赤茶けた、草木一本すらない乾いた大地がどこまでも広がっている。かつてこの星の7割を占めた海も、とうに枯渇している。
人間という生物によって大地は荒廃した。緑に覆われ、水豊かな、この宇宙においてまるでオアシスといってもいいような星だったこの惑星は、大小さまざまな多くの生命に満ち溢れた美しい星であったのに、今は見る影もない。生物は死に絶え、この地上を我が物顔で歩いていた人間も、もはや一人もいない。全て失われてしまった。大地の要たる竜王が彼等の存在を許さなかったので、彼等はこの星に存在することができなくなってしまったのだ。
かつて、竜王は人間の子として生まれ、育ち、この地上を守る女神としてあったアテナの聖闘士の一人として、アテナを守り、この大地を、そこに生きる人々とその世界を守るために幾度となく戦っていたこともある。しかしその躰の中に流れる血ゆえに龍として目覚め、先代の後を継いだ時から、彼の人間に対する思いは薄れ、人間を見る目は厳しくならざるを得なかった。なぜなら、先代の竜王たる彼の祖父がその死期を早めたのは、間違いなく人間の犯した愚かな行為によるものだったのだから。
そしてその現在の竜王たる彼が傷つき倒れ、先代のこともその理由の一つにあったであろうが、眷属のものたちは人間を許さず、そして竜王はその意識を失う前にこの星に人間が存在することを拒絶したのだ。ゆえに人間は存在することができなくなった。
そうなった一因として挙げられるのは、それ以前に、彼等人間の、望むと望まぬとに関わらず、世界中の殆ど全てを巻き込んだ、大地を、この星を傷つける戦争という愚か極まる行いによって他の生物の多くが死に絶えていたことだ。もちろん、人間の全てが悪いなどと竜王は思ってはいなかった。むしろ、そう言い切れるのは極一握りと言ってよかっただろう。しかし悪くはなくとも、限られた者のものといえるかもしれないが、人間の持つ欲望がその状況を生み出していたのは間違いのない事実である。そして一人一人に対して、いや、国ごとにすら、選択をしているような余裕は既になく、全てを拒絶するしか、最早選択の余地はなかったのだ。そうでなければこの星は死の惑星となり、竜王だけではなく、彼の眷属も含めて全てが死に絶え、何もかもが失われることになっていたであろうから。
けれどそんな中でただ一ヵ所だけ、昔のままに緑が溢れ、大滝の流れる場所がある。まるで何かに守られているかのように───── 。
その水が一体どこからくるものなのか、誰も分からない。特に今となっては。ただ遥か昔からその大滝はそこにあり、人間がいた時も、そしていなくなってからも、水はあり、大滝は流れ続けている、
水が轟音をたてながら勢いよく落ちてくる大滝の前の岩の上に、どこから現れたのか、一人の男が姿を現した。
「姫!」
自分を呼ぶ懐かしい声に、蘭香はゆっくりと瞳を開け、そして自分の前にある長年見知った姿を認めて、彼女は大滝の中から姿を現した。彼は、人間の姿をとった龍だった。
“これは赤龍殿、久しいこと。いかがされました。
「久方ぶりにそなたの貌を見たくなってな。迷惑だったか?」
“迷惑などとは……。何をするでもなし、ただずっと眠りについておりましただけですから。
それはそうと、彼の君── 竜王はいかがされておられます? まだ傷を癒すための眠りについておられますのか?”
