女 神(アテナ)




 話の切欠が何であったのかはもう分からない。
 城戸邸の居間、久々のゆっくりした時間を、皆でお茶を飲みながら何気ない話をして過ごしていたのだが、気が付けば、いつの間にか宗教談義のようになっていた。



「他の神々が失われた中で、なぜ、アテナだけが現在もなお、存在し続けるのか、か」
「そんなこと、アテナは地上を護る存在だからに決まってるじゃないか」
「地上を護る存在だから、ということだけではないと思うよ。ギリシア神話に限らず、北欧神話とかケルトとか、いろいろな神話があって、多くの神様がいるわけで、その中にはアテナのように地上を、人間を護る神様だってたくさんいるわけだろう。その中でなぜ、アテナだけが残ったんだろう」
「それは他の神話がただの話に過ぎなかったってことじゃないのか? さもなきゃ、なんてのかな、ほら、同じ神様のことを言ってても、場所によって呼び名が違ったりとかするじゃん」
「例えば、ゼウスとジュピターとか?」
「そうそう」
「言いたいことは分かるけど、それならキリスト教とかイスラム教とかはどうなるんだい? あれは一神教だし、多神教であるギリシア神話や北欧神話なんかとは、神の定義も性格も違うだろう?」
「うーん」
「信仰心の差、じゃないのか? つまり、どれだけその神の存在を信じてるか」
「それこそ、だよ。キリスト教やイスラム教の信者がどれだけいると思う? この二つに仏教を加えた、いわゆる世界三大宗教の信者の数、考えてごらんよ。そういうことで比較するなら、それこそアテナの存在を信じてる者の数なんて微々たるものだよ。イスラム教なんてすごいパワーを持ってるしね。あのヘンのパワーっていうのは、別の意味で聖闘士(セイント)も叶わないんじゃないかと思うよ」
「なあ紫龍、おまえはどう思ってんだ?」
 会話に加わらず、黙って彼らの会話を聞いていただけの紫龍に星矢が問い掛けた。
「さあ、そういったことは考えたことはないからな。現実として、アテナは我々の前に存在しているわけだし」
「……アテナを女神として存在たらしめているのは、他ならぬ我々聖闘士さ」
 それまで、紫龍と同じように会話に加わらずにただ話を聞いていた一輝のその言葉に、他の者の目が一斉に彼に注がれた。
「……僕たちが……?」
「神にしろ悪魔にしろ、元をただせば人間が生み出したものだからな」
「確かに、神とか悪魔とかいった概念は人間が創り出したのかもしれない。しかしそれは人間がそれらにそういった名を与えたということで、人間が創り出したというものではないだろう」
「神も悪魔も、存在などしていなかった。人間では為し得ぬこと、つまり奇蹟という奴だな、それを起こした力、それを為したモノに、人間は神と、あるいは悪魔という名を与え、実態を与えた。人間の持つ、人間以外のモノが引き起こす事象に対する畏怖、恐怖、そういった心が、神や悪魔といったものを生み出したといえる。神がいたから人間が生まれたのではなく、人間の心がそれらを創り出し、力を与えたのさ。そしてそれらの中で、なぜアテナだけが今もなお実存しているのかといえば、それは、他の宗教における司祭などとは違う、聖闘士という特殊な存在による。神を生み出したのは人間の思念だが、聖闘士のそれは他の人間とは比べ物にならないほどの力を持っている。その聖闘士の思念エネルギーともいえるものが、アテナを神として存在たらしめ、そしてまた逆に、そうして存在するアテナの放出する力が、人間の持つ力を引き出し、その人間を聖闘士と為しているわけで、いってみれば、アテナと聖闘士は相互依存の関係にあるということだ」
「アテナの聖闘士としては、随分と不遜な考え方だな」
 他の者は常になく雄弁に語る一輝の話に黙って耳を傾けていたが、氷河のその一言をきっかけに反論がはじまった。
「聖闘士がいるからアテナが存在し得るなんて、そんな考えは間違ってるよ。俺たち聖闘士はアテナを護るために存在するんだぜ」
「そうだよ。それに聖闘士の力は俺たち自身の訓練によって培われ、それによって人間本来の持つ力を引き出したものだ。確かにそこにアテナの加護はあると思うけど、あくまで自分自身の力だよ」
「……人間は知らないのさ。人間が本来持っている潜在的な力がどれほどのものか。神が為した奇蹟だと言われているものの多くは、実際には人間が、人間の思念が、彼等の心の底にある願いや望みを実現したものだ。自分たちの持つ思いが一つになった時に、それがどれほどの力を秘めているのか、人間は気付いていない。神も悪魔も、そうして人間が生み出した、人間の放出した思念エネルギーの集合体に過ぎないのだがな」
「つまり、おまえは神の存在を否定するのか? 仮にも女神アテナの聖闘士であるおまえが」
「否定するというわけじゃない。捉え方、認識の差、だな。実際、さっき紫龍が言ったようにアテナが実在しているのは事実だからな。要はそれがどういった存在であるかということだ」
「一つ聞くが、おまえはさっきアテナと聖闘士は相互依存関係にあるって言ったよな。もし、おまえの考えるとおりだった場合、万一アテナがいなくなったらどうなるんだ?」
「まず聖闘士の存在意義が()くなるな。聖闘士も、少しばかり力が強いだけの、その辺にいる人間と変わらなくなる。だがそれよりも前に、聖闘士がいなくなった時、アテナは存在し得なくなるだろう。他のアテナを信仰する人間の数、そしてそれらが生み出すエネルギーは、さっきの話ではないが微々たるものだからな。だからアテナを抹殺しようと思ったら、アテナ本人を狙うよりも、聖闘士を一人残らず抹殺すればいい、というわけだ。ついでにいえば、アテナ以外の神でも、アテナにとっての聖闘士に相当する存在を持っていれば、我々が知らないだけでそれらと共にその神もアテナのように存在している可能性があるな」
「その考えって、変だ、納得できないよ!」
「納得しろとは言っていない。おまえらにはおまえらの考え方があるだろうし、押し付ける気はない。アテナという、地上を護る存在としての女神が存在するのは紛れもない事実だしな。もっとも、本当にこの大地を護っているのはアテナなどではないのだが……」
 そう言いながら、一輝は自分の目の前に座っている紫龍を見た。
「一輝……?」
「アテナでなかったら、一体誰だっていうのさ」
「さあな。五老峰の老師にでも聞いてみるんだな」
「老師に?」
「どういうこと? 老師は何か知ってるの?」
「あの老師のことだ、おそらくな」
 ── 全てを知った上で育てたとしか思えん節があるからな。おかげであの一族は一苦労だ。
 そう思い、心の中で苦笑する。
「で、兄さんは何を知ってるの?」
「さあな」
 冷笑を浮かべて答えながら立ち上がって、ふと何気なく窓の外に目をやった一輝は、そこに見覚えのある顔を見た。
 それは沙織と同年輩の少女と、彼女に従うように歩く青年が、沙織とメイドに見送られながら玄関の前に止めてある車に乗り込むところだった。



