庭の記憶




 花の咲き乱れる庭で、少女が微笑(わら)う。少女が、呼ぶ──
“おにいさま”



 少女には、その庭が世界の全てだった。そしてその世界に存在するのは、自分と、母親と、少女が“おにいさま”と呼ぶ青年と、その青年の父たる男と、それだけだった。
 少女は生まれた時から、庭の外に出たことがない。ずっとその中だけで生きてきたのだ、生まれてからの歳月を。
 広大な敷地に中の一角の、箱庭のような小さな庭。閉ざされた世界。けれど少女は外に出たいと思ったことは一度もなかった。思う以前に、外の世界というものを知らなかったから。
 常に傍らにある母親は、少女に外の世界のことを教えようとはしなかったし、他の二人もそれは同じだった。少女がその世界の外に出ることは決してあり得ないのだから、わざわざ教える必要などないと、そう考えたのか──
 けれど、いずれ()る時が来るのだ。
 少女は、大人になった。
 生まれた時から傍にいて、“おにいさま”と呼んで共に育った青年に対し、日々膨らみゆく想い。だんだんと共に在ることが苦しくなって、けれど会えない時間が長くなると、それ以上に苦しくなって、少女の心は苛まれる。
 この気持ちは、一体何なのだろう。深まる想いと、それと比例するように増す心の痛み……。
 それが“恋”というものだと、そう少女に教えたのは少女の母親。
 そうして母親は少女に告げるのだ。かつての自分の恋を、ただ一度の、少女の父親との恋を。
 少女の母親が、この世でただ一人愛した男。その愛ゆえに母親は生まれ故郷を遠く離れ、一人異国のこの地にあって、少女が生まれたのだと。
 そしてもう一言、付け加える。
“その恋は駄目よ。いいえ、彼に対してだけではない。おまえは誰も愛しては駄目よ。おまえは、他の人間とは違うのだから……”
 そう言って、ごめんなさいねと呟いて、母親は少女の躰を抱き締める。
 自分は他の人間とは違うから、だから母親は自分をこの小さな庭の中だけで、決して外に出さずに育てたのか。でも一体どこが、自分は他の人間と違うというのだろう。少女には分からない。ましてや気付いてしまったこの想いを、いまさらどうして忘れることができるだろう。ずっと自分でも気付かぬままに、生まれてきた時から育み育ててきた想いなのに。
“ごめんなさい、おかあさま、ごめんなさい。おかあさまは駄目だと仰るけれど、あの人が好きなの、お母さまが私のお父さま一人を愛したように、私にはおにいさまだけなの、許して”
 泣いて、心の中で母親に詫びながら、許しを請いながら、少女は恋しい青年と共に生きる道を選ぶ。
 もう二度と“おにいさま”と呼ぶことはない。
 ただ一人の人と心に誓い、その手に導かれ、後ろを振り返ることなく、今初めて少女は外の世界へと歩み出す──





“おにいさま”
 少女の呼ぶ声が木霊する。
 視界の中を、長い黒髪を風になびかせながら、庭を走り抜ける少女の影が(よぎ)る。
「……紫龍!」
 遠くで彼の名を呼ぶ声がする。その声に、彼── 紫龍── はふいに現実に引き戻された。
 目の前にあるのは、荒廃した庭と、荒れた小さな家屋。
 ── 今のは、何だったんだ? あの少女は一体……?
 一度だけ振り返り、それから声のした方へと歩き出した彼の脳裏に、また、どこか彼に似た面影を持つ少女の、幸せそうな微笑い声が響いた─────

──




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