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 噂は消えることなく、囁かれ続けていた。
 せめてもの救いは、その噂が宮殿の内部に限られていたことであろうか。だが、いつ外部に漏れるかわかったものではない。恐らくは時間の問題だろうと思われる。
 そして悩み続けたタイラントであったが、一進一退を続ける帝王ティオムキンの病状に、遂に決心を固めたのだった。
 これ以上この問題を放っておけば、それこそ取り返しがつかなくなるかもしれないと、そう判断してのことだった。そう結論を出すに至った背景には、古くから伝わる『予言の書』の一文があった。



 午後の執務を終えたタイラントは、いつものように報告をするために帝王ティオムキンの病室を訪れた。
「今日は、お加減は如何でございますか、陛下?」
「うむ・・・・・・。今日は、多少は気分も良いな」
 寝台の上に上半身を起こしていたティオムキンは、言葉の通り、今日は体調が良いようで、微熱の出ていた昨日よりは顔色も良かった。
 数年来の病状に、肉は落ち、かつての恰幅のよさは失せていたが、眼光はいまだ鋭く、帝王としての資質は全く失われてはいない。それが、タイラントにとっては何よりも救いだった。この帝王が存命する限りは、まだ安心していられる。ただ問題は、それがいつまで持つかということだ。
 もうさして時間が残されていないだろう事は、タイラントにも察せられた。そしてそれは、他の誰よりもティオムキン自身が感じていることのようにも思えるこの頃だった。
・・・・・・むしろ、そなたの方が顔色がすぐれぬのではないか?」
「そのように見えますか?」
「いささかの。・・・・・・なんぞ、あったか?」
「ご心配をお掛けいたしまして、申し訳ございません」
 タイラントを案じて声を掛けるティオムキンに、タイラントは深々と頭を下げた。
「余の方こそ、この数年来心配の掛けとおしだからの、気にするでない。それより、察するに、今日は単に報告だけではなく、なんぞ余に話があって参ったのでであろう? 長い話になるようなら、椅子に掛けたがよい。そなたも、若くはないのだからな」
「恐れ入ります」
 ティオムキンの言葉に、タイラントは寝台の傍らの椅子を引き寄せ、腰掛けた。
 しかし、話すべき内容は決まっているのに、何故か言葉が出てこなかった。
 どう切り出せば、最もショックを与えずに話を出来るか、さんざん悩んで決めてきたにも関わらず、いざティオムキンを前にすると、言葉に詰まってしまった。
「タイラント」
 信頼する司政長官のその様子に、ティオムキンの方からタイラントに声を掛けた。
「そなたの話というのは・・・・・・、例の噂のことか?」
「陛下、ご存知だったので・・・・・・?」
 ティオムキンの問いに、タイラントははっとして、俯き気味だった顔を上げた。
「たとえ病室に閉じ込められておろうともな、噂話などというものは何処からともなく耳に入ってくるものよ。それに、もう随分と長いこと流れておろうが。その話を耳にしてからというもの、一体何時になったらそなたが来るかと、ずっと待っておったよ」
・・・・・・陛下・・・・・・
 ティオムキンは室内にいる侍従たちに下がれと手を振って合図をし、彼らが部屋を下がって、自分達二人のみになったのを確認してから、話しづらそうにしているタイラントに自分の方から話を進めた。
・・・・・・エシュテートが王の器ではないと、そう言っている者がおることは、余も承知している。残念ながら、余もそう思う。エシュテートは血を分けた可愛い孫だ。だがの、だからといってあれの資質を見抜けぬ余ではないぞ。アムィラや周りの者が、育て方を間違えた。それに関しては、余にも幾ばくかの責任があるが・・・・・・。今になってあれの性格を変えるのは無理であろうよ。もし他に帝王たるに相応しいものがおるのなら、その者に継がせた方が、エシュテートに継がせるよりは、余も安心して逝くことができる」
 ティオムキンはそこで一旦言葉を切り、大きく息をついた。そして一言、問い質した。
「噂は、真実なのだな?」
「はい、陛下」
 タイラントは、もはや躊躇うことなく、大きく頷いて答えた。
「そうか・・・・・・。で、どんな子だ? 今、何処におる?」
「はい、エルシア地方の、ヴァレン山脈にほど近い小さな村に」
「エルシアとは、また随分と離れておるな」
「先日、18になられまして、王子をご養育しております者から、健やかにお育ちとの報告がございました。ご出産の際には私も立ち会いましたが、その際、ほんの一瞬ではございましたが、紛れもなく、額にサ・ラーの印たる太陽の紋を確認いたしました」
・・・・・・紋が、の・・・・・・。そうか・・・・・・。では、例の問題はないのじゃな?」
 ティオムキンは感慨深げに、タイラントに問うというよりも。自分自身に納得させるように小さく呟いた。
「御意」
 太陽の紋──それは、帝国を興した初代帝王サ・ラーはもとより、かつては代々の帝王の殆どが持つ印だった。それこそが、本物の帝王たる『光り輝く太陽の子=サ・ラー』の何よりの証なのである。
 しかし本流の血筋を封じて以来、その紋を持つ帝王は一人として現れることはなかった。だが、その血筋を取り戻すことによって、帝国は漸く紋を持つ本物のサ・ラーを再び戴くことが叶うのだ。
・・・・・・で、それは知っておるのか、自分の血のことを?」
「いえ・・・・・・。実は、ネレデディル殿下が、王子には王室とは関係なく生きて欲しいとお望みになられまして、それゆえ、王子には何もお知らせしておりませぬ」
「そうか。しかし紋を持っているとなればその者に継がせるが筋。エシュテートを担ぐ者達も反対はできぬ筈じゃ。なれば、一刻も早くその子を迎えねばならぬな。
 ・・・・・・タイラント、ネレデディルの意思は意思として、帝国の将来を思えばもっと早くに知らせて欲しかったぞ」
「お許しください、陛下」
「タイラント、太陽の紋を持つネレデディルの子を、余の前につれてきてくれ」
 タイラントは立ち上がり、ティオムキンに礼をとった。
「早速明日にでも、手の者を派遣いたします」
 その言葉を聞いたあと、さすがに長くなった話に疲れが出たのか、ティオムキンはタイラントを下がらせると寝台に身を横たえた。
・・・・・・ネレデディル、わしを許せ。わしはおまえの望みを何一つ、かなえてはやれなんだ。わしもほどなくおまえたちの処へ行くことになろう。その時に詫びはいくらでもする。だから、許してくれ・・・・・・
 祈るように小さな声で呟いたティオムキンは、一日も早い息子ネレデディルの遺児との対面を願いながら、瞳を閉ざした。
 それを確かめたように、物陰から一人の男が退室していったのを、ティオムキンは気付かなかった。
 人払いをしてティオムキンとタイラントは自分達二人だけと思っていた陰で、隠れて会話を聞いていた者がいたことを、二人とも、気付いていなかった。



