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「例の者はまだ見つからんのか!」
 アンティリア帝国の首都ヴァルーナの北部に位置する、それだけで一つの大きな街ともいえる壮大にして華麗なる帝王サ・ラーの宮殿。その中の、世継ぎたる王太子の住まいである東宮の一室で、一人の若い男が数人の男たちの前で声を荒げていた。
 その若い男こそ、現帝ティオムキンの今は亡き王子ネレデディルの遺児であり、帝国の後継者として二年前に王太子として立ったエシュテート王子、その人である。
 エシュテートは今年で二十二歳。父親のネレデディルが不慮の事故で──あくまで表向きのことであり、実際には心中だったわけだが──亡くなった時、彼はまだ五歳だった。以来17年、母后アムィラの溺愛を受けて育てられた。
 そのためであろうか。我儘で、何事も自分の思う通りにいかねば気が済まぬ性格だった。また、粗暴なところもあり、周りの者をよく困らせていた。
 そしてそんなエシュテートの性質や立ち居振舞いこそが、過去の慣例から言えば十七、八で立太子したであろうものを、ここまで遅らせた原因と言えた。
 古くからの廷臣たちの中には、世継ぎの王子たる彼に面と向かって異を述べることのできる者はそうはいなかったが、眉を顰める者は多かった。帝王として相応しい器とは思えぬと。
 そして言うのだ。
──ネレデディル殿下がご存命であられたら・・・・・・──と。
 続けて、
──あの噂が真実であったなら──と。
 ネレデディルが死んで間もなかった頃ですら、その真偽を確かめる手立てはなく、唯一それを知るであろうと思われる男、司政長官タイラントは、その噂に関しては黙して語らず、いつしか消えていったものだった。
 その噂が、十七年を経た今になって再び、一部の者たちの間で囁かれ出し、それを信じた者たちを走らせる。
 王太子エシュテートも、そうした者の一人だった。何故なら、それはエシュテートにとって、不快極まるものであったから。
 もしも噂がすべて真実であるならば、その異母弟が見つかった場合、事によっては自分の王太子たる地位を奪われるかもしれない──その可能性を無視することはできなかった。
 自分だけが先の王太子たる父の息子であり、帝国の唯一の後継者でなければならなかった。既に立太子も済んだ今になって、帝王の座を脅かすものの存在など許せなかった。
 それは何よりも自分のためであり、そしてまた母親の為でもあった。
 帝国の安寧のためにと、王室とは古くからの縁戚関係にあり、帝国随一の大貴族であるリノア公爵家の一門から選ばれて愛のないままに当時の王太子であったネレデディルと結婚した彼女は、そうして結ばれた夫に捨てられたのだ。
 母親の不幸の原因となった女の産んだ子供の存在など、どうして許すことができるだろう。
 エシュテートは、母と自分を捨てて女との死を選んだ父と、その女と、そしてその間に生まれているのかもしれない異母弟の存在を憎んだ。
 そして異母弟の存在を耳にしてから間もなく、エシュテートはその存在を確認させるべく手の者を動かした。その真偽を質し、もし万が一真実であった場合にはそれを絶つために。
 だが何分にも昔のことであり、事はなかなかエシュテートの思うように進んではいなかった。
「一体何時になったら見つけ出せるのだ!」
「殿下、どうか今暫くのご猶予を」
 エシュテートの前に膝をつく一人が、頭を下げながら告げる。
「その言葉は聞き飽きた! お前達に探索を命じてからどれだけ経ったと思う! 半年だぞ、半年! だのに未だに何一つ分からぬとは、この能無し揃いめがっ!」
 自分たちなりに可能な限りのことをしているのだと言いたかったが、それを言えば却ってエシュテートの機嫌を損ね、怒りを買うだけと承知している彼らは、ただ黙って頭を下げているだけだった。
 やがて言うだけ言って気が済んだのか、エシュテートは傍らの椅子に腰を降ろすと、一言、言い捨てた。
 下がれ──と。



 噂を確かめるべく行動を起こしたのはエシュテートのみではない。
