Verhohlen Leidenschaft - 2




 夕刻、降りしきる雨の中、オスカーは屋敷に戻るために愛馬を駆っていた。
「ちっ、ドジッたな」
 本降りになる前に帰り着きたかったのに、と小さく愚痴をこぼす。
「?」
 ふと目の端を(よぎ)ったものに、オスカーは馬の脚を止め、そちらに向かう。
 それは木に凭れ掛かるようにして立っている、闇の守護聖クラヴィスだった。
「クラヴィス様、こんな雨の中、何をなさってるんです!?」
「オスカー」
 クラヴィスは掛けられた声に顔を上げ、馬上から自分を見下ろしているオスカーの姿を認めた。
「雨宿り、だ。……といっても、殆ど役には立っていないがな」
 クラヴィスは自嘲気にそう答え、それから両の腕を自分の躰を抱き締めるように回した。
 雨はまた強さを増し、一向に止む気配は見えない。
 オスカーは、何かを考えるように首を巡らせた。
「ここからなら、俺のところの方が近いか」
 そう小さく呟いて馬から下りると、オスカーはその腕を伸ばして、クラヴィスの腕を取って抱き寄せた。
「失礼」
「オスカー!?」
 一体何を、と驚くクラヴィスに構わずに、オスカーは彼の躰を抱き上げ、馬に乗せると続いてその後ろに自分も飛び乗った。
「雨の中、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう。しっかり掴まっていて下さい」
 そう告げて、オスカーは馬を走らせる。
「オスカー!」
 抗議しようとするクラヴィスを、オスカーは取り合おうとはしなかった。
「黙って。舌を咬みますよ」
 それだけでクラヴィスを黙らせる。
 クラヴィスが震えているのが分かる。それは寒さゆえか、それとも慣れぬ馬上ゆえかは分からないが。
 いずれにしろ、少しでも早く屋敷に戻ろうと愛馬を駆る。



 雨の降りしきる中、オスカーは馬の脚で屋敷の扉を蹴り開け、そのまま中に飛び込んだ。
 その騒ぎに家人たちが飛び出てくる。
「オスカー様!」
 執事のハインリッヒが真っ先にオスカーの元に駆け寄り、共にあるクラヴィスの姿を認めた。
「クラヴィス様!?」
 オスカーは馬から飛び降りると、クラヴィスを抱き下ろした。
「急いで風呂の用意を! それと、フェリックスを頼む」
 いつもならば愛馬フェリックスの世話は自分でするのだが、さすがに今日はその余裕はない。
「とにかく、風呂でゆっくり温まって下さい。そのままでは風邪を引く」
 そう言って、オスカーはクラヴィスをハインリッヒに委ね、自分も熱いシャワーを浴びようと私室に足を向けた。
「さ、クラヴィス様はこちらへ。主の申すとおり、いつまでも濡れたままではお風邪を召します」
「面倒を掛ける」
 そう答えるクラヴィスは、寒さによる震えを隠すこともできずにいた。
 この場はオスカーの好意に甘えさせてもらおうと、ハインリッヒに促されるまま足を進めた。



 とりあえず熱いシャワーを浴び、バスローブを羽織って一息ついていると、ハインリッヒが淹れたてのコーヒーを持って入ってきた。
「クラヴィス様は?」
「はい、客室の方にお通ししました。お召し物の方は今乾かしておりますので、バスローブをお召しいただいておりますが」
「……それは仕方ないだろう。俺のを、というわけにもいかないしな」
 言いながら、コーヒーを口に含んだ。
「! ブランデー入りか?」
「その方が温まりますでしょう?」
 オスカーの問いに、ハインリッヒが微笑いながら答える。
「フェリックスは?」
「エミールが厩舎に連れていきました。大丈夫ですよ、あれも馬の世話には慣れておりますから」
 聞きながら窓の外に目をやれば、まだ雨は降り続いている。
「……このまま夜まで止みそうにないな」
 ハインリッヒを下がらせた後、オスカーは服を着替え、ソファに腰を下ろした。そうして今、同じ屋根の下にいるクラヴィスのことを思う。
 考えてみれば、今までこれほど間近に接したことはなかったように思う。
 孤独を好むのか、独りでいることが多く、また首座たる光の守護聖ジュリアスからは常に職務怠慢と小言を食らっている。殆ど表情を変えることがなく、何を考えているのか、その表情から窺い知ることはできない。
 そのためだろうか、どうしても苦手意識が消えない。にも関わらず、今日に限ってはあのまま放っておくわけにもいかずに、珍しく自分から近づいたわけだが。
 抱き上げた時、雨に濡れてその衣装は水を含み随分と重くなっていたはずで、それを覚悟していた割には、思ったほどの重みを感じることはなかった。そう、その身長を考えれば、軽いといってよかった。
 かねてから白いと思っていた肌は、寒さのためか、白さを通り越して青白く、馬上で抱き寄せた躰は震えを隠し切れず、だが振り落とされまいと、鬣に必死にしがみついていた。 
 その様になにやら微笑ましさを感じたのは気のせいだったろうか。
 そこまで考えて、招待したというよりは、無理やり連れ込んだ感のあるその客人を放りっぱなしにしていることを思い出し、私室を出てハインリッヒが案内した客間へ向かった。



