滝 の 姫




『きっと戻ってきてくれますね?』
『はい、必ず』
『では、待っています。そなたの帰りを、ずっとここで待っています』
 そうして姫は待ち続ける、千の時間(とき)、万の月日(とき)──





 一体いつからなのだろう。気付いたのは一月ほど前。だが振り返って考えてみれば、もっとずっと以前からだったような気がする。
 自分をじっと見つめる視線── それは、決して不快なものではなかく、そしてそれ故に気付くのが遅れたのだろうけれど……。
 あれは、女性(おんな)()── と、気配から紫龍はそう思った。
 そう女性というものを知っているわけではないが、いや、むしろ全くと言っていいくらい知らないが、漠然と、しかし確信を持ってそう言えた。あの眼差しは、男性(おとこ)の持つものではないから。



「視線を感じると?」
「はい。滝にいると、必ずといっていい程に」
 紫龍はついに老師に打ち明けた。
 決して気のせいなどではない。確かに自分を見つめ続ける瞳があそこにはある。
 一体、誰が、何のためになのか、気になって仕方なかった。このままでは修行にも響いてくるかもしれない。そのようなことを気にして修行に身が入らぬようでは、聖闘士(セイント)になど到底なれぬと老師に叱られるだろうと思ったが、疑問は解いておきたかった。長くこの地にある老師ならば、あの瞳の持ち主の正体を知っているかもしれないから。
「どんな、視線じゃ?」
「……どんな、と言われましても……。女の人、だと思います。とても、優しい感じの……」
 どう表現したらよいものかと、言葉を探しながら告げる紫龍に、老師は深い皺をなお一層深くして、笑いながら言った。
「そうか、最近のおまえが今一つ落ち着かず気が削がれていたはそのせいか」
「……申し訳ありません……」
 老師の言葉に、紫龍は幾分顔を赤らめながら頭を下げた。
「何も謝ることなどないがな。……しかし、そうか、滝の姫に魅入られたか」
「滝の、姫……?」
「その昔、あの滝に身を投げた娘があってな……」
 そう言って、老師は語り始めた。
「遠い昔、幾多の国が在って覇を競っていた頃、この近くの一つの国が敵である隣国の攻撃を受けたのじゃ。そして勝敗が明らかとなり、敗北を悟った王は自分のたった一人の姫を、数人の従者をつけて城から脱出させ、姫たちはこの地まで逃れてきた。だがやがて敵に知られるところとなり、敵に追われ、追い詰められ……」
「それで、滝に……?」
 紫龍の問いに、老師は頷いた。
「そしてな、身は土に還り、だが(こころ)は、今なお滝に留まって待っているのじゃよ」
「待つって、何をですか?」
「恋しい男をな。従者の中に、姫と恋仲にあった者がおったのじゃが、必ず戻ると言って城の様子を見に行ったまま戻らぬその男を待ち続けておるのじゃよ」
 老師の説明に、紫龍は納得がいかぬという顔をした。
 納得がいかぬというのは正しくないかもしれない。理解できぬというべきか。老師の話の通りなら、その姫が身を投じてからどれほどの時間(とき)を経たことか。数百年ですらきかないはずだ。それなのにまだ待ち続けているというのか、とうにこの世を去った、最早二度と戻ることのないだろうその男を。
理解(わか)らぬか?」
 そんな紫龍の顔を見て、老師は覗き込むようにして言った。
「男と女のことはまだ理解らぬか。いや、理解らぬ方がよい、おまえにはまだ早過ぎる、男女の色恋事はな。じゃが、これだけは憶えておくがよい。女子(おなご)の情ほど恐いものはない。ここにいる間はまあ関係あるまいが、女の情けには気をつけることじゃ。悪い女に引っ掛かったりせぬようにな」
 老師はそう言って声をたてて笑い、紫龍は何と答えてよいか分からずに、顔を赤くして俯いてしまった。



