Verhohlen Leidenschaft - 5




 違う、と思う。あの人の肌はもっと白くて、すべらかだった。
 こんなふうにきつい香水の香りはしなかった。焚き込めた香の香りが、匂い立つようだった。
 髪は絹糸のような黒髪で──
 目の前の肉感的な女の躰を抱きながら、頭の中では別のことを考えていた。
「オスカー、オスカー」
「なんだい、エルフリーデ?」
「一体何を考えてるの?」
「何って、君のことに決まってるだろうに」
 一瞬ドキッとしながらも、何を言ってるんだというように答える。
「嘘を言ってもダメ、私は騙されないわよ」
 女は両腕を伸ばし、オスカーの頬を包むようにした。
「ねえ、オスカー、私は確かに貴方に金で買われた女だけど、こうしてる間は、私は貴方の恋人で、貴方は私の恋人。抱き合っている最中に他の人のことを考えるなんて、マナー違反もいいところだわ。違って? 貴方が何を考えてるかは分からないけど、今は私のことだけを考えて。それが礼儀でしょう?」
「エルフリーデ」
 オスカーは女の唇に軽く口付けた。
「すまなかったな」
「分かればいいのよ」
 そう言ってエルフリーデは妖艶な笑みを見せる。
 それに誘われるように、オスカーは今度は深く口付けていった。舌を絡ませ、唾液をも貪るかのように、その口腔を弄っていく。
 自分の立場も、ここ数日自分を悩ませている事柄も振り切って、全てを忘れようとするかのように、目の前の女のことだけを考えるようにして、その白い豊満な胸を揉みしだく。
「……あぁ、オスカー……」
 女の腕が自分を抱くオスカーの背を強く抱き締め返す。けれど決してその背に爪痕を残したりしないように。
 抱いて抱かれて、女の肉体に優しく包まれてその温かさの内で達く寸前のほんの一瞬、オスカーの頭を(よぎ)ったのは、ただ一度だけ見たクラヴィスの、彼の想い人に対して見せた鮮やかとすらいえる微笑んだ貌だった。



 エルフリーデは寝台の上で上半身を起こして煙草を吸っていたが、シャワーを浴びたオスカーがバスローブだけを羽織って出てきたのを認めて、咥えていた煙草を傍らの灰皿で揉み消した。
「オスカー」
 呼ばれて、オスカーはタオルで濡れた髪を拭きながらエルフリーデの傍らに立った。
「なんだい?」
「まずは座って。そのままじゃ遠いわ」
 言われるままに、オスカーは寝台に腰を降ろす。
「オスカー」
 名を呼んで、エルフリーデは真っ直ぐにオスカーの薄蒼の瞳を見つめた。
「どんな恋をしているの?」
「え?」
「とても辛い恋をしてるって、貴方の瞳が言ってるわ」
「何を言ってるんだい?」
「隠したってだめよ。ねえオスカー、貴方、今まで本気で誰かに惚れたことってないでしょう」
「何馬鹿なことを。俺はいつだって本気だぜ。現に今だって君に……」
「私には分かるのよ。そうね、確かにいつも本気かもしれない。でもそれは恋愛というゲームにだわ。私に言わせれば、貴方は本当の恋をしたことのない、純情(ウブ)な坊やよ」
 自分から顔を反らすことを許さないとでもいうように、エルフリーデは両手でオスカーの頬を包みこみ、視線を合わせた。
「言うに事かいて坊やはないだろう」
「貴方がどれほどの経験をしてるか知らないけど、色恋沙汰に関しては私の方が上よ。だって私はここでずっと色んな恋愛を見てきたんだから」
「エルフリーデ」
 困ったなというような顔をして、オスカーは自分の頬を包む彼女の手を外そうとするが、思うようにはいかなかった。
「今、初めて本気になった相手がいるんでしょう? それもどうやら、前途多難な相手、私を抱いてる間も思ってた相手が。それとも、もしかして自分でも気が付いてないのかしら?」
 エルフリーデを抱いている間も思っていた相手── そう言われてオスカーは愕然とした。
 ずっと一人のことが頭を占めていた。それは確かに事実だ。けれどそれが、自分のクラヴィスに対するこの感情が、恋だというのか?
 いつもの自信に溢れた顔ではなく、困惑しきった表情を浮かべるオスカーを、エルフリーデはその胸元に抱き寄せた。
「その想いを、感情を大切になさい。その恋が実るかどうかは分からないけど、それが貴方をもっといい男に成長させてくれるわ。そしてね、辛くなったら、堪えられなくなったらまたいつでもいらっしゃい。私が思いっきり慰めてあげるから」
 エルフリーデの胸から顔を上げると、オスカーは妖艶な笑みを浮かべるエルフリーデの唇に自分の唇を重ねた。
「ホントにいい女だな、あんたは」
「決まってるでしょ、私はこの店のNo.1なんだから」
 当然よ、というように、エルフリーデは声を上げて笑った。
 オスカーはエルフリーデから離れて服を着込んだ。
「今日は泊まっていかないのね」
「任務があるんでね」
「軍人さんも大変よね。……軍人に怪我をするなって言っても虚しいだけだわねぇ。そうね、腕の一本、足の一本くらいは()くしてもいいけど、生命(いのち)だけは落とさないように気を付けなさいね」
「せいぜい気を付けるよ」
 返事を聞きながら、新しい煙草を取り出し、火を点けて深く吸い込む。
 吐き出した煙を目で追っていると、着替え終えたオスカーが傍に立っていた。
「……本当のことを言えば、自分でもよく分かってないんだ。だが、エルフリーデの言うとおりなのかもな。少し考えてみるよ」
「ふふ。頑張ってね、応援していてあげるわ」
 何度目かの、煙草の味のする軽いキスを交わす。
 オスカーはエルフリーデの右手の煙草を取り上げそれを咥えると、じゃあな、と手を上げて出ていった。
「貴方が本気になった相手ってどんな人なのかしらね。できるなら一度会ってみたいとも思うけど、無理だわねぇ。まあ、しっかりおやりなさい、炎の守護聖さん」
 オスカーの足音が聞こえなくなった頃、エルフリーデは微笑(わら)いながら呟いた。





