Verhohlen Leidenschaft - 3




 鳥の囀りと差し込んでくる陽の光に、朝になったのだと頭の隅で理解する。
 しかし、久しぶりに得た心地よい温もりに、まだ浸っていたかった。温かな気に包まれていたかった。
 だが同時に、頭の中で何かが違う、間違っていると警報が鳴っていた。その警報に、起きなければと、クラヴィスは無理やり意識を浮上させた。
「……ん……っ……」
 僅かに身じろいだ時、聞こえるはずのない、けれど聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お目覚めですか?」
 その声に一気に覚醒し、クラヴィスは慌てて飛び起きた。
「オスカーッ!? 一体どうして……?」
「どうしてと言われても、夕べ俺を離してくれなかったのは貴方の方ですよ、クラヴィス様」
 上体を起こしながら、オスカーが答える。
「私、が……?」
 見回せば、今いるのは自分の部屋ではなかった。現状にショックを覚えながらも、昨日のことを思い出す。
 ── 昨日、雨に濡れていたところを、そうだ、オスカーに彼の屋敷に連れてこられた。風呂を借りて、それから……。
 記憶にあるのは、部屋で休ませてもらっている間に眠気を覚えたことまでだ。たぶん不覚にもそのまま眠ってしまったのだろう。だが、それがどうしてこんなことになっているのか。
 クラヴィスは考えて、見ていた夢を反芻してみた。
 久しぶりに今目の前にいるオスカーの前任者だったウォルフの夢を見ていたように思う。彼の暖かく強いサクリアに包まれて……。そこまで考えて、目覚める前に感じていたことを思い出した。
 心地よい温もりと、温かな気と……。
 ── もしかして、間違え、た……? 傍らに在ったオスカーのサクリアを、無意識のうちにウォルフと思い込んで……。
 それほどに私は餓えていたのか、あの温もりに── そう自覚させられて、愕然とした。
 そして同時にクラヴィスは自分がとったのであろう行動に思い至り、顔が真っ赤になっているだろうことをイヤというほど自覚した。
「……迷惑を、掛けた……」
 オスカーの顔を真っ直ぐに見られなくて、そしてそれ以上に見られたくなくて、クラヴィスは彼から顔を背けながら告げた。
 その様を見ていたオスカーは、我ながら間の抜けた顔をしているかもしれないと思いながら、目を丸くしてそんなクラヴィスを見ていた。おそらく前代未聞、これが最初で最後だろう、赤面した闇の守護聖クラヴィスなどというのは。
 ふいに、オスカーの中に悪戯心が湧いた。
「まさか、貴方とウォルフ様がそんな関係だったとは思いもしませんでしたよ」
 オスカーの科白に、クラヴィスは耳まで赤くなっていく。
「昨夜の様子から察するに、ウォルフ様が聖地を去られてからは随分と淋しい思いをされてこられてのではないですか?」
 言いながら、オスカーはクラヴィスの顎に手を掛け、自分の方を向かせた。
「……オスカー……?」
 クラヴィスは形の良い眉を寄せ、何が言いたいのだと、まだ赤い顔をしてオスカーを睨みつけた。
「なんでしたら、俺が慰めてさしあげましょうか?」
 口元に笑みを浮かべて顔を寄せてくるオスカーに、クラヴィスはその意図を察し、派手な音をさせてその頬を叩いていた。
「失礼、冗談が過ぎました」
 オスカーは叩かれた左頬を赤く腫らしながら、もう何もしないと言うように両手を挙げてみせた。
「貴方の服はあちらに」
 寝台から降りながら、オスカーはクラヴィスの衣装を掛けてあるソファを示した。
「着替えられたら一緒に朝食にしましょう」
「いや、私はもう……」
「どうぞ遠慮なさらずに。厨房の方でもそのつもりで既に用意してるはずですから、無駄にしないでやってください。ではまた後ほど」
 そう言うと、オスカーはまだ寝台の上にいるクラヴィスをおいて客室を後にした。



