滝 の 姫




 紫龍は傷を負って五老峰に戻った。
 久し振りの五老峰は何ら変わることなく、穏やかで、傷ついた龍を優しく迎えてくれる。
 大滝の流れもまた変わらぬままにあり、そこを訪れた紫龍は、ふとある女性のことを思い出した。
 その女性(ひと)人間(ひと)ではなかったけれど、二人して、短い間ではあったが優しい時間(とき)を共に過ごしたのだ。紫龍にとって、恋と呼ぶには少しばかり面映い想い── けれどそれは確かに少年の日の初恋といえる想い出だった。
“蘭香……”
 心の中で彼女の名を呟いた時、ふいに懐かしい()を感じた。
“……久し振りね、紫龍”
 紫龍の前に、初めて会った時と寸分違わぬままの蘭香の姿があった。
 何も見えぬはずなのに、蘭香の優しげな、それでいて憂いを秘めた貌が目の前にある。
「蘭香……、どうして?」
 蘭香はその問いには答えず、そっと右手を紫龍の頬に添えた。
()を、潰したのね……。あんなに綺麗な瞳をしていたのに……”
「……でも、あなたは見える……」
 紫龍は自分でも不思議に思いながら言った。それに蘭香がフッと微笑(わら)いながら答える。
“だって私は生命(いのち)あるものではないから。目で見るものとは異なった存在ですもの”
「……蘭香、あの時、どうして急にいなくなったんです?」
 紫龍はずっと疑問に思っていた問いを発した。
 数年前、紫龍がまだ聖衣(クロス)を手に入れる前、彼が修行をしているところに現れては、蘭香は紫龍と共に時間を過ごしていたものだった。それが、ある日から急に現れなくなってしまった。
“……悲しくなってしまったの……”
「何が? どうして?」
“いつかは、あなたもいなくなってしまう、そして、戻ってこない……。そう思ったらとても悲しくなって、後悔したの。あなたに声を掛けたこと、あなたと一緒に過ごしたこと……”
「なぜ、戻ってこないなんて……!?」
“だって、あの人、戻ってこないもの……。こんなに待っているのに、こんなもの(・・)になってまでずっと待っているのに、あの人は戻ってこない!!”
 蘭香にしては珍しく感情を乱していた。
 少なくとも、短い間ではあったが、紫龍と共にいた間にこれほどに取り乱した様を見せたことは一度としてなかった。
「蘭香……。あれほど信じてるって言ってたじゃないか。きっと帰ってくるから、だから待ってるって」
“でも、あまりに永すぎたわ……。ねえ紫龍、今だって信じてるのよ。待つのを辞めたわけじゃない。いつかはきっと、って思ってる。でも、永すぎる……”
 蘭香は両腕を回し、自分で自分を抱き締めた。その頬には一筋の光るものがある。
「……僕は、帰ってきたよ。もしまた出ていくことがあっても、きっとまた帰ってくる。僕にとって還るところはここしかないから。蘭香が待ってるその人にとっても、きっと最後に帰り着くのはあなたのところだけだと思う。だからきっと帰ってくる。それに、僕もいるよ、ここに、あなたの目の前に」
 紫龍は腕を伸ばし、そっと蘭香に触れた。
 そしてまるで時を遡り、蘭香と出会った頃に戻ったかのように、紫龍は蘭香に対していた。未だ子供だったあの頃。でもあの時は理解(わか)らなかった蘭香の想いが、今は少しは理解るような気がする。
“紫龍……。そうね、こんなに傷ついて、でも帰ってきたのね、あなたは。……私に癒してあげることができればいいのに……”
 蘭香のその言葉に、紫龍は首を横に振った。
「そんなことはいい。あなたがここにいてくれれば、それで……」
“紫龍……”
「あなたが現れなくなってから、とても寂しかった。なぜ急に現れなくなったのかも分からなくて……。でも、あなたが僕をずっと見てくれているのは分かっていたから、少しはその寂しさも紛れたけれど……」
 俯きながら小さな声でそう告げる紫龍に、蘭香の貌に微笑みが広がっていった。
“……ありがとう、紫龍”
 蘭香は、そっと紫龍の額に唇を寄せた。その唇に人間の持つ温もりはない。けれど紫龍にはそれはとても温かいものに感じられた。
“……そうね、今はあなたがいるわ。あなたを待ちましょう。あの人のことを忘れたわけではないけれど、でも、今はあなたを……”
「蘭香……、あなたが、好きだよ……」
“私もよ、紫龍。ごめんなさいね、みっともないところを見せてしまって。……日が暮れてきたわ、もうお戻りなさい”
 蘭香が冷たくなってきた風と沈みかけている太陽に、紫龍の躰を思って告げた。
「また、会える?」
“ええ。言ったでしょう、あなたを待つって”
 紫流は嬉しそうに微笑みながら頷いた。そして帰ろうとして背を向けた紫龍に、蘭香が声を掛けた。
“……紫龍”
「何?」
 振り返った紫龍に、蘭香は躊躇いがちに尋ねた。
“あなたは、人間、よね……?”
「……どうして?」
 紫龍はもちろん、というように頷きながら問い返した。
“……今、あなたの内に普通の人間とは違う氣を感じたから……”
 蘭香は言いづらそうに告げた。
聖闘士(セイント)だから、かな……?」
 紫龍は蘭香の言葉に、首を傾げながら答えた。
“……そうかもしれないわね。私には、あなたがそうだという聖闘士というものがどういうものかは理解らないけれど……。引き止めてごめんなさいね、気をつけてお帰りなさい”



