die Befreien 【2】




 血に塗れた女の腕が伸ばされる、自分に向かって。
 その腕が自分の腕に触れた濡れた感触に叫び声を上げようとして、彼は目を覚ました。
「……夢、か……」
 寝台に上半身だけを起こす。
 息は乱れ、全身に冷や汗を掻いていた。この夢を見た時はいつもそうだ。
 暫くして息が落ち着いてから、彼はゆっくりと寝台を降りた。


◇  ◇  ◇



 女王の交代と共に旧宇宙から新宇宙へと星々の移動が行われ、当初はざわついていた聖地も時間が経つにつれていつもの落ち着きを取り戻しつつあった。
 新しい女王、新しい宇宙──
 滅びかけていた宇宙は救われ、新しい未来が開かれたはずだった。しかし、見落とされていた綻びが、ここにきて表面化しつつあった。



「お忙しいところを急にお呼び立てして、申し訳ありません」
 新しく女王補佐官となったロザリア・デ・カタルヘナはそう言って、自分の目の前に立つ三人の守護聖── 首座たる光の守護聖ジュリアス、闇の守護聖クラヴィス、そして夢の守護聖オリヴィエ── に目を向けた。
「私たち三人だけでよいのか?」
「はい。今はまだ、事を公にはしたくないのです。事は深刻であり急を要しますが、ようやく落ち着きを取り戻し始めたばかりですから、叶うならば騒ぎ立てずに内々に解決したく考えております」
「そうか。で、一体何があったというのだ」
 ジュリアスの問いに、ロザリアは目を伏せ、答えることに、一瞬のことではあったが確かに躊躇いを見せた。
「ロザリア?」
 呼び掛けにロザリアは顔を上げ、三人の顔を順に見てから、ゆっくりと紅を塗った唇を開いた。
「前女王陛下のお力で、旧宇宙からこの新宇宙に無事に移動を終え、また、旧宇宙は閉じられました。それにより宇宙の崩壊は食い止められたはずでした」
「何、それ? はずでした、って、その言い方……、もしかして実はそうじゃなかったって、こと?」
「はい」
 オリヴィエは身を乗り出すようにしてロザリアに問い、ロザリアはただ一言でそれに答えた。
「どういうことだ? 何が起こっていると?」
「ある宙域において、今もまだ宇宙の崩壊が進んでいるということです」
「そんな馬鹿なっ!? だったら一体何のための移動だったのよ!」
「……その地域における現象の原因は別の所にあったと思われます。ですが、旧宇宙は全体的に崩壊の危機にありましたから、それに紛れて同じ原因によるものと捉えられていたのです」
「原因が違う? そしてその原因は解決されてないってわけ? で、その原因は今では分かってるの?」
 オリヴィエは立て続けに問いを重ねた。
 ロザリアは自らそれに答えることはせずに、先刻から彼女の後ろに控えていた若い男を呼んだ。
「エルンスト」
 エルンストと呼ばれた彼は、最近任命されたばかりの王立研究員の主任研究員だった。
「説明を」
「はい」
 エルンストは三人の前に進み出た。
「まずはこれをご覧下さい」
 エルンストのその言葉と同時に、彼等の前に宇宙図が投影される。
「ここが問題の地域です」
 エルンストがある一点を指し示し、それに合わせて宇宙図はその地点を拡大していく。
「この辺り一体の星々が次々と死滅しつつあります。そしてそれは円を描くように範囲を広げつつあります」
「円を描くように? それって、なんかヘンじゃない?」
「円というからには中心があるということだな。中心は?」
「ここです」
 エルンストはジュリアスの問いに、宇宙図の中で赤く点滅する一つの惑星を指し示した。
 指し示された惑星を見て、ほんの一瞬、クラヴィスの眉が潜められたが、その場にいる者は皆、宇宙図に目を向けていたために誰もそれに気付かなかった。
「この惑星は宇宙の端に近いので、正確には円とはいえませんが、確実にこの惑星を中心として放射状に、範囲が拡大しています。そして何よりも一番問題なのは、これらの地域にはサクリアが一切通じていないということです」
「サクリアが通じない? そのようなことがあるのか?」
「まるで何かの壁に阻まれるかのように一度跳ね返され、その後消失しています」
「そのようなことが起こるなど、いまだかつて一度も聞いたことがない。一体どのような力が働いているのだ?」
「サクリアを跳ね返す力なんて、そんなもの聞いたことないわよ。何かの間違いじゃないの?」
「何度も確認しました。しかし何度やっても、この地域からは、サクリアは一切感知できませんでした。また、それだけではないのです」
 エルンストは一旦宇宙図の投影を消すと、改めて三人の守護聖に向き直った。
「まだあるの?」
「サクリアは通じませんが、壁、と、とりあえずいいますが、これは実体はありません。ですから物理的な進入は可能です。そこで数度に渡って調査員を派遣しました。その結果についてですが、まずはこれを」
 エルンストは手にしていたファイルから出した数ページに渡る資料を三人に手渡した。
 受け取って内容を確認した彼等は、一様に眉を潜める。
「お分かりですね? 壁の中に入った者たちは、程度の差はあれ、皆、相当の心理的ストレスを受けています。寂寥感、不安感、悲しみ、怒り、憎しみ── その他、あらゆる負の感情が増大し、暴力的になる者や、鬱状態になる者、自殺を図る者など、皆、何らかの状態に陥っています。そして問題の星に近付けば近付く程にその割合は増え、程度もまた酷くなっています。戦場に出たわけではなく、ただ単に惑星の調査に出ただけのことであるにも関わらず、生きて帰ってこなかった者の数は既に二桁に上ります。帰還した者たちも、数度に渡るカウンセリングを受けさせていますが、精神的ダメージは大きく、なかなか元には戻れない状態です。また、この地域に住む住人たちや動物にも同様の事がいえるのです。むろん、もっと酷い情態で。単に星が死滅しているのではありません。星の死滅以前に、そこに住む者たちも滅びの道を歩んでいるのです」
