司政長官のルキソール公タイラントは、部下を下がらせた後でふいに思い出したことがあって、その内の一人──ランギルを呼び戻した。
「すまぬが、これからトーランド将軍の所へ遣いにいってくれぬか」
「トーランド将軍、ですか?」
「うむ。今書いている書状を届けてもらいたいのだ」
言いながらも、タイラントはペンを走らせる。
トーランド将軍とは、首都ヴァルーナの守備隊を預かる帝王ティオムキンの信任厚い老将であり、またタイラントとも長年の友人付き合いにあった。
タイラントは、トーランド将軍配下の守備隊の中に、亡きネレデディル王子の遺児を養育している夫婦の長子が配属されていることを思い出したのだ。
ほどなく書き終えたトーランド将軍当ての書状を託し、ランギルを夜の街中へ送りだした。
「夜分に恐れ入ります。ルキソール公の遣いで参りました。将軍閣下にお取り次ぎください」
トーランド将軍の屋敷に着いたランギルは、守衛に用向きを伝え、ルキソール公タイラントよりトーランド将軍に宛てた書状の入った文箱を懐から取り出すと、その箱蓋に記されたルキソール公爵家の紋章を見せる。
常にない夜の遣いに、守衛は戸惑い訝しんだものの、その遣いの男のことは、時折タイラントの供をして訪れているのを見て顔を知っていたこともあり、よほどの急用なのであろうと急ぎ奥へ伝える一方で、その男──ランギルを邸内へ通した。
ランギルがエントランスに着くと、一人の侍女が彼を待っており、トーランド将軍の書斎へと案内した。
そこには、ランギルが顔だけは知っている、トーランドのいかにも事務官といった感じの秘書官がいた。
「司政長官のお遣いでいらっしゃるとか。このような時分のお越しということは、よほどの事と存じますが、まずは、長官より将軍への書状を拝見させていただけますか?」
「申し訳ありませんが、必ず将軍に直接お渡しするようにと、主よりきつく申し付かっておりますれば、ご容赦願いたい」
秘書官の申し出は当然のことだろう。
いくらなんでもすぐさま将軍への目通りが叶うなどと思ってはいない。しかし、主たるタイラントからの厳命である。ましてやその書状の内容を考えれば、決して余人に見せるわけにはいかない、たとえそれが、将軍の信任厚い彼の秘書官が相手であっても。
故に、威圧的に言ってくる秘書官に、ランギルは厳しい顔で断りを入れた。
「失礼ですが、あなたはその書状の内容をご存知ですか? もしそうであれば、どのような事かおおよそにでもお聞かせいただければ、閣下へお取り次ぎもしやすいのですが」
「・・・・・・おおよその内容は、承知しております。ですが、それを私の口から将軍以外の方に申し上げることは出来かねます」
ランギルとしてみれば、重ねて拒否を続けるしかなかった。
秘書官はじっとランギルの様子を窺っていたが、その切羽詰ったかのような厳しげな様子に、守衛からの言伝とおり、よほどの重大事と認めた。そしてまた、頑なに自分の申し出を拒否し続けるランギルに、これは将軍に取り次ぐしかないと思い、暫く待つようにと言い置いて書斎を後にした。
退室する秘書官の後ろ姿を見送って、ランギルは深い溜息をついた。
悩んではいたようだったが、どうにか将軍に取り次いでもらえそうだと、無事に主の遣いの役を果たせそうだと──。
程なくして、先程の秘書官を引き連れて一人の見事な白髪の老人が入ってきた。
細身ではあるが、その全身から発せられる威厳とその鋭い眼差しには、年老いても尚、彼が帝国随一の武将と謳われるだけのものがある。
慌てて座っていた椅子から立ち上がったランギルは、己の前に立った老将に膝を折る。
「突然このような夜分に伺いました失礼、お詫び申し上げます。ですが、事は急を要しますれば、ご無礼の段、何卒お許しください。そしてまずはわが主よりの書状をご覧くださいますようお願い申し上げます。全てはその書状に認めてございますれば」
そう言ってランギルは文箱の蓋を開け、表書きが見えるようにして書状をトーランドに差し出した。