 蘭香は紫龍が視界から消えたあとも、その場にあった。
“……あの氣には、憶えがある……。でもなぜ紫龍が……? あの氣は人間の持つものではないわ、あれは……”
 思いを巡らせている蘭香に近づく影があった。
“久しいな、姫。まだここに在ったか?”
 蘭香がその声を聞き、姿を目にするのは随分と久し振りのことだ。
 人界とは次元の異なる龍の里に住まう、龍。彼は昔から時折人形をとっては、蘭香の元を訪れていた。
“赤龍殿か”
 掛けられた声に振り向きもせずに、蘭香は相手の名を呼んだ。紫龍と共に在る時とは、明らかに態度も、そしてその醸し出す雰囲気も違っている。
“何用です? あなたが里を離れ人界を訪れるなど”
“何もなくては来てはいけぬか? 姫よ。それはそうと、先程の少年は? 随分と親しそうであったが”
“……彼は、紫龍”
 一瞬の躊躇いをそうとは分からぬほどに浮かべながら、隠す必要はないと、蘭香は彼の名を唇に乗せた。
“この先の峰の老人の愛弟子です”
“龍の名を、持つのか……、人間の子の分際で”
 嘲りを含めたようなその言い様に、蘭香は眉を潜め、咎めるように相手の名を呼んだ。
“赤龍殿”
“お気に障ったかな。しかし、姫が人間の子を気に掛けるなど、久し振りのことではないか。どこが気に入った?”
“あなたには関係のないこと。用がないのならさっさと里にお帰りなさいませ”
“つれないことを。そなたに会うためにわざわざ出向いてきたというのに”
 身を寄せてくる赤龍をかわし、蘭香は滝の中にその身を戻そうとして、やめた。
 そうだ、先刻紫龍に感じた氣は、彼に似ているのだ── と、そう思い当たる。
“どうした、姫?”
 そのようなことは在り得ぬと、そう思いながら、蘭香の態度を訝しく思い声を掛けた赤龍に、蘭香は思い切って尋ねた。赤龍は否定するだろうと思いながらも、もしかしたらあるいはと──
“赤龍殿、人間が、龍の氣を持つことは、ありますか?”
“何を急に馬鹿げたことを”
 赤龍は笑いながら欄香に告げた。
“人間が龍の氣を持つことなどできようはずがない。どれほどの修行を積もうと、いかほどの力を持とうと、所詮人間は人間でしかない。そのようなこと、とっくにご存知と思ったがな”
“……そう、ですね……”
“姫、何かあったのか?”
 気落ちしたような常ならぬ蘭香に、赤龍は笑うのをやめ、心配気に尋ねた。
“……あの紫龍、彼の持つ氣が、似ているような気がしたのです、あなたの、龍の持つ氣に”
 蘭香の告げた言葉に、明らかに赤龍の顔色が変わった。
(まこと)か?”
 決して短くはない付き合いの中で、未だかつて見せたことのないような真摯な瞳で、赤龍は蘭香に尋ね返した。
“似ています”
 蘭香は頷きながら答えた。
“つい今し方はじめて感じたのですけれど、あれは、少なくとも人間の持つものではありません。……ただ、彼は龍星座(ドラゴン)の聖闘士だそうですから……”
“龍星座の聖闘士? なんだ、それは?”
“さあ、私にもそれは理解りませんので”
 それきり二人は黙り込んで、紫龍が去った方を見やりながら、互いに己の思いを巡らしていたが、暫くして赤龍が口を開いた。
“……邪魔をしたな、姫。いずれまた会おう”
“もうお帰りになられますのか? 珍しいこともあるもの。滅多に来られぬものの、おいでになれば、私が何と言おうと数日は留まられますものを”
 微笑みながら言う蘭香に、赤龍は残念そうに答えた。
“急用を思い出したのでな”
 そう言って、赤龍は蘭香の前から来た時と同様に唐突に姿を消した。
 その様を見ていた蘭香は、一体何が、と不思議に思う。なぜ急に赤龍の態度が変わったのかと。
 赤龍── 竜王に仕える彼が蘭香の元を訪うようになってからかなりの歳月(とき)が経つ。蘭香がその身を滝に投じて以来のことであれば、実に永い付き合いである。
 気紛れな龍なれば、数十年と訪れぬこともあるのだが、それでも、彼の訪れはただ一人ある蘭香にとって、何よりの慰めであり、紫龍に対するのとは別の意味で、蘭香は彼に対して少なからず好意を持っていた。
 人間らなぬ身の蘭香と、龍たる赤龍、そして、人間でありながらただの人間とは異なるとしか思えぬ紫龍……──
 蘭香はそれぞれの身の上に想いを馳せた。
 これから先、あの子はどうなるのだろう。紫龍の中に感じ取った氣故に、何事か起きるのではないかとその身が気に掛かる。
 そして赤龍が仕える、ほどなくその命尽きようとしている竜王。()の命が失せたなら……。
 私には先を見通す力はないけれど……── そう思いながら、蘭香は愛し子の倖を願い、万物の父たる、今は老いたる竜王に祈った。
 どうぞ、龍の名を持つ人間の子を護りたまえ、と──

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