 貴族や廷臣たちの中にも、もう一人の王子を探し出すべく動き始めた者が少なからずいた。
 しかし十七年も前のこと、エシュテート同様に、その情報の少なさに彼らもまた何も掴むことはできずにいた。
 エシュテートを始め、そうした者たちの中には、他の誰よりもネレデディルが信頼を寄せていた司政長官のタイラントから話を聞き出そうとする者が相次いだが、タイラントは時を経た今も尚、誰にも何一つ語ることはなかった。





 深夜、宮殿の一角にある司政長官ルキソール公爵タイラントの屋敷内、奥の居間で主人たるタイラントとその部下の一人が声を潜めて語り合っていた。
「どうであった、殿下のご様子は?」
「はい、今のところ特にお変わりなく、相変わらず探索は進んではおられぬようにございます」
 タイラントは部下の言葉にほっとしたように大きく頷いた。
 今年六十になるタイラントは、現帝ティオムキンの側近中の側近で、昔から変わらず真面目実直な彼は、誰にも増して帝王の信頼が厚い。ことにティオムキンが病がちのここ数年は、政治におけるタイラントの責任は更に比重を増している。
 そしてまた、現在の宮廷内において、エシュテートに対して苦言を呈することのできる数少ない廷臣のうちの一人であり、故にエシュテートはこの男を他の誰よりも煙たがっていた。
「しかし、どうしたものかな・・・・・・
 噂は、事実なのだ。
 それ故に、ここ数ヶ月の間、ずっとタイラントの頭を悩ませ続けている。
 全てを告げてしまえば、彼自身は楽になるだろうことは分かっていた。少なくとも、今現在、彼を悩ませている第一の問題は解決するのだろう。
 しかしその後は──?
 より大きな問題が待っているだけだ。
 しかもそれは、王室と帝国の運命を大きく左右することになるだろう。自分一人の胸に秘めておくには、大きすぎる悩みだった。かといって、事が事であるだけに、他の人間に相談することも叶わなかった。
 だがそれにしても、と思う。
 何故、十七年も経った今になって、再びあの噂が出てきたのか、と。
 このところ古くからの廷臣の一部の者たちが、今更ながらにネレデディル王子の死を悼み、王子が存命であったならと語り合っているのを耳にすることが増えていた。
 それは、成人し王太子として立ったエシュテートに対する廷臣たちの失望が言わせているのだろうと思われた。そしてそれが、ネレデディルを思い出すと同時に、誰ということなく、かつての噂を呼び起こすことになったのだろう。
 ネレデディルが存命であったならとは、誰よりもこのタイラントこそが思っていることであった。
 彼はネレデディルの死に対して、負い目を持っていた。
 彼は間に合わなかった。遅かったのだ。
 正妃アムィラとの冷え切った関係を思えば、ネレデディルがあの娘を愛したのは理解できた。娘の優しさに、彼は救われたのだ。
 だからそれを知るタイラントは何も言えず、二人の恋を止めなければならない立場にありながらも、黙って見ているしか出来なかった。
 それがあのような結末を迎えることになるなどとは、思ってもみなかった。
 なんとしても止めるべきだった。引き離すべきだったのだ。
 ネレデディルの気持ちを無視してでも、無理矢理にでも止めるべきだった。
 そうすれば、彼は死ぬことはなく、今、病の床にある帝王ティオムキンや他の廷臣たち、そしてタイラントを悩ませている世継ぎの問題は、出てこなかっただろう。
 今でも夢に見ることがある。
 首都ヴァルーナの南西部に広がるザナス高原にある、王室の所有する小さな離宮でのことだった。
 寝台の上、心臓を刺され、けれど苦しんだ様子もなく、穏やかとすらいえる貌で永遠の眠りについた娘と、その娘の手を握り締め、唇の端には小さな微笑みすら浮かべて息絶えていたネレデディル。
 その様を目にした時、タイラントは声も出なかった。
 ネレデディルの死は事故と公表され、真実を知るのはほんの一握りに者に限られて、世継ぎの王子が恋人と心中したという王室にとって前代未聞の醜聞は、ほとんど外に漏れることなく終わった。
