夜、オスカーは自室で酒を片手に翌日から赴くことになっている惑星の資料に目を通していた。
「オスカー様」
ハインリッヒの声と扉をノックする音がして、「構わん」と短く入室の許可を与えた。
「どうした?」
「はい、クラヴィス様のお遣いの方がおみえなのですが」
「クラヴィス様の? 通せ」
「畏まりました」
ややあって入ってきたのは、クラヴィスを送っていった時に出会った、クラヴィスがハンスと呼んでいた男だった。
「急にお伺いいたしまして、申し訳ございません」
「クラヴィス様に何か?」
「いえ、そうではございません。主より、昨夜のお礼にこれをお届けするようにと申し付かってまいりました」
そう言って、ハンスは綺麗に包装された細長い箱を差し出した。
オスカーはそれを受け取り、
「今開けても構わないかな?」
ハンスが頷くのを確認して包装を解いた。
中にあったのは、1本のワインだった。それを取り出してラベルを見る。
「これは……。こんなものをお持ちだったとはな」
それは、辺境のとある惑星で造られているものだが、いつも僅かしか造られず、殆ど市場に出てくることのない、一部では幻の銘酒と噂されているワインだった。
「お気に召していただけましたでしょうか?」
「ああ、もちろん。ありがたく頂戴するとお伝えしてくれ」
「はい」
ハンスはオスカーの答えに安心したように笑みを浮かべ、それでは、と自分を案内してくれたハインリッヒと共に退室していった。
一人残されたオスカーは、立ち上がってキャビネットから新しいグラスを取り出すと、早速もらったばかりのワインのコルクを開けた。
香りを嗅ぎ、それからゆっくりと一口含んで、口内に広がる味を堪能する。
「本当に噂どおりのいい味だな。まさかこんなことでこれを呑めるとはな」
口元に笑みを浮かべながら、また一口。呑みながら、クラヴィスを思う。
昨日の出会いから、今日、屋敷に送り届けるまでに見たクラヴィスと、いつもの、これまで自分が見知っていたクラヴィスとの差を。
いつも何を考えているのか分からなくて、またその冷たい雰囲気に近寄りたいとも思わなかった。
それが穏やかで優しい気に包まれていて、ずっと近くにいたいとすら思ってしまった。まして、昨夜ウォルフと間違えてとはいえ見せた微笑は、今思い出すだけでも胸が高鳴るのを覚える。
もっと微笑っていればいいのに、と思う。そうすれば皆の受け止め方も変わるのにと。
その一方で、ウォルフのいない今、自分に向けられたものではなかったが、あの笑顔を知っているのは自分だけかもしれないと思うと、優越感も感じる。そう、たぶん今最もクラヴィスの身近にいる水の守護聖リュミエールも、あのような笑顔は知らないだろうと、なぜか確信を持っていた。
このたった二日間の、時間にすれば一日分もない短い間の、自分のクラヴィスに対する認識、思いの変化にオスカーは自分でも戸惑いを覚えた。しかしその感情の変化は、決して否定的なものでも、嫌なものでもなかった。
風の守護聖ランディと入れ替わるように視察に出たオスカーが聖地に戻ってきたのは、三日目、水の曜日の夕刻近くだった。
まずは首座たる光の守護聖ジュリアスをその執務室に尋ね、簡単な報告を済ませると、一旦屋敷に戻って私服に着替え、それから馬を走らせた。既に帰ったという闇の守護聖クラヴィスの屋敷へと。
来訪を告げると、執事のハンスが出迎えた。
「オスカー様」
「クラヴィス様はご在宅か?」
「はい、いらっしゃいます。ただいまお取次ぎしてまいりますので、申し訳ございませんが少々お待ちくださいませ」
そう言ってハンスは奥へと急いだが、そう待たされずに戻ってきた。
「お会いになられるそうです、どうぞこちらへ」
ハンスの指示で若い家人がオスカーの馬を預かり連れていくのを見送りながら、案内されるままに奥へと歩を進める。
初めて入る闇の守護聖の屋敷内だった。
この前来た時は、中に入ることなくクラヴィスを送り届けただけで帰ってしまったし、それ以前は幸か不幸か執務ですら訪れたことはない。
辿り着いた扉の前で、ハンスが軽くノックして、その扉を開いた。
「オスカー様をお連れいたしました。さ、オスカー様、どうぞ中へ」
ハンスに促されて室内に入ると、クラヴィスがいつもの重たげな正装ではなくゆったりとした室内着で、ソファに座って寛いでいた。
「先触れもなく突然お伺いして、申し訳ありません」
「そのようなことは構わぬ。視察の方はもう済んだのか」
「はい、おかげさまで先程無事に戻ってまいりました」
言いながらクラヴィスに近づいていく。
「で、今日は何用だ? 帰ったばかりでわざわざこのようなところへ」
「お渡ししたいものがあって」
「私に?」
