Trauer 【Oscar 前編】




 ── ……許せ…………。
 突如脳裏に響いたその声無き声に、オスカーは上掛けを撥ね退けて飛び起きた。
 躰は震え、脂汗が全身から流れていた。
 確かに聞こえた声、そして、大いなる喪失感── それが何を意味するのか、オスカーは瞬時に悟っていた。
 唇を強く噛み締め、右手で顔を覆う。
 微かな嗚咽と共に、指の間から一筋の涙が流れるのを、止められなかった。
「……クラヴィス……ッ!」





 オリヴィエが、派遣先のセレスタインから帰還した。
 派遣されたのは二人の守護聖。闇の守護聖クラヴィスと、夢の守護聖オリヴィエ。だが、戻ってきたのはオリヴィエただ一人。
 皆、報告は受けていた。今回のセレスタインにおける変事と共に。そして壁の消失に伴い、闇のサクリアの喪失、すなわちクラヴィスの死を、守護聖たちは肌で感じていた。だが、ただ一人戻ってきたオリヴィエの姿に、女王、女王補佐官をはじめ、残された守護聖たちは、改めてクラヴィスの死を思い知らされたのだった。
 謁見の間、女王の前まで進むと、オリヴィエは膝を折った。
「夢の守護聖オリヴィエ、ただいま戻りました」
「ご苦労様でした。詳しい報告は明日で結構です。今日のところは、ゆっくりと躰を休めてください」
「恐れ入ります」
 オリヴィエの答えを待って、女王は補佐官を伴い、退室していった。
 その後ろ姿を見送って、オリヴィエは立ち上がった。
 と同時に、謁見の間に揃っていた他の守護聖たちがオリヴィエを取り囲む。
 だが一人だけ、別の行動をとった者がいることにオリヴィエは気付いた。その男が静かに謁見の間を出て行くのを目の端に捉えながら、オリヴィエは軽く両手を上げた。
「悪いけど、疲れてるんだ。あんたたちの気持ちは分かるけど、今はまだ何も話したくない、一人にしてちょうだい」
 疲れきった声で告げるオリヴィエに、他の守護聖たちは引き下がらざるを得なかった。
 そうして彼等から解放されたオリヴィエは、先に出ていった男の後を追うようにして謁見の間を後にした。



「オスカー!」
 先に出た男── 炎の守護聖オスカーを追ったオリヴィエは、探し回って、ようやく厩舎にその姿を見つけて声を掛けた。
 オリヴィエの己を呼ぶ声に、オスカーは振り返った。
 息を切らせてやってきたオリヴィエに、オスカーは静かに問うた。
「何か用か?」
「……あんたには、一言謝りたくて」
「謝る? 何を?」
 わけが分からない、という顔をしてオスカーはオリヴィエに問い返した。
「……クラヴィスのことよ」
「クラヴィス様のこと? 意味が分からないな。どうしておまえが俺に謝る必要があるんだ?」
 声は平静を保っていたが、オスカーの愛馬の手綱を持つ手が微かに震えているのにオリヴィエは気付いていた。
「あんたとの約束、守れなかったから。あれほどあんたにしつこいくらいに言われてたのに」
「…………」
「あんなにクラヴィスから目を離さないでくれって言われてたのに、私自身も何かあると思ってたのに、目を離してしまった。その結果、クラヴィスを失った……」
 オスカーの手綱を握る手が強く握り締められたのが、オリヴィエには見て取れた。
 けれど表情は変わらない。それが、オリヴィエを苛立たせる。
「……もう、終わったことだ。そして、終わってしまったことを変えることはできないし、失くしたものは、還らない。それに、おまえに、俺に謝ってもらう必要なんかない。多分俺は、こうなるだろうことが分かってたんだと思うから……」
 淡々と語るオスカーに、つい先程まで心を占めていた申し訳なさの変わりに、怒りが込み上げてきた。
「あんたは私に謝らせてもくれないわけ? 後悔もさせてくれないって!? こうなるって分かってた!? なら、何であんたは何もしなかったのっ!! あんた、クラヴィスが好きだったんでしょう、惚れてたんでしょう!? だったら、どうして無理矢理にでもあんたに振り向かせて自分のものにして、あんなことを考えたりしないようにしなかったのよっ!! どうして繋ぎ止めなかったのよ! そしたら……っ!」
 オスカーはオリヴィエの言に振り向くとその襟首を掴み上げた。その顔を苦渋に歪ませ、オリヴィエを睨みつける。
「おまえに、おまえに何が分かる! 俺が悩まなかったとでも思うのか!? 俺がどんなに……!」
「オ、オスカー……」
 苦しげに眉を寄せ、その名を呼びながら、自分を掴み上げるオスカーの腕を外そうとするオリヴィエに、オスカーははっとしてその腕を放した。
「……すまん……」
 オリヴィエは自分の首を撫で擦りながら、懐から書類の束を出した。それをオスカーの胸元に突きつける。
「?」
「これをあげるわ。あんたが言ってた、あの人の瞳の中の絶望の原因。知ってるのは、死んだクラヴィスを別にすれば私とロザリアと、おそらく陛下だけ。ジュリアスも知らない。今後公表されることもなく、闇に葬られるだろう真実よ」
「オリヴィエ……」
 オスカーは震える手で、一体何が── そう思いながら、それを受け取った。
「これをあんたにやるのは、あんたのためじゃない。クラヴィスのためよ。せめてあんただけは知っていてやってほしい。クラヴィスの絶望に気がついていたあんただから。そして、私のため。私一人の胸に納めておくには、辛すぎるから……」
 そう言って、オリヴィエは建物の中に走り去った。その後ろ姿を見送っていたオスカーは、オリヴィエが自分に押し付けていった書類に目を落とした。
 おそらく、提出した報告書の下書きだったのだろう、所々に書き直した跡が見られる。それも先程のオリヴィエの台詞から察するに、ジュリアスに提出されたものとは別のものと思われた。
 ファイルを捲るたびに、それを持つオスカーの腕の震えが大きくなっていく。
 最後まで読み終えて、オスカーはファイルをグシャッと握り締めた。
「……クラ、ヴィス……!」
 呻くようにその名を呟く。
 主の様子に、心配気にその鼻先を押し付けてくる愛馬に、オスカーはその手綱を取ってひらりと飛び乗ると思い切りその腹を蹴った。
 愛馬を疾走させる。ただがむしゃらに。
 オスカーの脳裏を、今読んだばかりの文字がぐるぐると回っていた。



 殺された? 誰が?
 クラヴィスの母親が。
 誰に?
 聖地から派遣された王立派遣軍の軍人に。
 滅ぼされた? 何が?
 クラヴィスの一族が。
 誰に?
 聖地に─────



 信じられなかった。
 それが真実であるならば、聖地とは何なのだ、自分たち守護聖とは何なのだ?
 何を、信じればいい。
 けれどクラヴィスの死が、その瞳の中にあった絶望が、それが真実であったと告げている。
 故郷の草原を思わせる丘まで辿り着いて、オスカーはようやく馬を止めた。そのまま、荒い息を吐きながらその頸に躰を預ける。
 思い出すのは、最後にクラヴィスと逢った時のこと。
 セレスタインに向けて()つという前夜、どうにも拭えない不安感に、思わずクラヴィスの館を訪ねたのだ。





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