記憶の底 【1】




 皇歴2010年、日本が神聖ブリタニア帝国に敗戦してエリア11となり、日本人がナンバーズ── イレブン── と呼ばれるようになって間もないある日、帰宅途中の紅月直人はシンジュクゲットーの瓦礫の中で、一人の少年が倒れているのを見つけた。
 少年は齢の頃は直人の妹のカレンと同じくらいだろうか、艶のある漆黒の髪を持っていた。その肌色は、黄色人種である日本人よりも白色人種であるブリタニア人のようではあったが、ゲットーにいることから考えれば、カレンと同じようにブリタニア人と日本人との混血なのかもしれないと直人は思った。
 直人が少年を抱き起こすと、すでに乾いてはいるが額に出血の痕があり、どうやら何処かで頭をぶつけたらしいことが見受けられた。他にも殴打されたような痕が見てとれる。もしかしたら、ブリタニアの血を引くということで誰とも知れぬ日本人に暴行を受けたのかもしれないと直人は考えた。
 抱き起こしても意識を戻さない少年を、直人はそのまま放っておくこともできずに、とりあえず抱いたまま自宅に連れ帰った。
 狭いアパートの一室に布団を敷き、少年をその上に横たえるが、少年の意識が戻る気配はなかった。
「やはり医者に診せた方がいいのか……? しかし医者と言ってもなぁ……」
 少年の額の血の痕を拭った直人が少年の伏す布団の脇に腰を降ろして呟いていると、少年の瞳がゆっくりと開かれていった。
 そこに現れた瞳の色は、珍しい紫電の色をしていた。
「お、気が付いたか?」
「……」
 直人の声に、少年は声のした方に顔を向けた。そこには明らかに戸惑いの表情があった。
「だ、れ……?」
 返された日本語の問いかけに、直人は少年がやはり日本人とブリタニア人との混血なのだとの意識を強くした。
「俺は紅月直人だ。君は?」
「僕? 僕は……、僕は……」
 少年の顔が歪んだ。
「どうした、傷が痛むのか?」
「……分からない、自分の名前、思い出せない……」
「記憶喪失か!?」
 少年の言葉に、思わず直人は叫んだ。と同時に、直人は参ったな、と思った。
 少年は身元を証明するようなものは何一つ持っていなかったし、また少年を拾った周囲には他に人の気配はなかった。それはつまり、少年が何処の誰なのか、親はどうしているのか、少年が思い出さない限り知りようもないということだ。ゲットー内の警備組織に通報しても、おそらく何の役にも立つまいと、直人は最初からそれを考慮外にしていた。ゲットー内の警備組織、つまりかつての警察は、現在はガタガタでとても人探しのようなことに役立ちはしない。そしてそれは現状、少年を親元へ返す手段がないということである。
 あとは少年の記憶喪失がほんの一時のことであるか、あるいは少年の親族が探し出してくれるのを待つしかないかという心境になった。
 不安げな表情の消えない少年に、直人は語りかけた。
「記憶が戻るまで、もしくは、君の親族が君を探しに来るまで、狭いが此処にいるといい」
 直人のその言葉に、少年は直人の顔を見上げ、初めて真面に正面から互いを見つめ合った。
「狭いアパートだが、俺は一人暮らしだし、何も気兼ねすることはない」
「……本当に、いいんですか……?」
 迷惑ではないのかと、心配げに少年が直人に尋ね返す。
「迷惑だと思ったらこんなことは言わない。あと、とりあえず君を呼ぶのに仮の名前を付けさせてもらおう。何がいいかな」
 直人は腕を組んで真剣に考え込んだ。
「ああ、そうだ、“海斗”にしよう。開戦前、新聞の記事で男の子に付けられる多い名前の中にあったんだ。それなら、俺の直人と語呂があうから兄弟みたいでいいだろう?」
 そう言って直人は笑った。
 直人の妹のカレンは、今は父親であるブリタニアの富豪シュタットフェルト家の令嬢として、トウキョウ租界にある屋敷に住んでおり、母親はそんなカレンを心配してそこに住み込みのメイドとして仕えている。正直、直人は一人暮らしの状態に寂しさを覚えていたのも事実であり、この拾ったばかりの記憶喪失の少年と兄弟のように接してみるのも楽しいかもしれないとの思いもあった。
 そうして直人と、直人が“海斗”と名付けた記憶喪失の少年との二人暮らしが始まった。



 直人はブリタニアとの戦争に日本が敗戦してその植民地となった直ぐ後から、親しい者たちと共に、ブリタニアに抵抗する小さなレジスタンス組織を作り上げ、そのリーダーとなっていた。
 共に暮らし始めて、そう間を置くことなくそのことに気付いた海斗は、心配そうに直人に告げた。
「危険じゃ、ないんですか? 直人さん」
「危険は承知の上だ。俺たちみたいな小さなグループができる事なんてたかが知れている。けどそれでも、ブリタニアに対して、俺たちは屈服してなんかいないって意地を見せてやりたいのさ。
 それより、いい加減「さん」付けは止めろ、海斗。いつまでも他人行儀でいるな」
 直人は海斗の漆黒の艶のある髪をくしゃりと撫でまわしながら告げた。
「でも、僕は赤の他人なのに、それに僕が一方的にお世話になってて……」
 遠慮がちにそう告げる海斗に、直人は笑いながら返した。
「帰ってくると出迎えてくれる奴がいる、それだけで嬉しいし、ちゃんと帰ってこようと思う。おまえの存在は今の俺にはかけがえのないものだよ」





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