トーランドは一つ大きく頷いて文箱の中の書状を受け取ると、手近な椅子に腰を降ろしてそれを読み始めるのだった。
読み進んでいくうちに将軍の顔色が変わっていくのが傍目にも分かった。
「・・・・・・なんということだ・・・・・・」
書状を読み終えて小さく呟くトーランドの、それを持つ手が小刻みに震えている。
ややあって、トーランドは視線でもって脇に控える秘書官を呼んだ。
秘書官は将軍の顔に時分の顔を寄せる。と、その耳にトーランドはひそひそと何事かを告げた。
「ただちに」
秘書官は短くそれだけを答えて、書斎を出て行った。
「さて」
それを確かめて、将軍はランギルに目を向けた。
「そなたには長官への返事を頼もう、口頭になるがな」
「はい」
「・・・・・・お尋ねの者、明朝ご希望通り、ご自宅に伺わせる。また、わしの手の者のうちから数名、心効いた者をつける故、ご存分にお遣いくだされと、かように老人が申しておった、とな」
「お申し出、かたじけのうございます。主もどんなに喜びますことか」
考えてもみなかったトーランドの申し出に、ランギルは深く頭を下げた。
「さあ、そうと決まれば急ぎ帰るがよい。タイラントが首を長くしてそなたが戻るのを待っていようからな」
「はっ」
ランギルは再度トーランドに礼を述べると、言われたようにその屋敷を後にした。
ランギルが立ち去った後、そのまま書斎に一人になったトーランドは右手で目頭を抑えた。
「まったく、タイラントめ・・・・・・。ようも今までこのわしにまで黙りおおせていたものよ。もっと早くに打ち明けていてくれれば、いくらでもどうもしようがあったものを」
かつてトーランドは、ネレデディルの死後間もない頃に、当時流布していたネレデディルとその恋人との間に生まれた遺児がいるという噂を、直接タイラントに確認したことがあった。
しかしタイラントは、その時にはただの噂に過ぎないと言い切り、トーランドはその言葉を信じたのだ。タイラントと自分の付き合いを考えれば、決してタイラントが自分に偽りを言うことはありえない、と。
しかし、実際は違ったのだ。
タイラントは親友である──少なくとも、トーランドはそう思っていた──自分をも欺き通したのだ。
何故なのか、それを考えて、やがてそれも仕方なかったのかもしれぬとの結論に達した。
もしタイラントがあの時に真実を語っていたなら、おそらく自分はどのような手段を用いても必ずやネレデディルの遺児を宮殿に迎え入れただろう。 たとえそれが、亡き人の意志に反していたとしても。
『身分や立場などに囚われずに、自由に生きてみたいものだな・・・・・・』
それはネレデディルが生前、死を共にした娘と出会う前のこと、静養のために離宮に赴くという前の日に、ネレデディル自身の口から発せられた言葉だった。
その言葉を思い返せば、ネレデディルは遺してゆく子供には、帝位継承権を持つ王子としてではなく、ただの一人の人間として生きてゆくことを望んだろうと察せられる。
そのことを考えれば、当時タイラントが取った行動は、当然のことかもしれない。あの頃の状況からすれば、おそらくはそれが最善の策だったのだ。
しかし今になってみれば、失策、ということになるのだろうか。
もしも、ということは有り得ない。だが、それでも考えてしまうのだ。
もしもあの時、タイラントが真実を告げ、残された王子を宮殿に迎え入れることができていたら、現在のある種の混乱は起きなかったのではないかと。もっとも、そのかわりに別の騒動──帝位継承をめぐる争いが、ことによっては遠い昔に起きた内乱のように帝国を二分して起きていた可能性も否定できないが。
どちらが良かったのか、その問いには簡単に答えは出ないだろう。
だが今、帝王ティオムキンの意向を受けて、王子を迎えに行くという。
今はただ今回の行動が決して手遅れではないことを願うだけだ。そして無事に王子を迎え入れることができるようにと、祈るしかない。
老将は、これから暫くは眠れぬ夜が続きそうだと、思った。
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