PROLOGUE




 化粧台の前に座った娘は、右の小指に付けた紅を、唇に差した。
 そしてそのまま、鏡に映る自分の姿を見つめる。


──これは、誰?
──これは、私・・・・・・


 鏡の中の娘の頬を一筋の涙が伝う。
 少女は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。



 この頃、時々ふっと意識が遠のき、記憶が途切れることがある。
 それは遠い記憶の中の母親の姿に似ている。
 自分を忘れ、夫を忘れ、娘を忘れた母の姿。やがて何も分からなくなって、呼吸することすら忘れたように、心臓の鼓動を止めた人。
 その母の後を追うように父も逝き、それからは一人で、ただ数人の使用人に囲まれて生きてきた。
 その頃から分かっていたことだ。母に訪れたことがいつか自分の身にも訪れるであろうことは、分かっていた。そして一人で死んでいくのだと、そう思っていた。
 しかしそれを恐れたことはなかった。少なくとも一人で過ごしていた頃は。
 だが今は違う。
 愛する男がいて、そしてその男との間に生まれたばかりの幼い息子がいる。
 その一人きりではない愛しい者たちとの新しい生活の中で、自分が自分でなくなる時が来るというのは、なんと恐ろしいことだろう。しかしそれを止める術はないのだ。
 だから、男と約束したのだ。いつかその時がきたら、その手で自分を殺してくれ──と。



 娘は化粧台の前から立ち上がり、寝台の傍らにある揺り籠の脇に立った。
 その揺り籠の中には、何も知らずに安らかに眠る赤子がいる。
 娘は起こさないようにそっと、その子の自分と同じ淡い金色の髪に手を当ててゆっくりと撫でた。
・・・・・・私は、あなたを産むべきではなかったのかもしれない・・・・・・。全てを知ったら、あなたは私を、私たちを、恨むかしらね・・・・・・?」
 娘の頬を涙が伝う。
「姫さま・・・・・・
 掛けられた声に振り返れば、いつ部屋に入ってきたのか、昔から娘に仕えてくれている女がいた。
「マイラ」
 娘はその女の名を呼ぶことで、自分の元へ招いた。
「姫さま」
「もう仕度は出来たの?」
 涙の跡の残る顔で、娘は問い掛けた。
「はい、姫さま」
「そう」
 娘は微かに微笑んで、揺り籠の中に眠る赤ん坊をそっと抱き上げた。
 少しぐずったように見えて、起こしてしまったかと思ったが、赤ん坊は娘の腕の中で安心したように眠っている。
「私の坊や、これでお別れね。あなたを手離す母さまを許してね。・・・・・・いいえ、許さなくてもいいわ。私のことなんか知らなくていい。その方がいいの。そして私の子としてではなく、マイラの子として育つのがあなたのため、だから・・・・・・
 娘は再び流れ出した涙に濡れる頬を、赤ん坊の頬に寄せた。
「姫さま、本当に・・・・・・
 マイラの問いは最後まで聞かなくとも分かる。
 赤ん坊を手放す気に変わりはないのかというのだろう。
 それはこの子が生まれてから、いや、身篭ったことが分かった時からずっと、父親である男も交えて何度となく話し合ってきたことだ。
 一度は、堕ろすことも考えた。
 この子には祖母に当たる、自分の母親を襲った、そして今、自分を襲いつつある運命が、この子にも降り掛からないとも限らないのだから。いや、むしろそうなる可能性の方が遥かに高かったから。
 しかし男の、『産んで欲しい』との言葉に、『心配はいらない、きっと大丈夫だ』との言葉に、産む決心をした。
 男とて確信があって言った言葉ではない。それは娘にも分かっていた。けれど男の言葉は、信じることが出来た。だから不安を抱えながらも出産したのだ。
 とはいえ、手元で育てることには問題があった。自分だけではなく、男にとっても。
・・・・・・分かっているでしょう? いずれは私も母さまのようになる時が来るのよ。それもそう遠くない日に。それは避けようのないこと。それにあの人──ネディルも、たとえ私のことがなくとも、この子を普通の一人の子として育てるには、私たちの手元で育てるよりは、他に預けた方がいいと言っていたわ。あなたには迷惑を掛けてしまうけれど、私たちには安心してこの子を預けられるのはあなたしかいないの。だからマイラ、この子をお願い。私たちのことをこの子に教える必要はないわ。あなたたち夫婦の子として育ててやって」
・・・・・・姫さま、私たち夫婦にどれだけのことが出来るかは分かりません。けれど姫さま方の分まで、心を込めてお育ていたします」
 これが最後と、主の決心に変わりのないことを確かめて、マイラは告げた。
「ありがとう・・・・・・
 その時、扉がノックされて、男が入ってきた。
「ネディル」
 娘は顔だけを男の方に向けて名を呼んだ。
 男が娘たちの方に歩み寄る。
「別れは、済んだか?」
「ええ」
 頷いて、娘は自分の腕の中の赤ん坊を男の腕に渡した。
・・・・・・・・・・・・
 男の腕の中で赤ん坊が目を覚ました。
 母親譲りの、空の色を映したような綺麗な青い瞳が現れる。
「起こしてしまったな」
「ダァ・・・・・・
 笑いながら、赤ん坊が男に向かって小さな手を伸ばす。
 その手を大きな手で包み込んで、今日を限りに別れ、二度と会うことはないであろう息子に、父親たる男は慈愛に満ちた瞳を向けた。
「私には許されなかったが、おまえは自由に、自分の思うように生きなさい。それが私がおまえに対する何よりの願いだ」
「殿さま」
「マイラ、迷惑を掛けるが今日からは自分の息子と思って育ててやってくれ。よろしく頼む」
 男はマイラに向かって小さく頭を下げた。
「はい、どうぞお任せくださいませ。きっと立派にお育ていたします」
 そう告げるマイラの瞳にも涙が浮かんでいる。
・・・・・・いつまでもこうしていてはきりがないな」
「そうね」
 男は赤ん坊をマイラに渡し、続いて懐から一振りの短剣を取り出した。
「おまえに残してやれるものは何もないが、せめて私が父から譲り受けたこの守り刀を持っていくがいい。おまえの幸せを、母さまと二人、いつまでも祈っているよ」
 そう言って、男はマイラに短剣を手渡した。
「それから、あなたの中に流れる封じられた私たち一族の血が、決して現れることのないように」
 娘はずっと身に付けていた、代々伝ええられてきた紋章の入った古い指輪を外し、赤ん坊の小さな手に握らせて、それからその額に最後の口付けをした。
・・・・・・行ってちょうだい、マイラ。私たちはここから見送るわ」
「はい。・・・・・・どうぞお二人とも、いつまでもお健やかに」
 それはないのだと、二人に未来はないのだと知っていたが、それでももう二度と会うことはないだろう主人たちに対して、マイラには今はそれしか告げる言葉がなかった。
 マイラは二人に向かって頭を下げると、預けられた赤ん坊を抱いたまま、部屋を出て行った。
 声もなく、小さく方を震わせて泣く娘を、男は優しく抱き寄せた。
「これで・・・・・・いいのよね。あの子のためには、これが一番・・・・・・
 あとは声にならなかった。
 少しして、赤ん坊を抱いて館を出たマイラとその夫が、時々振り返りながら遠ざかっていくのを、二人は窓の内側から、寄り添いながら黙って見送った、いつまでも、マイラたちの後ろ姿が見えなくなったあともずっと──




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