『助けて。
 お願い、彼を、救って── !』



 不思議な声に導かれるままに連れてこられたのは、次元の狭間に浮かぶ大陸──
 その大陸に、女王は“アルカディア”と名前を付けた。


◇  ◇  ◇



 日の曜日、オスカーはアルカディアに来て以来、初めての遠乗りに出掛けた。
 向かったのは地元の人々から“約束の地”と呼ばれる地である。
 最初から在った土地ではない。アンジェリークが育成を続けるうちに、何時の間にか現れた土地だ。
 王立研究院の主任を務めるエルンストの調査によれば、もともと地続きの土地ではあったらしい。おそらく次元の狭間に落ちた時のショックか何かで、別たれてしまったのだろう。それがアンジェリークの育成により、土地そのもののエネルギーが高まり、離れていたその土地を引き寄せたものと推測されるとのことだった。
 辿り着いたその地は、一面の花畑だった。
 ほぼ真ん中あたりに一本の大きな木があり、先には森も見えたが、どこまでも、果てまでも花畑が続いているかのように思われた。
 オスカーは愛馬を木の近くまで進めると、そこで下馬した。
 軽く目を閉じて、大きく息を吸い込む。
 風が、花の香りを乗せて運んでくる。決して嫌みになる程のきつい香りではなく、仄かに香る、といった感じだ。
 それは胸の内に巣くう悩みも、痛みも、焦りも、全てを払い、穏やかな気分にさせてくれる、そんな気がした。
 オスカーはその場に腰を降ろして座り込み、空を見上げた。それからそのまま寝転がる。今だけは、自分の立場も何もかも忘れて。ここにいる間だけは、それが許されるようなそんな気がして。
 そうしてゆっくりと、薄蒼の瞳を閉じた。



 どれくらい経ったのか。オスカーは肌寒さにブルッと小さく震えて目が覚めた。
「眠っちまってたのか……」
 見上げれば、傍らの愛馬が首を傾げながら見下ろしていた。その様子に小さく微笑み掛けながら立ち上がり、服に付いた草を払う。
「すまなかったな、放っておいて」
 言いながら、愛馬の首を抱き寄せるようにした。
 ふと、自分の方に近付いてくる人の気配に気が付いてオスカーが顔を視線を向けると、一人の男がやってくるのが見て取れた。
 細身で長身の、銀色の髪の、まだ若い男。
 その姿を認めた時、ズキンと、頭の片隅が痛んで、オスカーは顔を顰めた。
 ──なん、だ……?
 俯き加減に近付いてくるその男が自分に向けられた視線を感じ取ってか、立ち止まり、顔を上げた。
 そこには、金と翠の二つの色の異なる瞳があった。
 その瞳を目にした途端、オスカーは硬直したように動けなくなった。
 手綱を持つ手は震え、動悸が早くなり、頭痛が酷くなる。
 男が真っ直ぐにオスカーを捉えて足を踏み出した時、突然様子がおかしくなった主に、愛馬が心配そうに鼻面を押し付けてきたことによって我に返ったオスカーは、慌ててその背に跨ると腹を蹴って走らせた。
「おい、あんた!」
 背後で、男がオスカーを呼び止めようと声を掛けたのにも気付かずに、ただ一刻も早くこの場を立ち去らなければと、それだけを思って。



 屋敷に戻ったオスカーは下男に馬を預けると、そのまま私室へと足早に向かった。
「オスカー様、如何なさいました。ご気分でも?」
 出迎えた執事が、オスカーのあまりの顔色の悪さに心配そうに声を掛ける。
「何でもない、少し頭痛がするだけだ。今日はもう休む。来客があっても引き取ってもらってくれ」
 それだけを告げると自分を気遣う執事を無視して部屋に入り、後ろ手に扉を閉めるた。そのまま続きの間の寝室へ進み、上着を脱ぎ捨てて寝台の上にその躰を投げ出す。
 ── ……何なんだ、一体……?
 幾分マシにはなったものの、頭痛はまだ治まらない。
 男の瞳が、脳裏から消えてくれない。
 その瞳を目にした途端、見つめられた途端、動けなくなった。
 怖く、なったのだ。
 強さを司る炎の守護聖ともあろう者が一体なんというザマだと思う。
 だがどうしても治まらないのだ、頭痛が、震えが、そして、今は胸の痛みも。初めて会った男なのに、その姿が妬き付いて離れない。
 もしかしたら、戻らない記憶の中で会ったことがあるのだろうかとも思う。さらには、記憶を失ったことに何か関係があるのかと。
 しかし自分たちを除けば、このアルカディアの住人は元々からここに在る者たち。そうである以上、そのようなことがあるはずはないのに。