 ふいに、総ての音が消えた。
 そして今までに感じたことのない、氣。
 紫龍は閉じていた双眸を開けた。
「!!」
 滝に向かい岩の上で禅を組む紫龍の目の前に、一人の女が立っていた。
 身の丈と殆ど変わらぬ長さを持つ豊かな黒髪を後ろに垂らし、昔の貴人が着ていたような美しい(ころも)に身を包んでいる。そしてその黒曜石の瞳、それは常に身に感じる視線と同質のものだった。
「……」
 ── ……この女性(ひと)が老師の言っておられた、滝の姫……?
 紫龍はただ黙って、その女を見上げた。
 年の頃は20歳(はたち)前後といったところだろうか。背は、彼女の方が紫龍よりも僅かに高いようだった。
 老師の話が真実ならば、今目の前にいる女は人間ではない。実際、そこから感じる氣は、生きた人間の持つものとは明らかに異なる。
『そなた、名は?』
 黙ったままの紫龍に、女は優しい微笑(えみ)を浮かべながら尋ねた。
 美しい、まるで鈴の()のような声だった。しかしそれは耳を通してではなく、紫龍の心に直接響いてきたものだった。
『名は、何というの?』
 自分を見つめたまま答えぬ紫龍に、女は同じ問いを重ねた。
「……紫龍……」
『紫龍、というの。良い名ね。(とし)は幾つになるの?』
「もうすぐ15に……」
 紫龍は目を反らすことなく、問われることに答えた。
『……15……、初めて会った時のあの人と同じ齢……』
 そう呟くように言って、女は紫龍を見た。
 あの人というのは、老師の話に出てきた、彼女が待っているという男のことなのだろう。
『私は、蘭香というのよ、紫龍』
 時間にすれば、一分となかったろうが、蘭香は昔を懐かしむかのような遠い()をして、それからまた紫龍を見て自分の名を告げた。
 ── ……蘭香……。
 紫龍は心の中で、女── 蘭香── の告げた名を反芻した。
『あなたはちっとも私を恐がらないのね。私のこと、何も知らないから?』
「あ、あなたのことは、老師から聞いています。ここでずっと……こ、恋人を待ってるって……」
 最後の方は小さな声で、頬を染めながら答える紫龍に、蘭香は微笑った。
『可愛いのね、紫龍』
 その一言に、紫龍の顔はさらに赤く染まる。
「……あなたは、とても優しい瞳をしてるから……」
『……他の人間は、私のことを化け物だというわ。そして恐れている。私はただここに()るだけで、何もしていないのに。彼らにすれば、私という存在自体が忌むべきものなのでしょうね……』
 寂しそうに話す蘭香の姿に、紫龍は彼女の孤独を見た。
 恋しい男を待ち続けるだけの、気が遠くなるような永の年月(とき)を、たった一人で過ごしてきたのだ。人間(ひと)の身ですらなくなりながら、ただ再び会う、そのためだけに。
 蘭香がどうしてこうまでして男を待つことができるのかは紫龍の理解の外だったが、彼女の孤独な心はすぐに理解できた。
 なぜなら、彼もまた一人きりだったのだから。そう、この廬山の五老峰に来て老師と出会うまでは。
 ここに来る以前、日本の城戸の屋敷にいた間、多くの、自分と似た境遇の子供たちと一緒ではあったが、その中にあっても彼はやはり一人でしかなかったから。
『紫龍……、紫龍? どうかしたの?』
 急に黙り込んでしまった紫龍に、蘭香は心配気に呼びかけた。それに、何でもないというように紫龍は首を振って答え、蘭香は安心したような微笑を見せた。
『紫龍は何故廬山(ここ)に来たの?』
「聖闘士になるために」
『セイ、ント……?』
 紫龍は力強く頷き、滝壺を指差した。
「あの底に、龍星座(ドラゴン)聖衣(クロス)がある。聖闘士になってそれを手に入れるために」
『聖衣……? ああ、あれがそうなのね』
 最初は首を傾げていた蘭香だったが、ややあって、頷きながら言った。
「知っているの……?」
『だって、私はこの滝に在るのですもの。
 そう、そのために紫龍はここに来たの……。頑張って、きっと手に入れてね』
 微笑みかけながら言う蘭香に、紫龍は彼女の瞳を真っ直ぐに見詰め返し、頷いた。


