【2_1】




 アンティリア帝国は、帝王ティオムキンの治世の下、繁栄を謳歌していた。
 帝王自身は数年前から病の床にあったが、政治的には司政長官の任にあるルキソール公タイラントの功績もあって安定し、いたって平穏な年月が続いていた。少なくとも、表面上は──
 ある意味では十年一日の如く、と言えるかもしれない。
 貧富の差は激しく、貧しい者は日々仕事に追われ、疲弊して、生活にゆとりはなく、勿論そんな生活の中で、彼らの不満は鬱積していた。とはいえ、それが彼らに何らかの行動をとらせるようなことはなかった。それは即ち、何をしても変わることなどありはしないと、彼らが諦めているということの証明なのかもしれないが。
 一方、裕福な者は贅沢に溺れ、遊興に耽る者が多く、ことに首都においてそれは顕著で、頽廃したムードが漂っていた。
 少しでも生活にゆとりのある者たちは、面白いことを求めて事の善悪に関わらず様々なことに手を出したりはしていたが、こちらもまた、特に目新しいことや変わったことが起きるような気配は何処にも感じられなかった。
 帝国の未来ということに関して言えば、誰一人として不安を感じている者はいないようだった。
 貧しい者も、富める者も、個々に関してはともかく、攻め寄せてくるような外敵の存在も、内乱の起きるような要因も見当たらず、不安要因は考えられなかった。そんな状態が長く続いている現在、帝国の繁栄は永遠に続くであろうと考えるところは、皆、同様のものであった。
 偉大なる帝王サ・ラーは病の床についているとはいえ、既に後継者は決定され、数代前にあったような世継ぎ争いで国が二分されるような事態も考えられない。万が一、帝王がこのまま全快することなく崩御するようなことになったとしても、何かしか問題が起きるような事は考えられない。それが大方の民衆の見方だった。
 しかし宮殿や、首都を始めとして帝国内に多数存在する神殿では、帝王の回復を願って多くの司祭や巫女達が、日々、神に祈りを捧げていた。だがその祈りは、いっこうに神に届いてはいないようだった。
 帝王の容態は一進一退を繰り返すだけである。たまに体調が良いと散策に出かけたかと思えば、寝台から起き上がれぬ日々が続いたりという状態なのだ。それがもう数年に渡って続いている。
 そして民衆達はいざ知らず、宮殿の中では、帝国の将来──即ち、世継ぎに関して頭を抱えるものが少なからずいた。
 その者たちに言わせれば、王太子エシュテートは資質的に言って、とても帝王サ・ラーとなるには相応しいとは言いがたい、ということになる。
 そんな風に考える者たちにしてみれば、そんな世継ぎしかいない状態では、もしこのまま帝王が崩御となった場合、非常に心もとないとしか言いようがなかった。
 とはいえ、帝王の直系の者は、孫であるエシュテート王子一人しかいないのだ。
 永い時の中で、王室の血は細くなる一方だった。
 エシュテート以外に帝位継承者と言えるような者は、いないも同然だった。それでも、どうしても彼以外の者をとなると、王室と古くから縁戚関係にある大貴族たるリノア公爵家かルキソール公爵家から迎えるぐらいしかないだろう。
 そんな状況の中、誰からともなく復活した古い噂が、宮殿の中を駆け抜けていった。
 一体、何時、誰が最初にその噂を言い出したのだろうか。
 17年前に死亡したエシュテート王子の父親、つまり帝王ティオムキンのただ一人の王子であったネレデディルには、もう一人、エシュテートとは母親の異なる王子がいる──と。
 事故死とされたネレデディルが、実は恋人と心中したのだということは、隠されてはいたが、それでもやはり完全に隠しとおすことはできず、知る者はいた。
 その恋人との間に、子供が、それも男子が生まれていたというのだ。
 二人の間に王子が生まれたという話は、当時も、かなりの信憑性をもって囁かれていた。
 時を経て再び囁かれだしたその噂は、エシュテートに失望している者たちに希望を持たせた。事の真偽はともかくとして──。
 何故ならば、帝国の歴史を代々伝えている古い貴族たちに言わせれば、娘の素性を考えた場合、本当にその娘が王子を出産し、そして無事に健やかに育ってさえいれば、その王子は帝王となるに最も相応しいに違いなかったからだ。いや、むしろその王子こそが帝王となるべきだということになる。
 彼らがそう考える原因は、娘の素性にあった。
