希 ふ(こいねがう)




「悪りぃ、遅くなった!」
 そう大きな声をかけながら勢いよく玄関扉を開けて入ってきたのは、秀だった。
「大丈夫だよ、最後じゃないから」
 笑いながら答えたのは遼である。
 リビングを見渡せば、そこにいるのは、今答えを返した遼の他に、征士と伸の二人であり、明らかに一人足りない。
「なんだ、またかよ、当麻の奴」
 呆れたように呟く秀に、伸は立ち上がってキッチンに向かいながら声をかけた。
「とりあえず、部屋に荷物を置いてきなよ。その間にお茶を淹れとくから」
「了解。部屋割りはいつもどおりでいいんだろ?」
「もちろん。ああ、戻りがてら、書斎にいるナスティに声をかけてきてくれるかい?」
「分かった!」
 応えながら階段を上がって行く秀に、征士は片手で前髪を掻き上げながら苦笑した。
「ナスティもついに諦めたか」
「この場合、勉強した、じゃない?」
 遼も苦笑しながら応じた。
「特に去年の夏なんか最悪だったもんなあ。起きたのが集合日当日の深夜だったてんだからさ」
「それは少し違うぞ、遼。午前2時過ぎだと言っていたから、集合日の翌日。つまりまるまる1日遅れだ」
 そうして1日遅れでやってきた本人曰く、固定電話の留守録にも、携帯の着信はもちろん、メールにも全く気付かずに寝こけていたそうである。
「困ったものだよね、あの智将殿には。その気になったら2日でも3日でも平気で徹夜するくせに、1度本気で寝たら1日中でもこれまた平気で寝てるんだから」
 秀とナスティの分の紅茶を淹れた伸がそう言いながらリビングに戻ってきた。
「けどさ、智将がそうやって平気で寝てるってことは、それだけ何事もなく平和な証拠だから、ある意味、いいことだよな」
 まるでとりなすかのように微笑(わら)いながら告げる遼に、征士や伸は、確かにそうだな、というかの如く軽く頷いた。
「おまたせ」
 そこへ荷物を置いてきた秀が一人で戻ってきたので、伸は尋ねた。
「ナスティは?」
「すぐ来るってさ」
 言いながら、秀は伸の隣に腰を降ろした。
 秀が告げたとおり、ほどなく書斎から出てきたナスティは、やけに硬い表情で、その手には1通の白い封筒を持っていた。
「ナスティ、何かあったのか?」
 伸がナスティの分の紅茶を淹れたカップを置いた征士の隣に腰を下ろすのを待って、征士は訝しそうに彼女に声をかけた。他の三人の視線もナスティに集中する。
 ナスティは、その封筒を1度大切そうに胸元に抱きしめた後、四人の前に差し出した。
「当麻から、あなたたち宛よ」
 大将格の遼が代表してその封筒を手にとった。
 それは、宛名もなければ差出人名もなく、封を止めてもいない、本当にただの真白い封筒だった。中に入っていたのは、文面の短いこれまた白い紙1枚。
 遼の向かい側に座っていた征士は、立ち上がり、彼の隣に移り、他の三人のようにその文面を覗き込むように状態を落とした。

『遼、秀、征士、伸、そしてナスティ
 ごめん。でも、さよならは言わない。
 いつまでもおまえたちを、
 おまえたちと命を懸けて護った人間界を見守っているから』

「なんだよ、これっ!?」
 文面に目を通し終えた遼は、ダンッ!! とテーブルに叩きつけた。
 すぐ脇にあった紅茶のカップがカチャカチャと揺れるが、幸い、中身は殆ど残っていなかったために、零れることは免れた。
「これ、いつ?」
 封筒を手に伸がナスティに問いかけた。
「昨日よ。会って、直接話してからにしたら、って言ったんだけど、会うと別れが辛くなるからって」
 答えを返すナスティの顔色は、いつもより若干色を欠いている。
「あの馬鹿者が……」
「なんでおれたちに相談もなく勝手に一人で決めちまうんだよ! 何のための仲間だよ!!」
「……彼もこの1年余り、随分と悩んでいたみたい。何度か一人であちらに行ったりしたこともあったそうよ」
「あー、天空の鎧ならでは、だね」
「ご両親のことはどうするの、って聞いたりもしたんだけど、『二人とも離婚してお互いに好き勝手なことやってるんだから、息子の俺が同じように好き勝手なことしたって構わないだろ』ですって」
 あの、およそ1年に亘る妖邪たちとの戦いの後、共に過ごしたナスティの好意もあって、さすがに冬休みは無理だったが、春休みやG.W.、夏休みなどの長期休暇を利用しては、よくこの山中湖の柳生邸に集まって過ごしていた。なのにその間、そんなことを考えていたなんて、それこそ、1度も、微塵も感じさせなかった。流石さすがは智将というべきなのだろうか。
 気付かなかった自分たちの愚かさを責めるとともに、何も告げず一人で勝手に行ってしまった当麻への怒りが湧いてくる。しかしその怒りをぶつけるべき相手はもう、この世のどこにもいないのだ──


◇  ◇  ◇



 水鏡から遥か彼方── 人間世界── の柳生邸のリビングの様子を見ている少年と少女。
「本当に宜しかったのですか?」
 少年── 智将天空こと羽柴当麻── に気遣わしげに声を掛けたのは、かつては妖邪の子として育てられ、敵として相対したこともある少女── 加雄須一族の末裔── 迦遊羅である。
「ああ、いいんだ」
 言いながら、当麻は隣にある迦遊羅の肩を抱き寄せた。
「1日や2日で決めたんじゃない。1年以上、悩んで、考えて、考え抜いて出した答えだ」
「天空殿」
 あんな手紙とも言えないメモ程度のもので、遼たちを納得させられるなんて思ってやしない。前日に会って色々と話をしたナスティですら、完全に納得して送り出してくれたわけじゃないのも分かっている。それでも──
「護っていこう、俺たちはここから」
「はい……」
 かつては妖邪界と化していたこの世界から邪悪が一掃されたことで、かつての、本来の姿である煩悩郷へと戻ったこの世界から、俺たちが命を懸けて守った人間界を。
 共に闘った大切な仲間たち── 遼、秀、征士、伸、そしてナスティ── に、この先の生に幸多かれと願ってやまない。
 そしてせめて自分たちがこの界に在る限り、二度と人間界が邪悪に冒されることのないようにと、ただ只管に、希う──

──




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