 しかし、タイラントにとっては終わってはいなかった。
 いくら許されない恋であったとはいえ、どうしてこんな真似をしたのかと、命を絶つ前に何故相談して下さらなかったのかと、ネレデディルの一番の理解者であると自負していただけに、情けなかった。
 そして二人を止めることの出来なかった自分が、悔やまれてならなかった。
 今もまだ、あの時の後悔が残っている。
 実際のところ、タイラントこそがエシュテートが即位することに最も不安を覚えていると言ってよく、そしてエシュテートではなく、ネレデディルとその恋人との間に誕生した王子を次期帝王にと、それを誰よりも望んでいるのもまた、タイラントと言えなくもなかった。
 息子には、王室などとは関係なくただの一人の人間としての幸福な一生を送って欲しいと、それがネレデディルの何よりの願いだった。
 王室に、王太子という立場に縛られ、常に人に囲まれ、自由もなく、本当に愛した娘との結婚も許されなかったネレデディルは、息子にはなにものにも縛られず自由に生きて欲しいのだと、それが望みだとタイラントに語ったことがあった。そしてそれは、必ずしも愛し合って結婚した妃ではなかったが、その彼女との間に生まれたもう一人の自分の息子に対しても同様だった。
 それを知るが故に、タイラントは苦悩していた。
 今、何も知らずに育っている王子を宮殿に迎えることは、死んだネレデディルの意思に反することになる。
 そしてそれ以上に、世継ぎ問題に関して混乱を招くことになるだろう。場合によっては、数代前にあったように、世継ぎ争いに端を発した内乱が発生し、再び国を二分する大問題になる可能性も、否定はできない。
 司政長官という立場からすれば、それは絶対に避けねばならなかった。だが同時に、その立場にあるが故に、真実、帝王と呼ぶに相応しい王子を世継ぎにと望んでやまない。
「殿?」
 部下の声が、いつしか自分の思いに浸っていたタイラントを呼び戻した。
「ああ、すまんな。
 ・・・・・・殿下が、世継ぎの君として、時期帝王として相応しい方であったなら、皆、何も悩むことなどなかったものをな・・・・・・
 主人のその科白に、男は黙って頷くだけだった。
「ご苦労だが、今暫くの間、続けてくれ」
「かしこまりました」
 部下を下がらせ一人になると、タイラントは再び自分の思いの中に入っていった。
 誰か相談できる者はいないものかと、次々と廷臣たちの顔を思い浮かべる。
 しかし、単に信頼がおけるかどうかだけではなく、その人物の立場や考え方などまでをも考慮に入れると、どうしても適当な人物は見当たらなかった。
 いや、一人だけ、頭を過った人物がいるにはいた。
 それは王室とも、そしてルキソール公爵家とも遠縁に当たるリノア公爵家の当主アエテリスである。
 リノア公爵家とルキソール公爵家とは共に建国以来の名門で、ずっと王室を支え続けてきた家柄である。見方によっては、両家の支えがあればこそ、これまでの長い間、王室が、ひいては帝国が無事に続いてきたとも言えるほどなのである。
 アエテリスは公爵家を継いだ当初から、宮殿に出仕することは殆どなく、自由気侭に振る舞い、浮名を流したりもしていたが、その人柄をよく知るタイラントは、まだ若いながらもアエテリスが如何に信頼のおける人物であるか分かっていた。
 しかし彼がエシュテート王子の母アムィラ妃の従姉弟であるという立場を考えると、やはり相談を持ちかけることを躊躇ってしまうのだった。
・・・・・・思い切って陛下に全てを打ち明けてしまった方が良いのかもしれぬな。とはいえ、下手に私が動けば、私の動きから殿下に知れる可能性もある、か・・・・・・。本当にどうしたものかな・・・・・・
 我が王子よ、お立場を、残される者たちのことを何故お考え下さらなかった。今更せんないことと分かっていても、それでも口に出さずにはおられませぬ・・・・・・
 タイラントは苦渋に満ちた顔で、天を仰いだ。



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