テラスから庭に出ようとして、ポツッと頬に何か当たったような感じに、瞬は空を見上げた。
「雨……? でも晴れてるのに……」
瞬の言葉に空を仰ぐと、ポツポツ── と、確かに雨が落ちてきている。
「天気雨か。狐の嫁入りだ」
「狐の嫁入り? 何、それ?」
瞬は鸚鵡返しに、隣に立って同じように空を見上げている星矢に尋ねた。
「昔、姉ちゃんが教えてくれたんだ。天気雨の降る時って、狐の嫁入りがあるんだって。あれ、嫁入りするから、雨を降らすんだったかな……?」
「ふうん。面白いね、そういうのって」
星矢の話に、瞬は笑いながら頷いた。
「……昔、誰にだったかは忘れたが、俺もこんな話を聞いたことがある」
まだ室内にいて、黙って二人の会話を聞いていた紫龍が何かを思い出したかのように口を開いた。
「何、どんな話?」
天気雨だけあって大した降りではなかったが、星矢と瞬の興味は、普段は寡黙で、滅多に自分たちの会話に混じってこない紫龍に移って、二人は室内に身を戻した。
「晴れた時に降る雨は、龍の流した涙だ、ってね。龍というのは、水神だからな。雨を降らせたり嵐を起こしたり、水を操るものだ。だからなのだろうが、龍が泣くと、その涙は雨となって人界に降り落ちると、そう言われているそうだ」
「へえ……。それ、どこの話?」
紫龍は星矢のその問いに、首を横に振った。
「さあ、そこまでは覚えていないが……。何せ、いつ誰に聞いた話かも覚えていないんでね」
そう言って、紫龍は少し寂しそうな微笑みを見せた。
その顔に、星矢はそれ以上重ねては聞けなかった。紫龍を困らせたくはなかったので。
“……お天気雨はね、私の生まれたところでは、涙雨って、言ったのよ。あれは、竜王の流した涙なの……”
見知らぬ女性の、けれどどこか懐かしい声が紫龍の中に木霊する── 。
あれは、誰だったのだろう……?
龍が泣く── 。
汚れた大地を、汚れた海を、嘆く── 。
あれほどに慈しみ育てた子供たちは、何も知らず、その親たる大地を傷つけ続けている── 。
“……蒼龍よ、まだあれは見つからぬか?”
“はい、残念ながら。なれど我が君、かの一門が必死に探しております。今暫くの刻を……”
“だが、我にはもやはその時間がないのだ……”
竜王が涙する。
あまりにも傷つけられた己が躰── 。故に残された時間は短い。
そして人界に生まれし世継ぎの龍、その躰に想い馳せ── 。
その涙は雨となって、想いの元へと降り注ぐ……。
「星矢、雨、止んだよ」
窓の外を見ていた瞬が叫んだ。
降りはじめと同じようにふいに雨は降り止んだ。そして星矢と瞬は外へと飛び出していく。
それを見ながら、紫龍は雨の中に感じた何か温かなものに想いを馳せた。
なぜそんなふうに感じたのか、自分でも不思議ではあったのだが、それは懐かしさにも似て、遠い昔、自分を抱きしめてくれていたのであろう腕の温もりを思い出させた。
そしてふいに思った。
涙雨の話をしてくれた女性は、面影すら定かではないが、もしかしたら自分の母親だったのかもしれないと── 。
窓ガラスの向こうに、綺麗に晴れ渡っている青空を見上げながら思いを巡らせている紫龍のそんな姿を、一輝は煙草をふかしながら、彼には分からぬように黙って見つめていた。
── 了
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