祭壇の前に浮かびだした影は、徐々にその姿をはっきりとしたものに変えていった。
「おお、我が神、大物主命様!」
老婦人が、大物主と呼びかけたその影は明らかに男性で、髪は美豆良に結われ、衣装も同様に古墳時代の頃を思わせる白い衣を身に纏っていた。そして、やがてその影は、部屋の中央に敷かれた布団に寝かされている、こちらも白い薄物の着物一枚だけを身に着せられて、まだ意識のないままの紅葉に近づいていった。
既にはっきりとした形を見せているその男性── 大物主── は、紅葉の傍らに腰を降ろし、その面差しをゆっくりと眺め、そしてその頬に手を当てると、ゆっくりと撫でた。
それがきっかけとなったのか、紅葉の意識が浮上してくる。ゆっくりと、閉じられていた瞳が開かれていった。
確かに男子ではあったが、それでもその整った端正な面差しは、十分に大物主の望みに叶っていた。
「……だ、れ……?」
掠れてはいたが、それでも出された声に大物主は微笑を浮かべ、老婦人に問い掛けた。
『この者の名は?』
「はい、紅葉、と申します」
『紅葉か、よい名だ』
その言葉に、老婦人は、彼女にとっては主ともいえる大物主が、紅葉を気に入ったのだと判断し、安堵の溜息を吐いた。娘の櫻が駆け落ちしてしまって以来、ずっと待たせしてしまっていたのだから。
その大物主の手が、紅葉の着物の袷に手をかける。
ほぼそれと同時に、閉じられていたはずの扉が思い切り大きな音を立てて開けられた。
龍麻は、途中、何人もの己の行く手を邪魔する者を力づくで── といっても、氣を練るほどのこともなく、普通にだったが── 倒しながら進み、やがて何やら不穏な気配のする部屋の前、周囲の状況から、ここが先に聞いた奥の間だろうと見当をつけ、扉に手をかけると思い切り開いた。
そこで一番最初に目に入ったのは、部屋の中央に寝かされている紅葉と、その紅葉が着せられている白い着物に手をかけている、まるでタイムスリップしてきたかのように、古代のいでたちをした一人の男だった。ついで、その奥に一人の老婦人の姿も認めたが、今の龍麻にはその老婦人の存在はすぐに意識の外に出された。
「俺のモンに手ぇ出してんじゃねぇよっ!!」
『これが、おまえのもの、だと? これは我に捧げられしもの。我のものだ』
「勝手なことほざいてんじゃねぇよ! 紅葉は俺のモンだ!! そっからどきやがれっ!」
そう叫んで、龍麻は男に突っ込んでいった。
それを見ていた老婦人── 聞いた話が正しいなら、紅葉の祖母── が、龍麻に向かって叫ぶ。
「小僧! 畏れ多くも我が君たる大物主命様に何ということを!!」
『そうだ、下がれ、小僧! 人間の分際で我に逆らうか!?』
二人の言葉など、龍麻には意味をなさない。紅葉は龍麻にとっては陰陽の存在、魂の片割れ、何よりも大切な自分のもの。それを後から現れた人外の存在に、黙ってかっさらわれてたまるか、との思いがある。誰にも渡さない、そのために紅葉を求めてここまで来たのだから。
「人間の分際で、だと!? じゃあ俺からはこう言ってやろう! てめぇ、大物主だって? なら、たかが蛇のくせに俺に逆らおうなんて、烏滸がましいぜ! そこをどきやがれ!」
龍麻はそう叫びながら、飛び上がって紅葉の躰を超え、その傍に立った大物主に向かって思い切り蹴りを入れた。その強さに、大物主の躰が僅かだが後ろに押しやられる。
「蛇如きが、黄龍たる俺に逆らい、そしてその俺の半身ともいえる紅葉に手ぇ出してんじゃねぇよ!!」
『黄龍だとっ!?』
龍麻から放たれた言葉に、男は思わず、信じられぬ、とでもいうように問い返していた。
「そうだ。俺は黄龍! 貴様のような蛇如き、相手にもならねぇよ! 秘拳!黄龍!」
寛永寺での戦いを最後に、もう二度と放つことはないだろうと思っていた秘拳を、相手は人間ではなく蛇神だというなら遠慮はいらない、とばかりに龍麻は氣を練って大物主に向かって放った。
大物主は龍麻から放たれた拳を避けようとしたが避けきれずにその身に受け、そのまま弾き飛ばされるように後ろにあった祭壇に思い切りその躰をぶつけ、祭壇は龍麻の放った拳とぶつかった大物主の勢いと、二つの力のまえに崩れた。
「我が君! 大物主命様っ!!」
放たれた拳の影響範囲と、祭壇にぶつかった大物主の躰から僅かに離れていたために、老婦人はかろうじて直接の被害から免れていたが、崩れた祭壇から落ちてきたものが幾つか躰にあたり、中には額を傷つけた物もあったため、大怪我ではなかったが額から血を流していた。
祭壇にぶつかった大物主が、よろっとしながらも立ち上がった。その躰からは、龍麻とはまた違った氣が立ち上がっている。
『……確かに、そなた、普通の人間ではないな。だが、貴様が黄龍だなどと、そのようなこと認められるか!』
そう言って大物主は右手を上げて、そこから龍麻に向かって氣を放つ。しかし龍麻はそれを見切って避けた。
『っ!!』
避けられたことによって怒りを覚えたかのように、大物主の形相が変わった。
「流石に一発じゃいかないか。ならばもう一発、これで止めだ! 秘拳!黄龍っ!!」
先の一発目よりもさらに最大に練り上げた氣で、大物主めがけて再度放つ。二発目は見事に大物主の躰の中央にまともに入った。
『うわあぁぁぁぁ───── っ! おのれ、きさま、ぁぁ!! ……』
既に一発目で実際にはかなりのダメージを負っていた大物主は、先のものよりもさらに強い氣を込められたものを避けることもできずにまともにくらい、耐えきれなかったのだろう、叫びを上げ、龍麻に向けて恨みの籠った言葉を放ちながら消え去った。
「大物主命様── っ!」
老婦人が、大物主の躰が消え去ったあたりに向かって叫び声を上げる。しかし、もはや何の反応もなく、返ってくるものも何もない。
「あ、あああ、あ……、命様……、命様── っ!」
老婦人は大物主の躰が消えたあたりまで這うようにして辿りつくと、しわがれた声で泣き出した。
それを横目に見ながら、龍麻はまだ意識がはっきりしていないらしい紅葉の躰をそっと抱き上げた。
「……龍、麻……?」
「おお、迎えに来た。鳴滝さんも来てるから」
「館長、も……?」
「ああ。何があったかよく分かってないみたいだな。とりあえず、鳴滝さんにどっか落ち着けるとこに連れてってもらおう。
詳しい話はそこでだ。今は休んでろ、紅葉」
「……わかっ…た……」
そこまで言ってまた意識を失ってしまった紅葉を抱いたまま、部屋の中で泣きぬれている老婦人を無視して、龍麻はその部屋を後にした。
|