「随分と話が弾んでいるようですね」
 言いながら、沙織が辰巳と一緒に居間に入ってきた。
「お嬢さま」
「沙織さん、お客さまはお帰りになったんですか?」
「ええ、今し方」
 車が走り去るのを窓の内から見送っていた一輝は、その車の影が見えなくなった後、振り向いて沙織に尋ねた。
「客というのは、竜造寺の娘だったのか?」
「ええ。綾乃さんを知っているのですか、一輝」
「……まあな。で、あの娘、何の用で?」
「人を捜しているということで、何か知っていることはないかと尋ねて見えたのよ。結局、人違いだったらしいのだけど。でも、どうしてあなたが綾乃さんを知っているの? 綾乃さんの家── 竜造寺家といえば、こういうのもなんだけれど、成り上がりともいえる城戸家とは比較にならないくらい古い、本当に名門と言われる家柄なのよ。そのお嬢さまとあなたが知り合いだなんて……」
「似合わない、か? まあ、色々とあってな」
 一輝は少し考え込むようにして、それから自分が座っていたソファの背に掛けてあった上着を手に取った。
「ちょっと出てくる」
「兄さん、どこへ?」
 出て行きかけた一輝を引き止めるように、瞬が聞いた。
「夜までには帰る」
「一輝!」
「なんだ?」
 紫龍に呼び止められて、一輝はドアに手を掛けたまま振り返った。
「……」
「どうした?」
 その場に立ち尽くしたまま、呼び止めはしたものの何をどう言ったらいいのか、何を聞きたいのか自分でも分かりかねているような紫龍に、一輝は再度促した。
「何か聞きたいことでもあるのか?」
「……すまん、なんでもない……」
 俯いてそう返した紫龍にを残して、一輝は部屋を出るとそのまま真っ直ぐ玄関に出て、先ほどこの城戸邸を走り去った車の後を追うように、屋敷の外に向かった。
「紫龍、どうかしたの?」
「いや、なんでもないよ、瞬」
 力なく答えて、再びソファに腰を降ろしながら紫龍は思う。
 会話の最中に自分を見た一輝の瞳は、何かを言いたそうだった。彼は一体自分に何を言いたかったのか、それが気に掛かる。
 最近、気が付くと、一輝はあの瞳で自分を見つめていることが多い。一輝は、もしかしたら自分の知らない、自分に関する何かを知っているのかもしれないと思う。
 時折、自分の中に自分以外の何かえたいの知れないものが存在しているような気がする時があって、それは自分の出生に関する何かと関係があるのだろうと、そう感じられた。そしてそんな時、一輝はよくあの瞳で自分を見ているのだ。
 一輝が何を言いたいのか、何を知っているのか、それを問い質したいと思う。しかしなぜかそれを知るのが恐くて、口にすることができないでいる紫龍だった。



「で、今日は珍しく皆揃って、一体何の話をしていたの?」
 メイドの持ってきた紅茶に口を付けながら、沙織が聞いた。
「……たいしたことじゃないんですよ」
「そう、つまんない話」
「あら、私には言えないの?」
「えーとその、男同士の話っていうやつで……」
 会話の内容を沙織に話すことなど流石にできなくて、皆、ごまかしに必死になっている。それを聞き流しながら、紫龍は自信ありげな一輝の話を心の中で反芻していた。
 一輝は何かを知っている。誰も、もしかしたらアテナたる沙織自身すらも知らないことを。そしておそらくそれは、アテナのみならず、自分にも関係のあることなのだろうと、直感で紫龍は感じていた。
 ── 一輝、おまえは何を知っているというんだ……?





 様々な思いが錯綜する。
 竜王の、その腹心たる蒼龍の、そして彼らに仕える竜造寺家の人々の……。
 今、全てを知るは鳳凰ただ一人。
 アテナすらも知らぬところで、事は進んでいる、今この一瞬にも─────

──




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