 過去において、妾妃を持った帝王や王子は決して少ない数ではなかった。にもかかわらず、当時、正妃がいるとはいえ、何故ネレデディルが先達のように恋人を宮殿に迎え入れなかった、否、迎え入れることが出来なかったのか、どうして二人が死なねばならなかったのか、まだ覚えているものは多い。
 娘が、その血の持ち主でさえなければ、ネレデディルは娘を正妃とすることはできずとも、少なくとも、妾妃として宮殿に迎えることは可能だった。
 にもかかわらず、ネレデディルが娘を宮殿に迎えることが出来なかった理由もまたその娘の血筋に、素性にあったのだ。
 娘の家こそは、遠い昔の、アンティリア帝国を建国した本来の王室の本流だったのだ。つまり、アンティリア帝国の正統なる支配者の血筋なのだ。
 建国時から暫くの間、まさに「光の王」、「光り輝く太陽の子」と称されるに相応しい帝王が続いていた。そんな帝王達の存在は、アンティリア帝国の永遠の繁栄を神が約束しているかのようでさえあった。
 そんな帝国に影が射し始めたのは、建国からどれほど経った頃のことだったろう。
 王室の人々の中に、異常が見え隠れし始めたのだ。
 それは、時に身体的なものであったり、時に精神的なものであったりした。勿論、何の異常のない者もいて、逆にその者たちは非常に優れた資質を持っており、その者らが帝王の座を継承することによって、異常さは表面的にはどうにか隠されていた。
 しかし、時が経つにつれて異常な者の割合が増え、それは民衆から隠しとおせるようなものではなくなりつつあった。
 原因は、血の濃さにあった。
 過ぎるほどの近親婚に、血が濃くなりすぎたのだ。
 結果、異常さと正常さとが極端に現れるようになっていた。
 その事態に、遂に殆どの王族は、一切のものから隔離されるに至ったのである。
 その一方で、最も血が薄いと思われる者を選び出して帝王の座に迎えることで血統の存続を図った。同じ過ちを繰り返さぬよう、過度に血が濃くなりすぎることのないように注意を払いながら。それが現帝ティオムキンの祖である。
 それからおよそ一千年余り、どれほどの代替わりがあったことだろう。だが、それがなされて以降は事なきを得て、帝国は繁栄を続けていた。ただ一つ、サ・ラーの証を持つ、本物の帝王が現れなくなった事を除いては──
 故に、その血を持つ者が現れたならば、そしてその者に問題がないのならば、玉座は正統な帝王に還されるべきだと、そう考えるものがいてもおかしくはない。
 そして帝国の過去の歴史においてそんな事があったことなど、一握りの者を除いて、古くからの大貴族たちですら、殆どの者が忘れ去り、隠された王族の血もとうに絶えたと思われていたのに、唐突にその血を引く者が現れた。それも、王太子ネレデディルの恋人として。
 実際にその娘に会った者はごく僅かだった。
 しかしその娘の、王室の一部のみにしか許されなかった、そして今では全くつけられることのなくなったその名に、帝国の古い記憶を持つ者たちは、封じられた血を思い出した。
 細く、細くなりながら、それでも血は絶えることなく続いていたのだ。娘は、その血を受け継ぐ最後の一人だった。
 帝国の歴史の記録者でもある神殿と、ほんの一部の貴族を除いて今はもう知る者のない、人々から忘れられ、禁じられた血を受け継ぐ娘と、王太子ネレデディルは、互いにそうと知らずに出会い、恋をした。
 周囲の者がその恋に気付いた時には、既に手遅れだった。
 ネレデディルは妃アムィラとの離婚と、そして王太子としての地位を捨て、娘と二人で暮らすことを選ぼうとしていた。
 それは決して誰にも認められぬ恋だった。
 理由は夫々に違っても、全ての者たちが二人を別れさせようとした。
 だが人々がそうしようとすればするほどに、二人の、特にネレデディルの想いは強まり、ついには全ての制止を、父たる帝王ティオムキンや母后の必死の説得すら振り切り、何もかもを投げ捨てて娘を選んだのだった。
 しかし、そうして始まった二人の暮らしは、長くは続かなかった。幸福なはずの恋人達を待っていたのは、悲劇的な最後だった。
 もう一度、ネレデディルを説得しようとして二人の許を訪れた当時既に司政長官の地位にあったルキソール公タイラントがそこに見たものは、自ら命を絶った二人の姿だった。
 それが、17年前の出来事だった。



【INDEX】 【BACK】 【NEXT】