Trost 3 【Vollendung - 2】




 そろそろオスカーのくる時間だなと思いながら、ジュリアスは昨日のヴィクトールが訪ねてきた時のことを思い返していた。



「突然お伺いしまして、申し訳ありません」
「いや、そのようなことは構わぬが、何かあったか?」
 そう返すジュリアスに、ヴィクトールはどこか歯切れが悪い。
「ヴィクトール?」
 促すように、ジュリアスは名を呼んだ。
「実は……、お話したものかどうか悩んだのですが、やはりジュリアス様にはお話しておいた方がよろしいかと思いまして」
「何があった?」
 傍らのソファを勧めながら先をと促す。
「……アリオスのことです」
 ソファに腰を降ろし、どう切り出そうかと考えてから、ヴィクトールはその名を口にした。
「アリオスだと!?」
 ヴィクトールの向い側のソファに腰を降ろしたジュリアスは、ヴィクトールの口から出たその名に、眉を顰めた。
「あやつがどうかしたのか? まさか、このアルカディアに奴がいるというのではなかろうな?」
 まさか、とそう思いながら冗談は止せというように苦笑を浮かべながら訪ね返す。
 そのようなこと、あろうはずがないのだから。アリオス、いや、皇帝レヴィアスは、遺体は結局見付からなかったが、間違いなく自分たちの目の前で息の根を止めたのだから。
「その、まさかです」
 ヴィクトールの答えに、ジュリアスは目を見開いた。
「……真実(まこと)、なのか? 他人の空似ということはないのか? あやつは、あの時に間違いなく死んだはずだ。もし仮にそうでなかったとしても、なぜ奴がこの地に……」
 信じられない、いや、信じたくないと、否定してくれ、間違いであってくれと思いながら、ジュリアスは確認するようにヴィクトールを問い詰めていく。
「……話をしたわけではありませんし、それ程近くから確かめたわけでもありません。ですが、あれは間違いなくアリオスです。あの独特の雰囲気は間違えようがない。それに……」
 ヴィクトールはそこまで言って、言葉を詰まらせた。俯き、膝の上で握り締められた拳が微かに震えている。
「それに……、何だ?」
 ジュリアスの問い掛けに、ヴィクトールは顔を上げると一息に答えた。
「傍らにはアンジェリークがいました」
「何だと!?」
 ジュリアスは思わずソファから腰を浮かした。
「アンジェリークが一緒にいたというのか!?」
「はい」
 ヴィクトールが頷くのを目に留めながら、ジュリアスはソファに深く腰を降ろしなおした。
「それが本当にあのアリオスであるというなら、女王という立場にありながら、一体何を考えているのだ、あの娘は……」
 思わず右手で額を抑えながら、呟く。
「……アンジェリークは、アリオスに対して一人の異性として好意を抱いていました。あの戦いの中で一度は()くしたと思ったものが目の前に現れたのです。彼女の気持ちは押して知るべし、でしょう。それは女王としてのではなく、一人の娘としての感情です。いくら女王だといっても、その感情を止めさせることはできない」
「想うことは致し方ない。問題はその行動だ! あの娘はこの状況を一体どう考えているのだ!? しかも、相手が普通の男であるならまだしも、よりにもよってアリオス、つまりは皇帝レヴィアス、かつての侵略者だ。自分の立場をどう思っているのか!?」
 ジュリアスからは、苦渋と、そして僅かに怒りが見て取れた。
 ジュリアスは思う。人の感情ほどやっかいなものはないと。ことに若い娘の、ましてや恋愛感情ともなればなおさらだ。
「アンジェリークの気持ちを考えれば、幸いというべきか、アリオスのことはまだ他の誰も知らないようですし、何も告げず、そのまま彼女の望むままに、と正直思ったりもしました。ですが……オスカー様のことを考えると、やはりジュリアス様にだけは告げておかねばと思い、こうして伺った次第です」
 ヴィクトールも随分と悩んだのだろうことは、十分過ぎるほどに察せられた。
「すまぬな、気を遣わせて」
「いいえ、ジュリアス様のご苦労を考えれば、これしきのこと」
「……正直、オスカーにあれほど脆いところがあったとは思いもよらなかった」
 私もです、と、ヴィクトールはジュリアスの言葉に頷いた。
 二人の脳裏を、戦いを終えた後のオスカーの姿が過ぎる。それは忘れようのない光景だった。
 誰のことも分からずに、ただ、愛しい男の姿だけを求め、その名を呼びながら昼となく夜となく、彷徨い歩いていた。
 信じられなかった。本当にこれがあのオスカーなのかと。強さを司る炎の守護聖の面影は、どこにもなかった。どれほど夢であってくれと思ったかしれない。
「ずっと傍にいながら、私はあれのことを何も知らなかったのだと、あの時初めて気付いた。そしてあの旅の中、悩んでいただろうに、私はそれに気付いてやることもできなかった。あの時からオスカーのことについては後悔ばかりだ」
 年下とはいえ、有能な片腕として、ジュリアスは誰よりもオスカーを信頼し、頼りにしていた。そのオスカーの乱心した姿は、ジュリアスに相当のショックを与えていた。
 それが、おそらく常であったならたとえ仮に思っていたとしても決して口にはしないだろう、後悔、という言葉を口に上らせていた。
 後悔──
 ジュリアスと自分と、どちらがより大きいだろうと、ヴィクトールは思った。
 何も気付かなかったジュリアス。対して、途中で、偶然の出来事からとはいえ気付きながら、何もできなかった自分。
 いや、これは比較するようなものではない。共に後悔しているという事実に変わりはない。そして誰よりも深く傷付いたのは、自分たちではなく、他ならぬオスカー自身だったのだから。
 そう思って、ヴィクトールは考えるのをやめた。
「ジュリアス様……」
「……ヴィクトール、他の者には頼めぬ。そなたには迷惑をかけるが、暫くの間アリオスを監視していてはもらえぬだろうか」
「監視、ですか?」
 それだけでいいのかとの言外の問い掛けに、ジュリアスは頷いた。
「アリオスが我々に対して何かしようという意図がないのであれば、ヘタに手を出して却って波風を立てるようなことはしたくない。ただ……」
 そこで一旦言葉を切って、それから執務室の一番大きな窓に視線を向けた。その視線の先にはオスカーの屋敷がある。それから再びヴィクトールに視線を戻すと先を告げた。
「アリオスとオスカーが再会するのだけは、避けたい。漸く落ち着いてきたのだ。今ここであれに無用な動揺を与えたくはない。……もう二度と、あの折りのようなオスカーを見たくないのだ!」
「それは私も同じです、ジュリアス様。分かりました、事が事です、他の者を頼むわけにはいきませんから、24時間常に、というのは無理だと思いますが、可能な限り」
「すまぬが、よろしく頼む、このとおりだ」
 そう言って頭を下げるジュリアスにヴィクトールは慌てた。
「お、おやめ下さい、ジュリアス様! 守護聖様ともあろう方が、俺、いや、私のような者に頭を下げられるなど……」



