジュリアスはそう捉えたのだと、アンジェリークは思った。
「あ、ち、違います、このアルカディアにアリオスがいることは言ってません。前の戦いの時のことで、ずっとオスカー様にお聞きしたいと思っていたことがあって、それで、そのことを……」
誤解を解きたくて、アンジェリークはジュリアスに訴えた。
アンジェリークのその言葉にジュリアスは自分の勘違いを認めたが、同時に、しまったと、自分の失態を認め、片手で額を抑えた。
「あの、ジュリアス様……」
ジュリアスの様子に、アンジェリークは不安になって、控えめにその名を呼び掛けた。
「……私の失態だ。アリオスのことを聞いた時に、話しておくべきであった」
まるで親に叱られている子供のような瞳で自分を見上げているアンジェリークに、ジュリアスはどう告げたものかと逡巡し、結局他の守護聖たちにしているのと同じ説明をすることにした。
「アンジェリーク、オスカーは、一部の記憶が欠けている」
「えっ?」
ジュリアスの言った意味が一瞬分からなくて、アンジェリークは目を見開いた。
「記憶が、欠けてる、って……?」
「オスカーが意識を取り戻したのはそなたが新宇宙に戻った後だったゆえ、そなたは知るまいが……。どうやら城が崩れる時に、頭を強く打ちでもしたのか、意識は戻ったものの、混乱していてな、記憶が失くなっていたのだ。最初は、自分のことも、回りの者のことも何も分からぬようであった。今ではもう殆どの記憶は戻ったが、まだ欠けているところがある。特に、前の戦いの時のことがよく思い出せていないようだ。無理に思い出そうとすると、酷い頭痛に見舞われるらしくてな。医師が、時間が経てばやがて、と言うのもあったし、実際、時間の経過と共に元に戻ってきているゆえ、あえてあの戦いのことなどには触れぬようにしているのだ」
「……私、そんなことちっとも気付きませんでした。だってオスカー様、以前と少しもお変わりなくて……」
思わず手で口元を抑えながらアンジェリークは呟くように告げた。
「あそこまで落ち着いたのは最近のことだ。たとえ一部でも、記憶がないというのは不安なのだろうな。精神的にもだいぶ不安定だったようだ」
言って、ああ、と気がついたようにジュリアスは続けた。
「そういえば、アリオスも記憶がないと、そう言っていたな?」
「はい。彼の場合は、一部ではなくて全てを。ここで初めて会った時、名前すらも分からないと言っていました」
「その後、思い出したような気配は?」
その問いに、アンジェリークは力無く首を横に振った。
「いいえ、まだ何も」
「そうか。ともかく、オスカーの前では、アリオスの、いや、前の戦いの時の話は避けるようにしてくれると助かる。あとは時間に任せたい。その方が、本人への負担も少ないようなのでな」
「分かりました。知らなかったとはいえ、すみませんでした」
軽く頷いてから、アンジェリークはジュリアスに頭を下げた。
「いや、私の配慮も足りなかったのだ。先程は責めるような言い方をして、すまなかったな」
だいぶゆっくり歩いていたつもりだったが、アンジェリークのための仮宮殿が見えてきたことで二人は足を止めた。
「送っていただいて、ありがとうございました」
「いや……」
礼を言って中に入っていくアンジェリークの後ろ姿を見送りながら、ジュリアスは自責の念に駆られていた。偽り続けることに。
アンジェリークに対してだけではない。他の守護聖たちに対して、そして誰よりも、オスカーに対して。
しかし、今のジュリアスには他の方法など思い浮かばなかったのだ。
◇ ◇ ◇
彼は気付いていた。
自分を見詰める、いや、監視する視線があることを。
誰かに監視されるようなことをした覚えはない。もっとも、以前の記憶がないから、本当にそうなのかと重ねて問われれば、そうとは言い切れないのだが。
しかし以前からのものであるならばともかく、最近になってからのことであれば、記憶を失くす以前のことが要因とは思えなかった。
あれこれと考えて、ああそうか、と納得した。
あの娘か、と。
名前すらも思い出せないでいた自分に、『あなたの名前はアリオスよ』と、教えてくれた娘── アンジェリーク。
アンジェリークは、自分を『宇宙の女王』だと言っていた。
言われた時は思い切り笑ったものだったが、こうなってくるとあながち嘘とは言い切れないのかもしれないと思う。
自分に向けられるその視線は、明らかに軍人、武人、それに類する者のものだ。
ただ、それにしてはあまりに明白すぎる気がするのだが。普通ならもっと隠そうと、気付かれぬように隠れようとするだろうに。
とはいえ、もし、気付かせるのが目的であるのならば話は別だ。
つまり、気付かせて、おまえのことを監視している、だから馬鹿な真似はするな、という威嚇の意味を込めているとするならば。
「うざってえな……」
誰にともなく、呟く。
何も疚しいことをしているわけではない。
アンジェリークが宇宙の女王だろうがなんだろうが、自分には関係のないことだと、彼── アリオス── は思う。
第一、自分が誘っているわけではない。
押し掛けてくるのはアンジェリークの方で、自分は単にそれに付き合ってやっているに過ぎない。
確かに、自分に名前を教えてくれた── 与えてくれたといった方がいいのだろうか、と思うこともあるのだが── アンジェリークに対して、感謝はしている。だから、もしよければまた来いよ、と声を掛けたりもした。だがそれだけだ。アンジェリークをどうにかしよう、などという気持ちは全くないのだ。
だから放っておいた。気付かない振りをしていた。気にしないようにしていた。
だが── 。
最近、気になっていることがある。
それを調べるのに、その監視の視線が邪魔でならなかった。
監視はアンジェリークのためのものだろう。そうであれば、それ以外のことに関しては無関係であり、自分がたとえば何かの犯罪に関わるのでない限り、一々気にすることはないと思うのだが、なぜか気付かれてはならないと、本能が訴えているのだ。それがなぜなのかは自分でも分からないのだが、とりあえず、その本能に従うことにした。
誰にも何も気付かれないように、アンジェリークにも不審を抱かれないように、細心の注意をして、調べる。ただ一度だけ見掛けた、あの男のことを。
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