 その晩、紫龍は老師に告げた。
「今日、先日老師が話してくださった滝の姫に会いました。とても美しい人で、そして、……とても寂しい人でした」
 老師は愛弟子の話にただ黙って頷いていた。



 それから時折、蘭香は紫龍の前に姿を現すようになった。
 そうして暫くの間、まるで姉と弟のように二人で時間(とき)を過ごしては消える。それは、紫龍にとって厳しく辛い修行の合間の、心穏やかな安らぎの時だった。
 そのことについて老師は何も言わず、そんな紫龍をただ黙って見守っているだけだった。おまえのことを信頼している、というように。
 そんな日々を過ごす中、ある日、紫龍は以前から気になっていたことを蘭香に尋ねた。
「蘭香、……どうして待っていられるの? あなたの待ってる人はもう……いないのに……」
『……そうね、あの人はもうどこにもいない、それは私も理解っているわ。でも、あの人は必ず戻ってくるって約束したの。だから待っているのよ』
「でも……っ!!」
『……私がこうしてここに在るのですもの、あの人だってきっと……』
「どうしてそこまで信じることができるの?」
 蘭香は優しい、けれど寂しい微笑みを向けた。
『あの人を愛しているから。
 ……憶えておきなさい、紫龍。女はね、本当に愛している人の言ったことなら、どんなことでも信じられるの。そしてね、どんなことでもできるのよ。だから紫龍、いつか本当にあなたを愛してくれる人に、愛する人に出会ったら、決して嘘をついたりしては駄目よ。相手に対しても、自分に対しても』
「蘭香……」
 蘭香の手がそっと伸ばされ、紫龍の頬に触れた。もちろんそこに人肌の温もりはなかったが。
『いつかはあなたも行ってしまうのね、聖衣を手に入れたら……。そうしたら、私はまた一人……。あなたに声など掛けねばよかった……』
 紫龍は、人間ならぬ身の蘭香の頬を、一筋の涙が伝うのを見た。
「蘭香っ!!」
 叫んだ時には、蘭香の姿は紫龍の前から掻き消えていた。
「蘭香── !! ……蘭香……」
 紫龍の、蘭香を呼ぶ声だけが虚しく木霊する。



 それきり、蘭香が紫龍の前に姿を現すことはなかった。
 再び修行に明け暮れるだけの日々が続く。



“何時もあなたを見ていたのよ、あなたが初めてここに来た時から”
“最初はあの人かと思ったの。どこかあの人に似ている気がしたから。あの時のあなたはまだ幼かったのにね”
“あなたに声を掛けたのは、あなたに興味を持ったから。こんなこと、あなたが初めてだったのよ”
 優しい微笑み、寂しい微笑み、そして、孤独な影─────



 共に過ごした短い時間、蘭香の告げた言葉、蘭香の仕草の一つ一つが思い出される。
 ── 蘭香……。
 僅かに蘭香の方が高かった背はいつか並び、今では追い越して……。けれど、蘭香の紫龍を見つめる瞳は変わらない。
 蘭香が紫龍の前にその姿を見せることはなくなったが、紫龍が、蘭香の名も、存在すらも知らなかった頃と何ら変わることなく、蘭香はそこに()った。紫龍が滝を逆流させ、聖衣を手にして聖闘士となった今もなお──



“何時もあなたを見ていたのよ”



 蘭香が自分のなかに何を見、また、自分が蘭香の内に何を見ていたのか、今はもう分からない。だが想い出は消えることなく、蘭香も変わることなく、いつまでもそこに在るだろう。だから……。
 ── 蘭香、あなたのことは忘れない……。





『きっと、戻ってくれますね?』
『はい、必ず』
『では待っています、ずっとここで、待っています』
 そうして今もなお、ただ一つの約束を守って姫は待ち続ける、何時までも─────

──




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