夢 の 跡




 五人揃っての最初の戦いで、阿羅醐の圧倒的な力の前に敗れ去り、四散した。そしてそれぞれの縁りの地で、力を蓄えるための深い眠りに入った。
 やがて仲間が次々と覚醒していく中で、最後まで眠っていたのが、天空だった。
 仲間の呼ぶ声も知らず、彼は眠り続けていた。
 それは母親の胎内で、何も知らずにただ胎外(そと)に出る日のことだけを夢見ていた、羊水に包まれていた頃の眠りに似ていた。宇宙(そら)という名の胎内で、新しく天空として生まれ出るために、彼は眠っているのだ。





 誰かが、泣いている。
 見知らぬ少女が一人、美しい単衣を身に纏い、腰の位置よりも尚長い緑の黒髪を持つ少女が、声も立てずに泣いている。
 少女の頬を伝う涙を目にした時、彼は胸に痛みを覚えた。
 彼は少女に声を掛けようとしたが、言葉は声にはならず、そしてまた少女に近寄ることも叶わずに、涙を流し続ける少女をただ黙って見つめていることしかできなかった。
 胸が、痛む。胸が、苦しい。
 泣き続ける少女を見ているのが辛い。けれど目を離すことはできなかった。せめて少女を見守っていたいと、そう思う。
 


 初めて迦遊羅とまみえた時に当麻の心に浮かんだのは、やっと会えた、という思いだった。
 少女の面影にはどこかしら見覚えがあった。しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間には、そう思ったことすら忘れていた。

 この娘は、敵なんだ。
 この娘を倒さねば、先がない。

 阿羅醐を倒し人間界を守るどころか、仲間を救い出すことすら叶わない。しかし輝煌帝の力にも匹敵するのではないかと思われる迦遊羅の力の前に、遼と当麻は太刀打ちできなかった。

 敵わない── 。娘一人すら倒すことのできぬ歯痒さ、自分の力の足りなさを痛感させられる。情けなかった。
 迦遊羅と対峙していると、時折、胸に覚えのある痛みが走った。そしてそんな時には決まって、自分に向かってくる迦遊羅の後ろに、一人の少女の泣き顔がだぶって見えた。
 それはどこかで見たことのある顔立ちだった。どこでかは分からない。けれど、以前に自分は確かにあの顔を、泣き続ける少女の顔を見たことがある。胸に走る痛みがそれを教えてくれる。
 あれは誰なのだろう── 。いつしか、迦遊羅の顔と少女の泣く顔が一つに重なっていった。





 阿羅醐を倒した夜、舞い散る櫻の花の下で、共に鎧を脱ぎ捨てた当麻と迦遊羅は、二人だけで向かい合っていた。
 五人のサムライトルーパーと三魔将、そして朱天の命と引き換えに阿羅醐の呪縛から解き放たれ、迦雄須一族の末裔(すえ)としての真の力に目覚めた迦遊羅──
 九人の、九つの鎧の力が一つとなった時、一千年前、阿羅醐と迦雄須によって始まった人間界の支配を懸けた戦いは、ついに終止符を打った。阿羅醐は滅びたのだ。
 そして今、当麻と迦遊羅は、他の四人の仲間や三魔将から離れ、二人だけで向かい合っていた。
「やはり、帰るのか……?」
「はい。私の居場所はもうあそこしかありませんから。それに、煩悩郷に残る妖邪を滅ぼし、本来の姿に戻すこともまた、迦雄須一族の裔としての役目と存じますので」
「そうか、帰るか……」
 それきり、二人は黙り込んでしまった。
 二人とも、言いたいこと、聞きたいことは色々あるのだ。ただそれを口に出せないだけで──





 阿羅醐の呪縛から解放された迦遊羅の、決意を定めた澄んだ瞳、そして何よりも、哀しみを秘めたその微笑みを見た時に、当麻は思い出した。
 宇宙で眠っていた時に見ていた夢。ただ一つ、繰り返し見続けた、少女の夢。
 夢の中で、少女は声も立てずに泣いていた。そしてその少女の貌は、今自分の目の前にいる迦遊羅のものだった。
 宇宙に在った間、最初は夢一つ見ることなく、ただひたすらに眠り続けていた。
 昔から眠っていることが好きだった。眠っている間は、余計なことは何も考えなくて済む、誰の声も聞かなくても済む、何者にも煩わされることはない。だから好きだった。夢すら見ずに、ただ眠っているその時だけが、彼にとって平安の時だった。
 宇宙に飛ばされて眠りの中に入った時もそうだった。だのにいつしか見知らぬ少女が現れたのだ。けれどそれは、決して不快なものではなかった。ただ何も言わずに涙を流し続ける少女に、不安になった。この少女は何者なのだろう、なぜこんなふうに泣き続けているのだろう。少女の流す涙なんて、見たくないのに……。
 何もない真空の宇宙で、天空の鎧が見せた夢、鎧が聞いた声── それは、阿羅醐に囚われた迦遊羅の心だったのだろう。
 阿羅醐に囚われ、呪いを掛けられた我が身を嘆き、必死に救いを求め──
 重力という枷を離れ、遮るもののない宇宙にいたがゆえに、天空の鎧は時空を超えた迦遊羅の魂の叫びを聴き届け、それを夢という形で己が主たる当麻に伝えたのだろう。
 そして当麻はその夢の中の少女に恋をした。少女の涙を拭ってやりたいと、彼女を泣かせるものから守ってやりたいと、そう思って……。
 ── だのに、なぜ故忘れてなんかいたのだろう……。