「はい。先日戴いたものほどではありませんが、行った先で美味い酒を手に入れましたので」
言いながら、オスカーは持っていた酒の壜をクラヴィスの前に置いた。
それを手に取り、ラベルを確かめる。
そこへオスカーを案内した後一旦退室していたハンスが、コーヒーを持って入ってきたが、それをテーブルに置こうとするのをクラヴィスは差し止めた。
「コーヒーはよい。それよりもワイングラスを二つ出してくれ」
「畏まりました」
主の言うまま、コーヒーを下げ、キャビネットからグラスを出してテーブルに置くと、
「どうぞごゆっくり」
そうオスカーに告げ、ハンスは二人を残して退室していった。
「いつまでも突っ立ってないで座ったらどうだ」
「はい、失礼します。ですが、ご一緒してよろしいので?」
言いながら、オスカーはクラヴィスの向かいのソファに腰を下ろした。
「いつもは一人で呑んでいるが、今日はおまえの持ってきてくれた酒だ。たまには二人で呑むのもよかろう」
言いながら、コルクを抜いて二つのグラスに酒を注いでいく。
クラヴィスが先に口を付け、それを口の中で転がすようにして味わう。
「いい味だな」
「気に入っていただけましたか」
「ああ」
「良かった」
クラビスが目を細めながら言うのに、オスカーは安心したように笑みを浮かべる。
「なんでも最近新しくできたばかりのものだそうです。だからまだ若いんですが」
そう言って、オスカーも自分の前に置かれたグラスを手に取って口を付ける。
「それにしても、クラヴィス様があれをお持ちとは思いませんでした」
オスカーの言う“あれ”が、先日届けさせた酒のことと分かって、クラヴィスは口元に微かな笑みを浮かべた。
「私の、唯一の道楽のようなものだからな。味はどうだった?」
「最高でした!」
「おまえも、相当の酒好きのようだな」
「そうですね、美しい女性の次に」
グラスを目の前に掲げながら言うオスカーに、クラヴィスは、おまえらしい、と小さな笑い声を立てながら告げた。
そんなクラヴィスを見て、オスカーは自分の中にあったクラヴィスに対するこれまでの認識が、また一つ崩れていくの覚えた。
そうして二人で呑んで、気が付けば、差し入れられた摘みもなくなり、一本を綺麗に空けていた。相当にアルコール度の高いものだったはずだが、二人とも顔色一つ変わっていない。
「お強いんですね」
「……酒で酔ったことはない。どんなに呑んでも酔えない。だからハンスによくとめられるのだが、量ばかり増える」
そう言って自嘲気な笑みを浮かべながら、クラヴィスは最後の一口を呷った。
「随分と長くお邪魔してしまいましたね。そろそろ失礼します」
クラヴィスが呑み終えたのを合図に、オスカーは立ち上がった。
「そうか」
短く答えて、クラヴィスも立ち上がる。
「……また、お伺いしてもよろしいですか?」
オスカーの問いに、クラヴィスは少し考えてから答えた。
「物好きな男だな。来たければ来ればよい。もっともそう来たいと思うところとも思えぬが」
「ありがとうございます」
笑いながら言うオスカーに、クラヴィスは眩しいものでも見るかのように目を細めた。
そんなクラヴィスの様子を見ながら、オスカーはさりげなく彼の左手を取った。
「オスカー?」
上体を屈ませて、その手の甲に口付ける。
「オスカーッ!?」
クラヴィスの自分の名を呼ぶ声にハッとして、我に返った。
「し、失礼をっ! すみません、俺はこれで」
オスカーは慌てて、後も振り返らずに部屋を飛び出した。
── 俺は、一体何をしてたんだ……。
何も考えてはいなかった、無意識にとった行動だった。まるで女性に対してとるような態度を、どうしてよりにもよってクラヴィスに対してとってしまったのか、自分で自分が分からなかった。
一方、部屋に一人取り残された感のクラヴィスは、暫くの間、オスカーの出ていった扉をただじっと見つめていた。
「……オスカー、何を考えている……?」
あの慌てようから察するに、からかわれたということではなさそうだ。いや、むしろオスカー自身、自分のとった行動に驚いているようだった。
あのたった二日間の出来事が、オスカーの自分を見る目を変えたのだとクラヴィスには分かっていた。
彼に見せてしまった、ウォルフしか知らなかった、彼にしか見せたことのなかったもう一人の自分が彼を変えたのだと。
以前だったら訪ねてくるなど考えられなかった。ましてや先程のような態度をとるなど、ありえなかった。むしろ避けられてさえいたのだから。
「……オスカー、これ以上私に関わるな、私の中に入り込んでくるな……」
左手の甲には、まだオスカーの唇の感触が残っていた。
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