宇宙(そら)と地の狭間で




 智将天空たる当麻が、かつて共に戦った仲間である遼たちに、手紙ともいえぬメモ程度の書き置きを残し、鎧の力を使って迦遊羅の元、煩悩郷へやってきてから一年が経つ。
 煩悩郷と人間界では時間の流れが異なる。煩悩郷の一年は、人間界の百年程に当たる。
 その間に、遼たちは皆、子を、孫を残し、既にこの世のどこにもいない。
 けれどそれでも、たとえ遼たちがいなくなっても、当麻が煩悩郷に来た頃に迦遊羅と共に誓ったように、この世界から人間界を護り続けている。そのために当麻は煩悩郷に来たのだから。確かにそれは、当麻の迦遊羅に対する想いがあってのことでもあるのは事実だが。
 遼たちが生きている間も、ナスティも含めて誰もいなくなった後も、誓い通り、人間界を護り続けている。
 人間界の悪意が高まると、それは煩悩郷に妖邪となって形をとって現れる。その妖邪を倒すのが、この煩悩郷にいる当麻や迦遊羅、そしてかつては敵対していた妖邪帝王阿羅醐の下で魔将としてあった螺呪羅たちの役目だ。それが人間界を護ることに繋がる。煩悩郷に妖邪が増えれば、それがまた逆に人間界に悪影響を及ぼすことになる。その連鎖を断ち切るために、当麻たちは戦い続けている。そうして人間界を護り続けているのだ。



 当麻は思う。
 人間界には、生まれ変わり、転生、という言葉がある。
 もしそれが事実あることであるならば、遼たちもいつかまた、人間界に生まれ出でることがあるのだろうか。
 かりにそうなったとしても、そうして転生した遼たちに、前世の記憶があるとは限らない。
 本当に宗教界において言われているように、転生というものがあるのなら、そして転生した者たちが前世の記憶を持っているならば、それはもっと具体的な形で伝わっていることだろう。確かにチベット仏教におけるダライ・ラマは、代々生まれ変わりなのだと、比較的有名な話はあるが、果たしてそれが真実かは分からない。
 だが当麻は思う。もし遼たちが転生したとしたら、彼らには記憶はなくとも、きっと自分には分かるだろうと。自分たちは魂の奥深い部分で繋がっているから。
 煩悩郷に来るにあたって己のとった行為は、確かに彼らを怒らせてしまっていた。それは水鏡を通して見ていたから十分に分かっている。けれど、だからといって遼たちとの繋がりが切れてしまったわけではない。
 だから、遼たちと共に、妖邪から、阿羅醐から護りきった人間界を、これからも迦遊羅たちと共にずっと護っていこうと思うのだ。いつかまた、たとえ彼らには記憶がなくとも、それでもきっと魂は覚えているだろうから。生まれ変わった彼らに恥ずかしくないように、この煩悩郷という、天空たる自分の在るべき場所ともいえる宇宙でも、生まれ育った大地でもない、その狭間ともいえる場所にあるこの煩悩郷で、ずっといつまでも、護り続けていこうと。
 それが、遼たちをおいて一人でこの煩悩郷にやってきた自分の果たすべき役割だろうと思うから。
 自分が死を迎える頃には、人間界ではどれほどの(とき)が経っているか分からない。そしてその頃にもまだ、この地球という惑星の大地に人間が存在し続けているかも分からない。それでも、この命尽きるまで、迦遊羅たちと共に、ここで、人間が存在する限り、彼らの世界を護り続けていこうと思うのだ。
 それが、何よりも、迦遊羅の手をとった天空たる己の使命だろうと思うから。

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