Trauer 【Oscar 後編】




 オスカーが案内された居間で、クラヴィスは一人ワイングラスを傾けていた。
「このような夜分に突然お伺いして、申し訳ありません」
 言いながら、クラヴィスの前へ進む。
 よほど急いで来たのだろう、まだ息が荒い。
「……用向きは?」
「貴方がセレスタインに向かわれる前に、どうしてもお会いしたかったんです」
 オスカーの答えに、クラヴィスは眉を寄せた。
「セレスタインに、報告にあった以外に何かあるというのか?」
「そうではありません。いや、あるのかもしれない」
「はっきりしないとは、おまえらしくないな。一体どちらなのだ」
「クラヴィス様」
 オスカーの常にはない思いつめたような顔に、クラヴィスは手にしていたグラスをテーブルにそっと置くと、改めて自分の正面に立つオスカーの顔を真っ直ぐに見上げた。
「貴方がセレスタインに行かれると聞いてから、どうしても拭えない不安がある」
「不安?」
 その単語に、クラヴィスは怪訝な顔をした。
 これほど、今目の前にいる男から発される言葉として似つかわしくないものはあるまいと思う。
 クラヴィスが知る限りにおいて、この男は、時に傲慢とすら思えるほどに自信に満ち溢れている。
「どうしてそんな風に思うのか分からない。ただ、貴方がもう戻ってはこないのではないかと、これが最後なのではないかと、意味もなく、漠然としたそんな予感があって、それを払うことができない」
 オスカーの言葉にクラヴィスは一瞬目を見張り、それから軽く伏せると、フッと小さく笑った。
「らしくないな」
 そう一言告げて、それからまた顔を上げると口元に皮肉げな笑みを浮かべてオスカーを見た。
「それにしても、なぜそれほどに気にする。おまえがそこまで私を気に掛ける理由がわらかんな。おまえは私を嫌っていると思っていたが」
 躰の脇、握り締めた右の拳が震えるのをオスカーは自覚していたが、抑えきれなかった。それはそのまま彼の心の葛藤を表しているようだった。
「……嫌ってなど、いません。いつからなんて、分からない。気がついたら、貴方の瞳に囚われていた、貴方の瞳の中にある影が気になって、いつしか貴方自身から目が離せなくなっていた」
「…………」
 オスカーの言葉に、クラヴィスは目を見張って返す言葉もなく彼の顔を見つめ返した。
「貴方が、好きです」
「……おまえが? 私を?」
 呆気に取られたように目を見開いて、それからフッと笑うと静かに立ち上がった。
「戯言もほどほどにするのだな。そのような冗談に付き合うつもりはない」
 そう告げてオスカーを残して立ち去ろうとするクラヴィスを行かせまいと、オスカーは慌てて腕を延ばしてクラヴィスの右腕を掴んだ。
「冗談なんかじゃない! 俺は、貴方の望みを知ってる、だから……!」
 自分の腕を掴むオスカーの力に眉を寄せながら、オスカーの言葉に、クラヴィスは振り返った。
「知っている? おまえは、一体何を知っているというのだ?」
 訝しげに微かに震える声で問い返してくるクラヴィスに、オスカーは掴んでいるクラヴィスの腕を離した。
「貴方の瞳の中にあるものを。そして、貴方が望んでいるものを」
「おまえに、それが分かるというのか?」
 互いにその視線を真っ直ぐに向ける、決して背けることなく。
「では言ってみろ、それが何か!」
 おまえなどに分かるものかと、そう普段の彼らしくなくいささか声を荒げるクラヴィスに、オスカーは静かに答えた。
「貴方の瞳の中にあるのは、絶望、だ。そして貴方の望みは、解放されること。この聖地から、いや、生から。けれどそれを望みながら立場故に叶えることもできず、それがまた貴方の絶望を深くする」
「なぜ……」
 クラヴィスは、オスカーの答えに小刻みに震え始めた己の躰を腕を回して抱き締めた。
「なぜ、それを知っている? なぜ、おまえにそれが分かるっ!?」
 誰にも分かるはずなどないと、そう思っていたのに。実際、これまでそうだったのに、なぜ、今自分の目の前に立つこの男にはそれが分かるのか、疑問と、そしてそれを知られていたという事実に、躰が震えて止まない。
「聖地に来る以前にいた戦場で、俺は貴方と同じように瞳に絶望のみを映していた人間を何人も見てきました。長引く戦争で、家を失い、家族を失い、何もかも失って、夢も希望もなく、いつ自分も死ぬかもしれないという不安と、絶望感。生きることに疲れ、自ら死を選ぼうとして、けれどその勇気もなく自ら死ぬこともできない── そんな人間たち。俺は、戦場でそんな連中を何人も、数え切れないくらいに見てきた。死を、死によって現世の苦しみから解放されることを願い望みながらも、それができない理由は、彼等と貴方とでは違う。そして、貴方がそれほどの絶望を抱いた理由までは分からない。けれどその瞳の中にあるものは、間違いなく、俺がそうして見てきた連中と同じものだ。だから──
 オスカーはおもむろに両腕を伸ばすと、オスカーの言葉に瞳を揺らしながらも彼を睨みつけてくるクラヴィスを抱き寄せた。
「不安でならない! 確信があるわけじゃない、けれど聖地を離れ、セレスタインに降りた貴方が、そこで自分の望みを叶えるのではないかと、もう二度と戻ってこないのではないかと、そう思えてならないんです!」
 日頃目にしたことのない、己の感情を吐露するオスカーの様子に、そして誰も知るまいと思っていた自分の心情を暴露されたことに、クラヴィスはただ呆然としていた。オスカーに返す言葉も見つけられぬままに。
「……貴方が、好きです。貴方を失いたくない。俺の気持ちに応えて欲しいなんて思わない。ただ、無事に戻ってきて欲しい、それだけです、それだけ……」
 言って、クラヴィスを抱き締める腕に一瞬力を込めて、けれど次の瞬間にはその躰を突き放すようにして離れると、
「必ず、帰ってきてください、ここに。それだけが、俺の貴方に対する望みです」
 切なそうな色を滲ませた氷蒼の瞳を向けながらそう告げると、オスカーは踵を返し、呆然としたままのクラヴィスを残して急ぎ足で立ち去った。





 それが、オスカーがクラヴィスに逢った最後だった。出立には立ち会わなかったから。
 そしてセレスタインに辿り着いたクラヴィスは、長年抱えていた己の望みを果たし、オスカーの願いは叶わなかった。
 ただ、その瞬間にだろう、寝ていた自分の脳裏に響いたクラヴィスの声を思い出して思う。
 オリヴィエの言ったように、無理矢理にでも彼を自分のものにしていたならば、少しは違ったのだろうか。現世に引き止めることができたのだろうかと。
 いいや、たとえそうしても、彼を自分のものにできたとしても、彼を引き止めることは叶わなかったのではないかと思う。彼の中にあった絶望は、そんな生易しいものではなかった。
 オリヴィエの報告書に記されたことが事実ならばなおのこと、それはクラヴィスの人生そのもの、聖地という存在そのものの在り方に関わることなのだから。色恋で彼が望みを果たすことを放棄したとは、とうてい思えないから。
「……クラヴィス、クラヴィス……ッ、……」
 愛馬に躰を預け、吹き寄せる風に身を晒しながら、何度も何度も繰り返し繰り返し、クラヴィスの名を呼ぶ。それに応えが返ることはないのだと、そう分かっていても、そうせずにはいられなかった。

── das Ende




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