「ああ、まだ目覚められる気配はない。が、鳳凰殿が傍らについておられる。傷もだいぶ癒えてこられたように見受けられるし、目覚められるも時間の問題であろうよ」
“そうですか。ではもうすぐお会いできますね。早くお目にかかりたいこと。
……付き合いの長い赤龍ですから申し上げますけれど、実を申せば、人間がいなくなった時に私も消えてしまおうかと思ったのですよ。人間がいないということは、私の待つあの方が、私の前に現れるということが永遠になくなったということなのですから。そうなれば私がここに留まる理由はなくなるのですからね”
「姫、消えるなどと、随分とまたつれないことを」
“思ったことがあっただけですよ。今はまだそのつもりはありませぬ。少なくともあの方が目覚められるまでは。礼を申し上げねばなりませぬからね。全ての水と緑がこの大地から失われたというのに、この地だけはまるで別世界のよう……。これも全て、あの方のおかげなのですから……”
「そうだ。我が君は姫のためにと、消えゆく意識を前に必死にこの地を残された。なんでも、姫は我が君の初恋の方であるそうな」
“まあ、そうでしたの。あの方はそのようなこと、一度たりとも口にされたことはありませんでしたが”
岩の上に座る赤龍の傍らに立った蘭香は、優しい微笑みを浮かべた。
蘭香が思い出すのは、遠い昔、まだ人間がこの星に我が物顔で存在していた頃、聖闘士としての戦いの中で傷ついて自分の前に戻ってきた少年の姿だった。そう、龍として目覚める前の、まだ人間であった頃の少年。
── 蘭香……あなたが、好きだよ……。
僅かに頬を染めながら、見えぬ瞳を、それでも真っ直ぐに自分に向けてそう告げた少年。そして蘭香は少年と約束を交わしたのだ。
“そういえば一度だけ、「好きだ」と仰ってくださったことがありましたか。あの頃はまだ、あの方も目覚められる前の人間であられたが”
「今となっては、鳳凰を除けば姫だけであろう、人間であられた頃の我が君を見知って見知っているは。なればこそ、我が君は姫を失いたくはないのであろうよ」
“そうかもしれませぬな……。はからずも人間を見捨てられはしたが、あの方は本来は人間という存在を愛しんでおられた”
少なくとも、竜王がまだ人間だった頃、彼の周囲には、彼の尊敬してやまぬ師や、その師の元で共に育った妹のように愛し慈しんだ少女── 少女は彼を愛し、かけがえのない存在と想っていたようだが── や、アテナはもちろん、その聖闘士として共に戦った大切な仲間たちがいたのだから。
久しぶりの会話というものに、蘭香にしては珍しく話が進む。蘭香が“あの方”と呼び、赤龍が“我が君”と呼ぶもの── 竜王── を除けば、彼女を訪ねてくるものなど存在しない。確かにそれは人間がこの星にいた頃も同様ではあったが、しかしそれでも、僅かにではあったが、彼女の存在を知る者は存在したし、人間には分からずとも、彼女自身は彼等の存在を感じ、見聞していた。だが、今はそれすらもないのだ。人間がいなくなって以降は、竜王たる彼が深い眠りの中にある現在は、彼女のことを知り、訪ねてくるのは赤龍のみ。そしてその赤龍の訪れも、この星がこのようなことになってしまって以降は数えるほどしかなくなっている。
昔馴染みの、最も永い付き合いとなった赤龍の訪れは、蘭香には嬉しいものだった。時折気まぐれのように訪れるこの龍が、自分に対して好意を持ってくれているのは承知していた。とはいえ、彼の本性は龍であり、そして蘭香自身は、魂だけの存在に過ぎない。遠い昔に大滝に身を投げて、その躰を失ってしまった。
躰を失い、そして魂だけとなってもなおこの地に留まり続けたのは、ひたすら恋しい男を待ってのことだった。必ず戻るとの、恋人のその言葉だけを信じて待ち続けてきたのだ。
そしてそんな蘭香の前に現れたのが、のちに竜王となった少年だった。
まだ竜王が人間の子であり、龍として目覚める前の幼き日々、彼はこの地で聖闘士となるために、師の元で拳の修業をしていたものだった。人間ではない自分を、それと知りつつも慕ってくれた愛しい子。あの頃は、よもや彼が竜王となるべき宿命の持ち主とは思いもよらなかった。あの時から一体どれほどの時間が流れたのだろう。世界はあまりにも変わってしまった。
現在この星に在るのは、竜王とその眷属の龍たち、鳳凰と彼に仕える四天王、そしてかつて人間であった蘭香の魂── 。