 ティオムキンの部屋から下がったタイラントは、自分が告げねばならなかったことを、結局はティオムキン自身に言わせてしまったことを後悔し、己の不甲斐なさに呆れ恥じ入りながらも、早速に王子を迎えるための準備にとりかかった。
 王子のいる処はサルトーナ州エルシア地方。首都ヴァルーナから遠く離れ、どんなにいそいでも最低でも10日近くかかるところだ。しかも王子自身は全く何も知らないときている。王子に全てを話し、説得し、そして宮殿に迎えるまでには、随分と時間がかかりそうだった。
 それも、タイラントとしてはエシュテートに知られぬようにそれを図りたかった。万一エシュテートの知るところとなれば、どのような妨害が入るか、いや、最悪の場合、王子の命を奪おうと強硬手段に出てこられる可能性も、否定できない。
 加えて、亡きネレデディルの妃であり、エシュテートの母であるアムィラの存在も、決して無視できないものがあった。彼女は、夫とその恋人との間に生まれた子を、認めようとはしないであろうから。
 エルシアとの往復にかかる時間と、あちらでの時間と、一月はみねばならぬだろう。その間に、この宮殿の中においても、やらねばならぬことは多い。
 頭の中でそれらのことを考え、纏めながら、タイラントは最も信頼のおける数名の部下を執務室に呼び寄せた。



 その頃、エシュテートは自室で一つの報告を受けていた。
「見つかったのか?」
「はい、殿下。しかも・・・・・・陛下におかれましては、そやつに後を継がせると決められたようにございます」
「なんだと? 何処の馬の骨ともしれぬ女の生んだ奴に、帝位を継がせると? なんだってそんな馬鹿な考えになるんだっ?」
「それが、陛下と司政長官の話を聞いていた者が申しますには、そやつ、太陽の紋を持っているらしいと・・・・・・
・・・・・・あの、伝説の、か?」
 ティオムキンとタイラントが会話をしている間、部屋の隅に隠れて話を聞いていた者がエシュテートの臣下に内容を告げ、それを聞いた臣下が、人払いをした部屋でエシュテートに報告に及んでいる次第である。
「それこそ馬鹿馬鹿しい! 単なる昔話、それもどこまで真実かもしれん伝説を、じいさまもあの小うるさいタイラントも信じているというわけか? で、そやつ、何処にいると?」
「エルシア地方に」
「サルトーナ州の? あんなド田舎にいるのか? どうりで見つからぬわけだな」
「いかがいたしましょう?」
「どうする、だと? いちいち命じねば分からぬか? どのような手段でも構わぬ、そやつの首を取ってこい! 決してそんな奴を母上の御前に来させてはならぬ。父上の血を引くのはこの俺一人、つまり帝位を継ぐのもこの俺、他の者など許さん! 他の者など、いてはならんのだ!」





 17年ぶりに呼び覚まされた一つの噂が、タイラントが動いたことにより、一気に事態を進展させることとなった。
 民衆の知らぬところで、帝国は揺れ動いていた。
 これからこの偉大なる帝国がどのようになっていくのか、それを知るのは、神のみといったところか。
 しかし、遥か昔の預言者は、全てを見通していたのかもしれない。
 リノア公爵アエテリスは、自室で一人酒杯を片手に、まだ少年だった頃の初恋の少女を思い出しながら、代々家に伝わる『予言の書』を久し振りに繙いていた。



     『心せよ
      繁栄に溺れ 人の心乱れし時
      偽りの帝王の下 真実の帝王は去り
      全ては海の奥底に失われることになるだろう』



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