「……夢を、見てた……」
「え?」
 二人して舞い散る満開の櫻の並木の下を歩きながら、当麻はようやく口を開いた。
「宇宙で眠っていた間、ずっと夢を見ていたんだ」
「天空殿?」
「たった一つの夢を、繰り返し繰り返し見ていた。その夢の中で、少女が泣いていた。いつしか俺は、その少女を愛しいと、守りたいと思うようになった。目覚めた時にはその夢のことはすっかり忘れていたんだけどね。なぜ忘れてなんかいたんだろうな……。あんなに守りたいと思ったのに。でも阿羅醐の呪いから解放された君を見た時に思い出したよ。泣いていた少女は、迦遊羅、君だった」
 当麻は足を止めて迦遊羅を振り返った。
「私……?」
 迦遊羅はただ黙って当麻を見つめ返した。
 当麻は再びゆっくりと歩き始め、迦遊羅は黙ってその後に続いた。
「……だから、些か自分が情けなかったね。守ってやりたいと思った少女が、実は俺なんかよりずっと強かったんだから。何せ君と戦っている間、俺は君に一矢も報いることができなかった」
「そんなことはありません!」
「迦遊羅?」
 迦遊羅の声に当麻は立ち止まり、迦遊羅が自分の隣に来るのを待った。
「私の力は、迦雄須一族全ての力です。私自身の力だけではありません。私は、そんなに強くはありません。……それに力や技はともかく、心では、私はあなたに負けていたと思います。あの頃の私は、妖邪に支配されていたとはいえ、心などというものに縛られず純粋である私の力は、あなたがたに勝ると思っておりました。でも違ったのです。あなたの、仲間を思う気持ちに、ご自分の命と引き替えにしても烈火殿を守ろうとしたあなたの心に、私は負けておりました」
 当麻の横に並んだ迦遊羅が、当麻を見上げながら言葉を綴ってゆく。
「……それほどにあなたに思われている烈火殿を、羨ましく思います……」
 迦遊羅は(おもて)を伏せると、小さな声で呟くように告げた。
 そんな迦遊羅の様子に、当麻は何も言わず、彼女の頬に手を寄せて顔を上げさせた。
 そして迦遊羅の頬に伝うものを認めた時、当麻は思わず迦遊羅を抱き締めていた。
 腕の中の迦遊羅の躰は、輝煌帝に匹敵する力を秘めているとは信じられぬほどに華奢で、彼女はまだほんの12、3歳の少女に過ぎぬのだと、改めて認識させられた。そして紛れもなく彼女は彼が守りたいと思った少女に他ならぬと。
「……明日の朝、三魔将の方々と煩悩郷に戻ります……」
 当麻の腕の中、その躰を預けながら迦遊羅は告げた。
 当麻の迦遊羅を抱き締める力が強くなる。そして迦遊羅の、当麻の背に回された彼女の白く細い腕にも力が込められる。その腕が小刻みに震えているのが、当麻には感じられた。
「迦遊羅……」



 真田遼を、烈火を、愛しいと、守りたいと思った。けれどそれは、羽柴当麻としてというよりも、天空としての想いだった。だから迦遊羅に対する想いが果たして天空としてのものなのか、それとも羽柴当麻としてのものなのか、今一つ自分でも理解しかねていた。何よりも、迦遊羅の夢を見せていたのは天空の鎧だったのだから。
 しかし今は分かる。
 夢を見たのは、見せたのは天空だったが、夢の中の少女を守りたいと思ったのは、天空ではなく羽柴当麻だった。互いに鎧を脱いで向かい会った今、それははっきりと分かる。
 こんなふうに人に執着し、愛しいとか守りたいとか思ったのは、当麻にしてみれば初めてのことで、その想いに戸惑いもした。しかし紛れもなく、迦遊羅は羽柴当麻が人として初めて愛しいと思い、全存在をかけて守りたいと思った存在なのだ。
 これが恋なのだと、人が人を愛することなのだと、今、迦遊羅を前にして、当麻は理解した。
 当麻は思う。
 叶うならこの手を離したくはないと。だが天空としての当麻は、それが決して許されぬことであると知っている。
「迦遊羅」
 呼ぶ名に全ての想いを込めて、当麻は迦遊羅を抱き締める腕に力を込めた。
「……当麻……」
 初めて、迦遊羅は鎧の名ではなく、当麻の名を呼んだ。
 想いの丈を込めて抱き合う二人の上に、満開の櫻の花が静かに舞い落ちていく。





 翌朝、街が活動を始める前に、迦遊羅は三魔将とともに、トルーパーたちに、人間界に別れを告げて、妖邪界へと帰っていった。
 皆から一人離れて見送る当麻に、それを見る迦遊羅の視線が絡む。
 互いの中に、舞い散る櫻の下でのただ一度の抱擁の温もりを残し、全ての想いを胸に秘めて、おそらくもう二度と会うことは叶わないであろう相手の貌を目の奥に焼き付けようとするかのように、互いが見えなくなるまでその視線が外されることはなかった。
 ── 迦遊羅……。
 迦遊羅たちの姿が視界から消えた後、当麻は夕べ迦遊羅を抱き締めた自分の腕に視線を落とし、手を握り締めた。
 ── ……本当に、行ってしまったんだな……。
 当麻は顔を上げ、もう一度、確認するように迦遊羅の消え去った空を見て、それから彼を呼ぶ仲間の方へと足を向けた。

──




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