そして竜王は、鳳凰に見守られながら、傷を癒すための深い眠りの中にある。
星の核たる竜王の傷が癒えて彼が目覚めれば、この星は再び緑に覆われ、生命の満ち溢れた星となるだろう。だがその生命の中に、果たして人間はいるのだろうか。
自分たちをこの世に生み出した、親ともいえる存在の竜王を、そうと知らずとはいえ傷つけた人間たち。それでも竜王は耐えていたのだ。かつて人間としてその世界に身をおいていたことがあっただけに、人間という生き物がいかに心の弱い生き物であるかを知っていたから。けれどその竜王が倒れた時、その眷属たる龍たちは。彼等人間を許さなかった。そして竜王自身も、他の生命を顧みない人間たちを、ついには許すことはできぬと断を下し、この星から人間は失われた。
現在の竜王は先の竜王の孫にあたる。祖母は、人間の女だった。竜王と人間の間に生まれた娘、その娘が彼の母親であり、彼の父親は人間であった。人間の血を濃く受け継ぎ、人間として生きてきた歳月── その中で、彼は守るべき存在を、愛しいと思う存在を見つけた。龍として目覚めても、人間としてあった時の記憶は残り、その記憶と意識が、人間を見捨てることをよしとしなかったのだろう。だがその者たちが失われた時に、その想いも断ち切られてしまったのだ。
もはやこの星に人間という存在が再び立つことは、遠にないのかもしれない。
“赤龍殿、あの方が目覚められたら、教えて下さいましね。私はこの地を離れることは叶わぬ身ゆえ、お訊ねすることはできませぬが、それでも……”
「おそらく俺がそれを伝えに来る前に、我が君自らここに参られようよ、姫に逢うためにな。そなたが考えている以上に、我が君は姫を想っておられる。でなければ、あれほどの無理をしてまでここを残されるものか」
“……私は、あの方にこれほどのことをしていただく価値などない女ですのに。私は、死人、ですのよ。醜い想いに囚われた、ただの人間の亡霊に過ぎませぬ。あの方を傷つけた人間の一人だったのです。それに、あの方がどれほどのことをして下さっても、私はそれにただ礼を述べることしかできぬ、何の役にも立たぬ存在……。私にできるのは、だ待つことと、祈ることだけです”
「人が人を想うことのどこが醜いものか。それにな、姫はただいてくれるだけでよいのだ。それだけで、心が和む、癒される。だから俺はこうして会いにくる。我が君も同じ気持ちであるのだろう」
言いながら、赤龍はそっと手を伸ばした。指の間から蘭香の長い黒髪がさらさらと零れ落ちていく。
躰を失い、魂だけの存在となったにも関わらず、いつからか蘭香は実態をとることが叶うようになっていた。それだけ彼女の想いが深かったことの証なのかもしれない。だが所詮は仮初めのもの。生前の形をとっているだけで、人間の持つ温もりはない。冷たい蘭香の唇に、赤龍は己の唇を寄せた。
「怒らぬのか?」
“…………”
「また来てもよいか?」
“いつなりと”
その返事に赤龍は頷き、また来ると告げて立ち上がった。
“赤龍殿”
帰ろうとした赤龍を蘭香が呼び止める。
“あの方が目覚められましたら、お伝えください。かつての約束、決して忘れてはおりませぬ。私はここで待っておりますからと。
それから、鳳凰殿にもよしなに”
「承知した」
赤龍が消えた後も、蘭香は彼のいた場所を見つめていた。
── きっと、戻ってきてくれますね?
── はい、必ず。
── では待っています。ずっとここで、待っています。
そう約束し、けれど二度と戻ってこなかった恋しい人。
待って待って待ち続けて、それでも戻らぬ男に心乱した蘭香に、僕がいると、たとえ外に出ていくことがあってもきっと帰ってくると告げた少年。その言葉が何よりも嬉しかった。
── また、逢える?
── ええ、言ったでしょう、あなたを待つって。
遠い昔、蘭香の返事に嬉しそうに頷いていた少年。あの約束を、彼が返ってくるのを待つと告げたのを、忘れてはいない。そして彼は、約束どおり、必ず帰ってきた。その彼が在る限り、蘭香はここに存在し続けるだろう。約束を果たすために── 。
薄闇の中に、影が二つ── 。
深く傷ついて、その傷を癒すために眠り続ける彼と、その彼を見守る影。どれくらいの間そうしているのか、既に定かではない。
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