 戻った聖地は、まだ深い闇の中にあった。
 オスカーは自分の屋敷には戻らずに、そのままクラヴィスの屋敷に足を向ける。
 ただ一つ、まだ灯りの点いている窓があって、それは以前に案内されたクラヴィスの部屋だとすぐに知れた。
 そうして思い出す。初めて二人で呑んだ時にクラヴィスが呟いた言葉を。
 眠れないのだ── と。
『おまえにはいまさら隠しても詮無いな』
 そう言って自嘲気味の笑みをその口許に浮かべていた。
『どんなに呑んでも酔えない、どんなに呑んでも眠れない。だが素面でもいられなくて、結局呑み続けている。その挙句に昼間に惰眠を貪ってその度にジュリアスの小言を喰らっているわけだ。情けないことこの上ないな』
 寂しげに話すクラヴィスに、初めて、この闇の守護聖の素顔を見た気がした。
 窓の向こうで人影が動くのを認め、オスカーはその場を離れ自分の屋敷へ戻った。



 日の曜日、オスカーは前日のうちにランディに都合が悪いからと断りを入れ、一人自室に篭った。ハインリッヒをはじめとした家人にはらしくない行動にいぶかしまれたが。
 一人になって、誰にも邪魔されずに考えたかった。
 あの日以来、自分がクラヴィスに対して持っていたイメージ、感情は明らかに変わった。特にあの微笑みを見てから。あの一瞬に、心惹かれ、捕らわれたのだ。
 だが、変わったのは自分だけではない。たぶん、クラヴィス自身もだ。
 以前は殆ど表情を変えることもなく、いつも冷たい気を纏っていたのに、他の者がいる時は相変わらずなものの、何かの折に二人だけになった時などは、僅かに表情を変えて見せてくれるようになった。言葉も交わすようになった。
『皆が、この聖地が必要としているのは、私という個ではなく、闇の守護聖だ。だがウォルフは違った。彼だけは、私を私として見てくれた』
 そう言って遠い目をした彼がその向こうに見ていたのは、おそらくもうその生すらも終えているであろう彼の想い人に他ならない。クラヴィスは現在(いま)もウォルフを想っている。あの時、ウォルフの名を呼びながら見せたあの微笑みが、何よりの証拠だ。
 加えて、後からあの夜のことで、随分と久し振りにぐっすり眠ることができたと言ってもいたが、それは自分の持つウォルフと同じ炎のサクリアによってのことだったのだろうと思う。クラヴィスは傍らに在るのがウォルフだと思って安心していたのだ、寛いでいたのだ。
 そこまで考えて、ふいに自分の中にある感情(もの)に気が付いた。これまで自分には縁のないものだと思っていたそれは、嫉妬という名の感情だ。
 クラヴィスのあの微笑みを向けられている、今はもうどこにもいないはずの唯一の男に対して、明らかに自分は嫉妬している。
 クラヴィスが、自分の炎のサクリアを通して、自分ではなく、その向こうにウォルフを見ているのにも気が付いている。それが悔しい、それが悲しい。自分を見て欲しいと、自分だけを見て欲しいと願う自分がいる。
 ウォルフと同じ炎のサクリアを持つ守護聖としての自分ではなく、オスカーという名の一人の男としての自分を見て欲しいと。
 そして何よりも、あの微笑みを自分だけに見せて欲しいと、自分だけのものにしたいと、彼を自分のものにしたいと、いつの間にかそう考えている自分に、オスカーは気付いた。
 自分でも気付かぬうちに芽生えていた、自分の中にあるこの醜いまでの独占欲。その対象は明らかにクラヴィス自身に他ならない。自分にこれほどの独占欲があるとは思ってもみなかった。
 それにエルフリーデは気付いたのか。エルフリーデに指摘されるまで、自分自身も気が付かなかったのに。
 いや、本当は分かっていたのかもしれない。だがそれを認めたくなくて、見ない振りをしていたのだ。
 まだ自覚したばかりのこの感情が、エルフリーデの言うとおりのものなのか。もしそうなのだとしたら、これから一体どうしたらいいのか、まだ分からない。
 こんな感情は初めてだ。
 この自分の想いを認めた上で彼に対したならば、そこに何か答えが出るだろうか。





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