 客間の扉をノックする。だがそれに対する応えはなかった。一瞬躊躇ってから、オスカーはそっと扉を開けた。
「クラヴィス様」
 声を掛けてもやはり答える声はなかったが、そのまま部屋の中へ入る。
 部屋を見回してソファに黒い頭部を認め、近づき、その前に回った。
「クラヴィス様」
 再び声を掛けてみれば、当のクラヴィスはソファの背凭れに躰を預けて眠っていた。
 それを確かめて、オスカーは溜息をついた。
「……これじゃ返事はないか。さて、どうしたものかな……」
 雨はまだ降り続いている。
 考えていると、扉をノックする音がした。
「入れ」
 その声に一言応えがあり、扉が静かに開けられて、ハインリッヒが入ってきた。その手にはクラヴィスの衣装があった。
「クラヴィス様のお召し物が乾いたのですが」
「そこに置いておいてくれ。それから、誰かクラヴィス様の屋敷に遣いを。今日はこちらにお泊めするからと」
「畏まりました。他に御用は?」
「今はない」
 ハインリッヒはクラヴィスの衣装をソファに掛けるように置くと、一礼して客間を出ていった。
「失礼いたします」
 部屋に残ったオスカーは、じっと眠っているクラヴィスの顔を見た。その寝顔は静かで、一瞬、息をしていないのではないかとすら思わせるものがあった。
 オスカーは軽く頭を振ると、起こすには忍びなくて、そっとその躰を抱き上げた。
「……ん……っ……」
 起こしてしまったかと思ったが、それは杞憂だったようでクラヴィスに目覚めた気配はない。
 先刻抱き上げた時よりもさらに軽い躰を寝台まで運び、その上に静かに下ろす。そして離れようとして、叶わなかった。
 ── えっ!?
 見れば、いつの間にかクラヴィスの手がオスカーの服の袖口を掴んでいた。
 思わず一つ息を吐き出して、その手を外そうとした。
「……ウォル…フ……」
 外そうとした手は、離したくないというように逆にさらに強く袖口を掴んでくる。そして呟かれた名に、オスカーの動きが止まった。
「……ウォルフ?」
 それは知っている名だった。
 クラヴィスの呼んだ相手が、オスカーの知る相手と同一人物かどうかは分からない。しかしその可能性は極めて高い。オスカーの前任者たる、先代の炎の守護聖の名だった。
 クラヴィスが前炎の守護聖を知っているのは当然のこと。不思議なのは、こういう場面でクラヴィスが彼の名を呼ぶということだ。
 だがそれよりも、今は自分の袖を掴んで離さないクラヴィスの手をどうするかだなと、今日何度目かの溜息をつく。どうしようかと考えを巡らしながら、不自然な姿勢にいささか疲れて、ベッドに腰を下ろした。
 クラヴィスの顔に掛かった髪を払ってやろうとして伸ばした手が、その頬に触れた時、瞼が微かに動き、それからゆっくりと開けられた。
「起こしてしまいましたか?」
「…………」
 その顔に微笑みが浮かぶ。それはまるで花が綻ぶかのような、鮮やかでたおやかな、強く惹きつけられる微笑みだった。
 オスカーはその微笑みに魅せられ、胸が高鳴るのを覚えた。
 そして差し伸べられる腕を取り、誘われるようにその躰を抱き寄せようとして、
「……ウォルフ……」
 囁くように呟かれた名に、オスカーは一瞬に正気に返った。
「クラヴィス、様……?」
 名を呼んで改めて見れば、開かれていた瞳は再び閉じられ、クラヴィスは穏やかな顔で眠っている。
 ── ……寝ぼけて間違えた、ってことですか?
 しかし、と思う。どうして自分とウォルフとを間違えたものかと。
 似ているところなどない。髪の色一つとっても違う。自分の赤毛に対して、ウォルフはプラチナブランドだった。
 それでも唯一似ている、いや、同じところを挙げるなら、それは炎のサクリアだろう。
 そして、そうか、と納得する。
 無意識であるがゆえに、同じ炎のサクリアに反応したのだろうと。それはつまり、かつてそれだけ炎のサクリアが常にクラヴィスの身近にあったことの証明なのかもしれないと。
 クラヴィスの見せた微笑みの意味を考えれば、ウォルフとどのような関係にあったのかも自ずと明らかだ。
 しかし、それに対して嫌悪感は湧かなかった。人が人を想うことに、良い悪いはないのだから。
 オスカーはウォルフが聖地を去った時のことを思い出した。
 他の守護聖も皆揃って見送ろうとしていたのに、そこにクラヴィスの姿だけがなった。
『クラヴィス様だけ、いらしてないんですね。これでお別れだというのに』
 告げた時、ウォルフは微笑みながら答えた。
『いいんだよ。あいつとは昨日のうちに別れを済ませたからな』
『それにしても……』
『それに、俺が来るなと言ったんだ』
 そう言って遠くを見たウォルフの目が見ていたのは、今にして思えば、闇の守護聖の屋敷のある方向だったような気がする。





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