 クラヴィスを朝食の仕度ができたと呼びに来たのは、炎の館の執事であるハインリッヒだった。
「天気もよろしいので、朝食はテラスでと、オスカー様が仰られまして」
 案内されたテラスでは、テーブルの上には料理が並べられ、既に着替えを終えたオスカーが席についていた。
「どうぞ」
 促されるままに、オスカーの前に座る。
 目の前の品数の多さに、クラヴィスは途方にくれた。こんなにたくさん、どうしろというのかと。
「……朝から随分と量が多いのだな……」
「そうですか? 生家でもこんなものでしたから、自分では特にそうは思いませんが。特に朝食は一番しっかり摂るようにと育てられましたし。それに何より代々軍人の家系でしたので、食事は食べられる時にしっかり食べておけというのが家訓のようなものだったんですよ。聖地に来る前にいた士官学校でも、よく教官から言われてましたしね。一旦戦場に出たら、いつ食事にありつけるか分からないですから。それより、どうぞ召し上がってください。全てとは言いません、召し上がれるだけでいいですから」
 言われて、クラヴィスはとりあえずまだ温かな湯気をたてているスープに手を付けた。
「食事を終えたらお送りします。今日はランディも来ないから時間もありますし」
「ランディ?」
「ええ、日の曜日の朝はいつもランディが来てるんですよ。剣の稽古をつけてやっているので」
 風の守護聖ランディは一昨日から外界に出ている。戻ってくるのは明日の予定だ。
 オスカーの旺盛な食欲に反して、クラヴィスが口にしたのは、スープとパンを一つ、それからサラダとコーヒーだけだった。
「それだけでよろしいんですか?」
「十分だ」
「先ほども言いましたが、朝はしっかり摂った方がいいんですよ」
「食べられるだけでいいと言ったのは、おまえだろう」
「それは確かに言いましたが」
「いつもに比べればこれでも食べた方だ」
「だから痩せてるんです。昨日抱き上げた時に思いましたが、身長に対して軽すぎる。もう少し食べて太ったほうがいい」
「よっ、余計なお世話だ。私が痩せていようが太っていようがおまえには関係あるまい!」
 常になく頬を紅潮させて感情的に言葉を綴るクラヴィスの様子に、オスカーは昨日までだったら決して持たなかっただろうことを思った。
 可愛いかも── と。
 そしてその一方で、クラヴィスを相手に饒舌になっている自分が不思議だった。それは昨夜来のクラヴィスの様子に、彼に対する苦手意識や近づき難さが少しずつ消えているからだろうか。
 それにクラヴィス自身の態度も違ってきている。今朝方見せてしまった、そしてまた知られてしまった事実に、取り繕う必要性を失ったからかもしれない。



 朝食を終えた後、一休みしてから、クラヴィスはオスカーと共に彼の屋敷を後にした。
 一人で歩いて帰ると言ったのだが、
「俺がお送りするからと伝えてあるんですよ」
 嘘吐きにはなりたくないので── と押し切られて、クラヴィスはしぶしぶオスカーが用意させた馬車に一緒に乗り込んだ。
 暫くしてクラヴィスの屋敷に馬車が到着すると、音に気づいたのか、屋敷内から執事のハンスが出てきて馬車に駆け寄ってきた。
「クラヴィス様」
 クラヴィスを認めて、ハンスがホッと安心したような微笑みを浮かべる。
「ご無事でようございました。昨日は雨が降り出してもなかなかお戻りになられなかったので心配していたのですが」
「ハンス、すまなかった」
「いいえ。オスカー様、ありがとうございました」
 ハンスはクラヴィスの一言に頷いて答え、続いてオスカーに深く頭を下げた。
「いや、たいしたことをしたわけじゃないからな」
 オスカーはハンスにそう答えてから、クラヴィスに向き直った。
「それでは俺はこれで失礼します。念のため、今日は早めにお休みになられたほうがよろしいでしょう」
「オスカー、昨夜面倒を掛けた上に、送ってもらいながらこのまま帰すのもなんだ、寄ってゆかぬか?」
「ご招待は嬉しいですが、やはり失礼させていただきます」
「……そうか。そうだな、これ以上私などと……」
 言いかけてクラヴィスは淋しげに瞳を伏せた。
 その様子に、クラヴィスは自分がこれ以上彼に関わっていたくないと思っているのだと、そう受け取ったのではないかと察した。
 ── 夕べかららしくないところばかりだな……。
 そう思ったのは自分に対してなのか、それともクラヴィスに対してなのか。
「些かのんびりしすぎました。これ以上こちらにお邪魔していると約束に遅れそうなんですよ。次の機会がありましたら、その時は喜んでお邪魔させていただきます」
「気を使わずともよい。おまえや他の者たちが私のことをどう思っているかくらい知っている」
「本当のことなんですが、信用がないんですね。今朝の悪戯が過ぎたせいかな。ああ、本当にレディとの約束の時間に遅れそうだ。ではまた明日」
 そう言うと、オスカーはクラヴィスが何かを言う前に、御者に「急いで戻ってくれ」と、本当に時間がないのだというように告げて馬車に乗り込んだ。レディとの、と告げたことからも、普段のオスカーの在り方を思えばそう不自然ではないと思ってくれるだろうと考える。
 しかし走り出した馬車の中でオスカーは思う。
 ── 約束なんか、ない。だが……。
 頭の中で警鐘が鳴っていた。これ以上ここに留まっていてはいけないと。それがどういった感情に由来しているのかは、自分でも分からなかったが。





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