臥 龍




 ムウは、まるで死んだように懇々と眠り続ける紫龍を見ながら、以前、五老峰の老師を訪ねた時のことを思い出していた。





 ムウは老師が弟子をとったとの噂に、もう随分長いこと弟子をとったことのなかった老師が、今頃になってなぜまた急に弟子をとる気になったのか、そしてまたそんな気にさせたのはどんな子供なのかと興味をもって、久しく訪れることのなかった老師の元を訪れたのだった。
 その時に老師と交わした会話は、今もはっきりと覚えている。



『どうです、今度の弟子はモノになりそうですか』
『……あれほど龍星座(ドラゴン)聖闘士(セイント)に相応しい者はおるまい』
『それはまた随分と……』
『じゃが、そうはなるまいよ。よしんば聖闘士となれたとしても、長くはあるまい』
 老師の否定の言葉にムウは眉を顰めた。
『彼は、聖闘士にはなれぬと? では、なぜ育てます?』
『あれは、龍じゃ。龍の血を引く子じゃ』
『龍、の……?』
『今はまだただんの人間(ひと)の身じゃが、いずれは、龍として目覚める時が来よう。わしが育てておるのは、龍星座の聖闘士ではなく、龍、そのものよ』
 そう言って、老師は皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
『……当人は、知っているのですか?』
『いや、何も知らぬ。わしも教える気はない。時がくればおのずと知れよう。わしがあれに教えるのは、拳よりも何よりも、精神の在り様、人間の在り様よ』
 龍の力は測り知れぬからの、そう告げる老師の真意を、ムウは理解した。
 やがて目覚めた彼が、決してその力を誤って振るうことのないようにと、そのために精神修業に重きを置いているのだと。
 老師が弟子を呼ぶ。まるで、祖父が愛しい孫を呼ぶように──
 会ってゆかぬかとの誘いを断り、離れたところから老いた師とその愛弟子の姿を目の端に止めながら、その場を去った。





 ── 龍は、まだ目覚めぬか……?
 それにしても、いくら仲間とはいえ、他人のために何の躊躇いもなく自分の命を投げ出すとは……。老師、あなたが彼をどのように育てたかがよく分かる。だが、人間の世界で生きていくには、向きませぬな。



 ムウの見つめる中、彼が目を覚ました。
「紫龍、気が付きましたか」
 ゆっくりと、紫龍の顔が声のした方へ向けられる。
「……ムウ……?」
「そのまま休んでいなさい。まだ、動くのは辛いでしょうから」
 起き上がる気配を見せた紫龍を、ムウはそう言って止めた。紫龍はその言葉に素直に従う。そして、何かを言おうとした紫龍に、ムウは先を察して答えた。
「安心しなさい。ペガサスの聖衣(クロス)は修復を終えて、既にキキに日本へ運ばせました」
「本当ですか?」
「ええ」
「良かった……」
 紫龍は安堵したように小さく呟いた。
「……けれど、よく老師があなたを手離したものですね。私はずっと手元に置かれるかと思っていましたが」
「老師を、御存知なのですか?」
「ええ。老師とは古い知り合いです。あなたのことも知っていましたよ。もう二年程前になりますが、老師をお訪ねしたことがあって、その時にあなたのことを聞いたのです。しかしあの時の様子では、老師があなたを一人で外に出すとは思いませんでした」
 慈愛に満ちた眼差しで愛弟子を見つめていた老師。
 ムウが知る限り、かつてないほどに慈しみ育てた龍の子。その子を、なぜ一人で外に出したのか。
 目覚めるその時が来るまで、ずっと手元で育てるものと思っていたのに。
 老師は、彼の育てた子が龍として目覚めるのを楽しみに、そしてまた、恐れてもいたから。
「老師の元で得た力を、試してみたかったんです。自分がどれほどの力を持つものなのか知りたくて、それでグラード財団からの申し出を受けたのですが、老師も反対はなさりませんでした。それよりもむしろ、良い機会だから人間の社会というものを見てこいと」
「人間の社会を……?」
「ええ。ずっと五老峰で老師や春麗と私の三人だけで過ごしていましたから、外に出て人間というものを知った方が良いと言われました」
 それでなのかと、ムウは納得した。
 他の人間は誰も龍が実在するなどとは思っていない。龍はあくまで架空の動物、幻獣でしかない。
 しかし老師は知っている。
 龍が実在すること。そして龍がどのような存在なのか。
 龍こそはこの大地の要と── 。なればこそ、人間という生き物を知らねばならぬと考えたのか。
『人間ほど矛盾に満ちた存在はおらぬ。善と悪、理性と感情……。異なる二つの面を同時に持ち合わせ、それゆえに抗争の歴史を繰り返す。愚かな生き物よな。その抗争に躰を傷つけられる龍こそいい迷惑じゃろうて。よくぞ今まで見捨てずにいてくれるものよ』
 かつて老師はそう言って笑った。
 では、この龍は?
 仲間のために自分の身を犠牲にしようとした子。目覚めた後も、その心は変わらぬだろうか。
 もし彼が人間を知り、人間という生き物に絶望し、そして拒否したら、どうなるのだろう。
 老師が傍らにある限り、そのようなことはないと信じたいが……。



 龍はまだ、目覚めない──

──




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