 それからほどなくヴィクトールは退室し、後には一人ジュリアスが残った。
 そしてその日、訪れるはずのオスカーはこず、何かあったのかと心配になって屋敷に訪ねたのだが、そこで告げられたのがオスカーの不快だ。
 昨日来、どうしても不安が拭えなかった。
 常に健康管理には充分に気を遣っているオスカーのこと、ただの不快とは思えない。もしかしたら、既にオスカーはアリオスと出逢ってしまっているのではないのか? その考えがどうしても頭を離れない。
 執務机の上で腕を組み、考えに耽っていた時、扉をノックする音に我に返った。
 入室を促すと、「失礼します」の声と共にオスカーが入ってきて、そのままジュリアスの前まで歩み寄る。
「遅くなりまして」
「いや。それより昨日は体調を崩していたそうだが、もうよいのか?」
「あ、はい、もうすっかり。ご心配をおかけしました。わざわざお運びいただいたそうで申し訳ありません」
 すっかり以前と変わらぬ表情で答えるオスカーの様子に、ジュリアスは幾分かの安堵を覚えた。
「だがそなたが負傷以外で寝込むとは珍しいこともあるものだな」
「鬼の霍乱という奴ですかね。最近現れた約束の地、あそこに日の曜日に遠乗りに出かけたんですが、あまりの気持ちの良さにうっかりそこで夕方まで眠り込んでしまいまして、おかげで風邪を引き込んだようです。これではランディたちに健康管理云々などとは言えませんね」
 そう言って笑うオスカーに、ジュリアスは気の回し過ぎだったかと、心の中で苦笑した。
「それで、エレミアの件ですが……」
 オスカーがそう切り出したことで頭の中を執務のことに切り替え、王立研究院の最新の研究データを見ながら二人は意見を交換し合った。
 そして一通りの話を終えたところに、ジュリアスの秘書官がアンジェリークの来訪を告げてきた。
 ジュリアスが通すように応え、程なくアンジェリークが入室してきた。
「おはようございます、ジュリアス様。オスカー様もいらしたんですね」
 笑顔で挨拶をしてくるアンジェリークに、二人は笑顔を向けた。
「よう、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんもジュリアス様に用事か?」
「はい、育成のお願いに」
「俺のところにも顔を出してくれよ、待ってるぜ」
 軽くウインクをしながらそう告げるオスカーに、アンジェリークは思わず頬を染めた。
「ではジュリアス様、俺はこれで。先程の件はエルンストと諮って調査を進めます」
「ああ、頼む」
 そうして退室していくオスカーの背を見送って、ジュリアスは苦笑を浮かべた。
 相変わらず女性にはマメなことだと。以前は時にそれに眉を顰めたものだったが、今はその変わらなさが嬉しかった。
「ジュリアス様?」
「ああ、すまない」
 アンジェリークに名を呼ばれてジュリアスは視線を移した。
「来てくれてちょうど良かった。そなたに話があったのだ」
「私に、ですか? 何でしょう?」
「そなたの用事を先に済ませよう。私の話はその後に。育成、だったな?」
「はい。ここに」持ってきたファイルのデータで位置を示しながら「光のサクリアを少し多めに送って頂きたいんです」
「承知した。後で送っておこう」
 そう言ってから、ジュリアスはアンジェリークにソファを勧めた。
「それで、ジュリアス様のお話というのは何でしょう? エレミアの育成の件ですか?」
 腰を降ろしてから、アンジェリークは先にそう問い掛けた。
 今現在、ジュリアスがアンジェリークに話があるとしたらそれしか思い浮かばなかった。
「いや、そうではない。私的なことだ」
「私的?」
 その言葉に、アンジェリークはきょとんとして鸚鵡返しに返した。
「そう。そなたの、プライベートのことだ」
 ジュリアスはそこで一旦言葉を切った。それからゆっくりと、その単語を声に乗せた。
「アリオスと、会っているそうだな」
 その言葉に、アンジェリークは一瞬で顔色を変えた。





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