青く、何処までも遠く四方に広がる草原の中に、彼はただ一人でいた。
アンティリア帝国の西方に位置するここエルシア地方は、草原を中心に、西と北には深い森、更にその奥には高い峰々を持つヴァレン山脈がそびえ、南はこの国最大の湖ローナスへと至る。東は、草原の中心部から歩いて三日ほどの処に、漸く小さな村に行き当たる。そしてそこからさらにずっと東に行った先に、帝国の首都ヴァルーナがある。そこには、中央に高い塔を持つ、帝王サ・ラーのおわす広大にして華麗なる宮殿がある。
エルシア地方と呼ばれるこの辺り一体の近辺には、街と言えるほどのものは存在しない。以前はそれでももう少し多くの人間が小さな集落を幾つか作って住んでいたのだが、多くの者が街の繁栄に心惹かれ、富を求めて街へと流れ出ていき、村が消えていった。現在では、真に大地を愛し、大地と共に生きていくことを望んだほんの一握りの者が住んでいるにすぎない。そうして残った人々は、街と関わることなく、ただ一日一日を懸命に生きていた。それ故に、街の退廃したムードもこのエルシア地方においては微塵もない。だからこそ、この地には神々の王ザナの祝福が約束されているのだ。そう、今ではサ・ラーでさえも得ることの叶わなくなった祝福を。
そして、彼は愛していた。
ザナの祝福による豊かな自然の恵み、人々の優しい心、それらを育み育てたエルシアの緑なす大地を。だから彼はこの地を決して離れようとはしなかった。たとえどれほど他の者から誘われようとも、彼はエルシアを離れることなど、一度たりとも考えたことはなかった。
緑の草原の上を、南風が吹き抜けていく。
「ルーガル、ルーガール!」
少女が彼を呼ぶ。年の頃は十五、六といったところだろうか。少女の長い亜麻色の髪が風になびいている。
「ルーガル!」
少女が名を呼び続ける。
ふと、草の間から一人の少年が上半身を起こした。
「テュニカ」
「ルーガル!」
名を呼ばれ、少女の緑色の瞳が輝いた。
「もう、一体何度名前を呼ばせたら気が済むのよ!」
言いながら、少女──テュニカは彼の傍へと駆け寄った。
「ごめん、ちょっとうとうとしてたんだ」
彼の黄金色した細い絹糸のような髪が、陽に透けてキラキラと輝いている。体質なのだろうか、どれほど太陽の光を浴びようと殆ど日焼けしたことのない白い肌をして、その顔立ちはどこか気品さえ感じられる。年齢はテュニカより二、三歳年上といったところだろうか。
彼は立ち上がり、テュニカを待った。
「で、何かあったのかい?」
「兄さんが都から帰ってきたのよ」
「兄さんが?」
二人の兄ガディルは、一昨年から軍に入隊し、現在は首都ヴァルーナの守備隊に配備されていた。
「ええ、休暇を貰ったのですって。往復に掛かる日数を入れても、三日はこちらにいられるって」
二人は楽しそうに話をしながら、兄の待つ家へと戻った。
居間に入る扉を開けると、部屋の中に少し長めの黒髪を一つに束ねた、座っていても長身と分かる逞しい体付きの青年がいた。
「兄さん!」
「よお、ルーガル」
「お帰り、兄さん」
急いで戻ったため、いささか息を弾ませながら、ルーガルはガディルに声を掛けた。
「テュニカ、戻ったのかい? なら食事の仕度を手伝っておくれ」
奥の台所から母親の声が掛かった。
「ハァイ、母さん」
テュニカは返事をすると台所へ入り、ルーガルはガディルの隣に座った。
「暫く会わないうちにまたでかくなったな」
「ほぼ二年振りだからね。兄さんは変わりないみたいだね、元気そうでよかった」
「おまえたちもな」
言いながら、ガディルは昔よく幼い弟にしたように、ルーガルの金色の頭を撫ぜた。
ルーガルはこの優しい兄が大好きだった。小さい頃はいつも兄の後をを追い掛けてばかりいたものだ。
ガディルも幼い弟を可愛がり、よく面倒と見ていた。そしてやがて妹のテュニカが生まれてからは、ガディルが軍に入るまで、いつも三人で過ごしていた。数年して除隊すれば、ガディルはこの家に戻ってくるはずで、そうしたらまたずっと一緒にいられる。それまでは、両親とテュニカと自分の四人で、ガディルの帰りを待っていればいい。
ルーガルは養子で、家族の誰とも血の繋がりはない。
両親が生まれて間もないルーガルを引き取り、ガディルに弟だと言って引き合わせた時、ガディルはもう物心ついていて、突然出来た弟という存在に戸惑いはしたものの、純粋に喜んだものだった。
そのことはルーガルも知っている。
ルーガルの実の両親が誰なにか、それは知らされていない。あえて聞こうと思ったこともない。そんなことは関係なかった。たとえ血は繋がっていなくても、ガディルにとってルーガルは自慢の弟であり、テュニカにとってもまた自慢の兄だった。
二人は会っていなかった間の、互いの話をした。
エルシアは十年一日と言っても過言ではないが、ガディルのいる街は違う。日々、変化がある。
ルーガルは街に住もうと思ったことはなかったが、ガディルから聞く街の話は自分の知らないことばかりで、その話には興味をそそられる。ルーガルはがディルの話に熱心に耳を傾けた。
その日の夕食は、久しぶりに一家五人揃ってのものとなった。
それは、いつまでも続くはずのものだった。
この時、彼らの誰一人として知るよしもなかったが、今のこの数日が、彼ら家族の最後の至福の時となるのだ。
彼らの知らないところで、大いなる運命の輪が廻り始めていた──。
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