古都鎌倉の郊外に広大な敷地を持つ竜造寺家は、元々は大陸に始まり、千四百年程前に朝鮮半島を経由して大和に至ったという。竜造寺の姓を名乗るようになったのは都が平安京に移った頃のことであった。そしてその拠点を大和から鎌倉に移したのは、徳川三代将軍の頃。以来、この地にある。
大陸に残った一族と日本に渡った竜造寺家とは、ずっと長い間一族に伝わる秘伝の術を用いて、大陸と日本との間に交流がない時も連絡を取り続けていた。しかし二百年程前に大陸の血筋はいつしか途絶え、その血は今は日本に竜造寺一族が残るのみとなった。
遠い昔、竜王の眷属と契りを交わした娘の産んだ子が竜造寺一族の祖である。
彼等は遠く竜の血を引き、この人界にあって竜王に仕える一族となった。一族は竜王とその眷属たる竜たちの加護を受け、大陸の一族は滅びはしたが、それでもまだ、日本において、幾多の激動の時を乗り越えて現在に至っている。
竜造寺家の現在の当主は36代目の泰久である。泰久の子供は、綾乃という名の娘が一人いるのみ。妻は綾乃が5歳の時に病死している。
「綾乃」
泰久は庭で子犬とじゃれあっている唯一人のまだ幼い娘を、おいでと手招きをしながら呼んだ。
「なあに、お父さま」
綾乃は母親譲りの黒髪を背中に揺らしながら、トコトコと縁側に立つ父親の元に駆け寄った。そしてその父親の後ろに、見知らぬ学生服姿の青年── まだ少年といった方がいいのかもしれない── を認めて、小首を傾げた。
「今日はおまえの先生を連れてきたんだよ」
「先生?」
綾乃は聞き返しながら靴を脱いで縁側に上がり、父親の隣に立った。
「そうだよ。おまえももう少しで小学生だからね。家庭教師を頼んだんだ。佐々木先生だよ」
泰久は娘に、自分の脇に立つ少年を引き合わせた。
── それが、竜造寺綾乃と佐々木俊彦の出会いだった。
時に綾乃6歳、俊彦16歳の春だった。
それから十年── 。
当主泰久が病床にある今、綾乃は弱冠16歳という身でありながら、父に代わって一族を率いる立場にあり、今では俊彦は、家庭教師というよりは、常に綾乃の傍らにあって護衛役、補佐役、相談相手といった立場にあった。
「姫、何か?」
先程から自分の顔を見つめている綾乃に、俊彦は問い掛けた。
最初の頃、俊彦は綾乃のことを『お嬢さま』と呼んでいたが、いつの頃からか、一族の他の者と同様に『姫』と呼ぶようになっていた。
「ああ、なんでもないのよ。ただ、ちょっと昔のことを思いだしていたの」
「昔のこと、ですか?」
「そう。お父さまから初めてあなたを紹介された時のこと」
そう言って小さく微笑ってから、綾乃は暫く前から一度聞いてみたいと思っていたことを口にした。
「……今まで、この家を出たいと思ったことはなかった?」
「記憶している限りでは、無いですね。私も末とはいえ竜造寺一門の人間です。一族を離れて生きていくことを考えたこともありません。見方によってはとても情けなく映るかもしまれませんが、生まれてからずっとそうして生きてきましたし」
「これからもそれは変わらない?」
「ええ、きっと」
「これからもずっと私の傍にいてくれると、そう受け取って構わないのかしら?」
「姫が望まれる限りは、ずっとお傍におりますよ」
微笑って答えた俊彦は、綾乃が言葉の裏に込めた気持ちには気付いていないようだった。そして本当は『姫』ではなく、名前で呼んでほしいと思っていることも。
── そうね、私が望む限りずっと私の傍にいてくれる。でもそれは、私の望む形じゃない。あなたが好きなのよ。だから傍にいてほしい。けれどあなたがそうしてくれるのは、私が本家の娘で、『姫』と呼ばれる一族の巫女だから……。
しかしどんなに思っても、綾乃は自分の立場を考えればそれを口にすることはできなかった。だから俊彦が本当は自分をどう思っているのか、確かめることも出来ずにいた。
それに何よりも、今は一族の巫女として為さねばならぬことがある。
自分の気持ちを押し隠し、本家当主の名代として、一族の巫女としての務めを果たすのが先と、自分を納得させる綾乃だった。
そんな綾乃の気持ちの一方で、俊彦は彼女がまだ幼い頃から、その成長を見守ってきた綾乃の自分に対する気持ちの変化に、はっきりとではないが、自分をみつめる瞳の中にそれをうすうす感じ取っていた。
しかし、俊彦は綾乃とはまた別の立場から、それを表に出すことなく、綾乃を守り、彼女の幸せを願うことで、全てを自分の胸の内に納めていた。
俊彦は時計を見て、綾乃に告げた。
「姫、そろそろ里から連絡の入る時間ですが」
「ああ、もうそんな時間なのね。奥へ参ります」
俊彦の言葉に、綾乃は立ち上がった。
互いにその立場に縛られて、いつまでこんな日々が続くのか……。
時折、全てを投げ出したくなるのを抑え込んで、綾乃は一人、屋敷の最奥にある竜の里と連絡を取るために特別に設けられた部屋へと向かった。
そこには竜王とその眷属、そして竜造寺一族の未来を賭けたものが待っているのだ。
── 了
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