「……んっ……」
 オスカーは、夢に魘されていた。
 夢の中で、顔の見えない男が告げる。
『忘れるな、お前は俺のもの、俺だけのものだ』
『決してお前を離さない』
 金縛りにあったように身動ぐこともできないでいるオスカーに、顔の無い男が手を差し伸べてくる。
 恐怖に、オスカーは叫びを上げた。
「ヤメロ── ッ!!」
 自分のその叫び声に、オスカーは目覚めて飛び起きた。
 全身を、冷や汗が流れている。
 震えの止まらない躰を、自分の両腕を回して抱き締めた。
 夢の中、オスカーにあったのは恐怖感だった。しかし目が覚めて心を占めるのは、喪失感と、深い哀しみ。
 自分はあの男を知っている、はずなのだ。なのに、名前が分からない、顔が分からない。
 自分にとってとても大切な存在なのだと、そう思えるのに。決して忘れてはならない存在のはずなのに。そう思えるのに、なのにどうしても思い出すことができない、名を呼ぶことすらできないそのもどかしさ。
「くっ、ううっ……」
 嗚咽が漏れる。
 溢れ出した涙を止める術もなく、オスカーは両手で自分の顔を覆った。



 翌日──
 毎朝顔を出していたオスカーが昼を過ぎても現れないことに不安を覚えて、光の守護聖ジュリアスはオスカーの屋敷を訪れた。
 出迎えた執事が告げる。
「オスカー様は酷い頭痛がすると仰られて、昨夜から臥せっていらっしゃいます」
 と。
「そんなに酷いのか? 医者は何と?」
「昨日、叢で随分長いこと眠ってしまったから、それで風邪でも引いたのだろうと。薬を飲んで寝ていれば治るから医者は不要と仰られまして」
 申し訳なさそうに告げる執事に、ジュリアスは安堵の溜息を吐いた。それほど心配することはなさそうだと。だがそれも執事の次の言葉を聞くまでだった。
「ですが、昨夜はだいぶ魘されておられたようで……」
「魘されて?」
「はい。随分とお苦しそうでした」
 もしや、と思う。もしや何か思い出しかけているのかと。
 思わず握り締めた拳に力が入る。
「ジュリアス様、どうか……?」
 いきなり黙り込んでしまったジュリアスに一体どうしたのかと不安そうに名を呼びかけてくる執事に、ジュリアスは、ハッとして体の力を抜いた。
「ああ、いや、なんでもない……。オスカーには、無理をせずにゆっくり休むようにと伝えてくれ」
 屋敷の奥、オスカーの私室のある方に視線を向けながらそう告げるジュリアスに、執事は深く頭を下げた。
「お気遣い、主に成り代わりましてお礼申し上げます」
「うむ、ではな」
 エントランスまで執事に見送られてオスカーの屋敷を後にしながら、ジュリアスは思い出していた。
 侵略者、皇帝レヴィアスとの戦いの後のことを。


◇  ◇  ◇



 旧き城砦の惑星での最後の戦いで皇帝レヴィアスが倒れた後、オスカーは守護聖としての立場を捨てて、崩れ行く城に一人残り、レヴィアスの後を追おうとした。
 全てが崩れ去った廃墟の中、かろうじてまだ息のあるオスカーを見付けて救い出し聖地に連れ帰ったのだったが。
 意識を取り戻したオスカーは、正気ではなかった。
 アリオス── と、ただその名だけを呼び、その姿を求めて、昼となく夜となく、彷徨い歩く。
 これがあの、誇り高く、時に傲慢とも思える程に常に自信に満ち溢れていた炎の守護聖オスカーなのかと、我が目を疑い、我が耳を疑い──
 そして、ジュリアスは唯一人全てを知っていたヴィクトールと共に、女王と女王補佐官にのみ真実を告げたのだ。
 その後、特別に招き寄せた医師を交えて諮り、他の者たちから隔離して治療を施した。女王の力でオスカーの中のアリオスに関する記憶を封印し、懸命の治療の末に、どうにかかつてのオスカーが戻ってきたのだ。
 アリオスに関する記憶を封印したことによる辻褄の合わない点については、城の崩落に巻き込まれた際に頭を強く打ったことが原因で一部記憶が喪失しているのだと、いずれ時間が経てば思い出すと、記憶がないことに不安そうにするオスカーをそう宥めた。
 他の守護聖たちにもそう言い含め、その勘の良さから、オスカーとアリオスの間に何かあったらしいと朧ろに察していたオリヴィエも、それに関しては分かっているというように沈黙を守り、漸く取り戻した穏やかな日々だった。
 それが突然連れてこられたこのアルカディアの地で、崩れ始めた。
 不安に、ジュリアスは心の中で女王に祈りを捧げた。
 どうぞ我らを、オスカーをお守りください── と。





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