「……その星に、一体何があるというのだ?」
「分かりません」
 エルンストは首を横に振りながら、力なく答えた。
「分からないって、調査したんでしょう!?」
「調査、しきれませんでした。問題の惑星に辿り着くことすら叶いませんでした」
「時間的に、無理だったか?」
「はい。あれ以上、調査員たちを危険に晒すことはできませんでした」
「で? 私たちにどうしろっていうの? 調査員の代わりに私たちに調査しろってわけ?」
「……少し、違います」
「精神的に強く安定していれば、多少は長く耐えられるようなのです」
 説明をエルンストに譲って黙って聞いていたロザリアが、再び口を開いた。
「そこで一つの案が出ました。調査員と共に守護聖を派遣し、守護聖のサクリアで、調査員の精神的安定を図るというものです」
「それで私たちってわけ?」
「ここから送ったサクリアは壁に跳ね返されていますが、船の進入は可能です。サクリアを持つ者自身が中に入れば、力の行使は可能と思われるというのが、研究院の出した結論です」
「つまり、守護聖のサクリアで調査員を保護しつつ、調査を進める、というわけか」
「そうです。今回の件の中心となっている惑星は判明していますが、それ以上のことは何も分かっていません。守護聖だけを派遣するのは無謀というものですし、かといってこれまでのことを考えれば、調査員だけを派遣するのも同じことの繰り返しとなるだけで無益なことですから」
「……ルヴァは、いいのか?」
 ジュリアスは知の守護聖の名をあげた。調べる、ということであれば、守護聖たちの中ではもっとも適任といえる存在だ。
「彼には他に調べてもらいたいことがあるのです。それに、今回の目的には向きませんでしょう?」
「確かにそうだな」
「今回はクラヴィスとオリヴィエの二人にお願いしたく思います。行っていただけますか? 無理強いはしたくありません」
 ロザリアは告げながら、二人を交互に見やった。
「私はいいのか?」
「首座である貴方には全て承知しておいていただきたくてお呼びしました。調査員に同行していただきたいのは、クラヴィスとオリヴィエの二人です」
「行かないわけにはいかないでしょ」
「……承知した」
「危険と思われたら、致し方ありません、その時点で引き返していただいて結構です。その判断は貴方方に委ねます」
「引き返しちゃっていいの? そんなことしたら、今までの繰り返しじゃない」
「だからといって、貴方方を失うわけにはいきません。その時はまた別の方法を考えます」
「けど、時間はあまりないのよね……」
 オリヴィエは自分に言い聞かせるかのように呟いた。
「で、出発は?」
「できれば明日にでも」
「明日!?」
「次元回廊で行けるもっとも近いところまで行って、その後は船で向かうことになります。その船も既に同行の調査員と共に準備を終えて、貴方方の到着を待っています」
「お二人にはこれを」
 一歩下がっていたエルンストが、クラヴィスとオリヴィエにファイルを手渡した。
「この問題の惑星── セレスタイン── に関する旧宇宙時代からの資料と、今回の状態に関する資料を可能な限り纏めたものです」
「船の中ででも読むことにするわ」
「どうかよろしくお願いします。そして、どうぞ無事に戻られますように」
 そう言って、ロザリアは二人に向かって頭を下げた。
「ロザリア、女王補佐官ともあろう者が、たとえ守護聖相手であってもそう簡単に頭なんか下げるもんじゃないわよ。大丈夫、なんとかなるって。宇宙の移動なんてとんでもないことだってやり遂げたんだから」
「はい」
 励ますように明るく言い放つオリヴィエに、ロザリアは少し元気付けられたように口元に微笑を浮かべて答えた。
「それとね、あんまり深刻な顔ばっかりしてると、他の連中に怪しまれるよ。まだ知らせたくないんでしょ?」
「そうですね、気を付けます」



 会談を終え、ロザリアは一人女王の執務室に向かった。
 重厚な扉をノックして執務室内に入ると、女王アンジェリークは窓辺に立ってじっと外を見ていた。
「陛下」
 呼び掛けに答えることなく、ただ外を見ている女王にロザリアは歩み寄る。
「全て予定通りに?」
「はい、陛下。明日出発します」
「そう」
 眼下には明日の出発準備のために宮殿を下がる二人の守護聖の後ろ姿があった。
「ロザリア……」
「はい、陛下」
「これで、良かったのかしら」
「陛下?」
 振り返ってロザリアを見た女王の瞳は、不安げに揺れていた。
「いやな、予感がするのよ。もしかしたら、私たちは彼を……」
「陛下」
 ロザリアは不敬に当たるかと思いながらも、不安そうに見上げてくる女王を── いや、誰よりも大切な友人を抱き締めた。
「大丈夫よ、アンジェリーク。大丈夫。二人を信じましょう。女王である貴方が信じなかったら、叶うことも叶わなくなってしまうわ」
「ロザリア」
「信じて、そして、二人の無事を祈りましょう」





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