過ぐる内乱から既に二年余り経ち、街はかつての繁栄を取り戻し、もはやかの戦乱の痕は微塵も残っていない。少なくとも、表面上は。
ソティエ侯爵ヤープは、内乱の折には反乱軍側の参謀を務めていたが、時の帝王エシュテートを打倒し、異母弟ルーガルが新しく帝王として即位すると同時に、その後見人として司政長官の地位に就いた。
これは暗黙のうちに了解されている周知の事実であるが、サ・ラー・ルーガルは帝王といっても名ばかりの傀儡の王にすぎず、実権の殆どはソティエ侯が握っていた。
かつてこの帝国の二大実力者と言われていた一方の、元司政長官ルキソール公爵タイラントは、既に隠居して家督を養子に迎えた甥のルカスに譲り、政界からは完全に身を引いていた。
そしていま一人、リノア公爵アエテリスは、首都ヴァルーナの郊外に新しく別邸を建て、そこに引き篭もって自由気侭な日々を送っていた。
「旦那様、司政長官のお使いの方がおみえになられました」
小間使いが居間で寛いでいるアエテリスに告げた。
「またか」
深い溜息を一つ。
「ヤープもつくづくしつこい男だな。何度言ってきたとて返事は変わらぬものを」
「殿の頑固さも相当のものだと私は思いますけれど」
アエテリスの傍らの女が、微笑いながら言う。
「ふん」
「旦那様、お使いの方へはどのように?」
「いつもと同じように答えておけ、出仕する気はない、とな」
「はい、畏まりました」
小間使いは一礼すると居間から下がった。
「よろしいのですか、殿。いつもお使いの方を追い返されて、会おうとすらされず・・・・・・。このままではいずれご不興を・・・・・・」
「構わんさ。それと、いつも言っているようにそのようなことをそなたが気にする必要はない。いいな、二度と口にするなよ」
「・・・・・・はい。でも・・・・・・」
「でも、なんだ?」
「何故、長官は殿を出仕させようとこうも必死なのでしょう。王家に繋がるリノア公爵家のご当主とはいえ、何の役職に就かれているわけでもない殿に・・・・・・。それに、ヴァルーナの者なら皆知っていることですけれど、殿が出仕なされぬのは先のエシュテート様がご即位された頃からのことでございましょう? それを・・・・・・」
「ヤープは不安なのさ」
アエテリスは口元に微かに笑みを浮かべて女──ディエンヌ──の疑問に答えながら、その腰を抱き寄せた。
ディエンヌは、自分よりも僅かに高い位置にあるアエテリスの顔を仰ぎ見た。
「不安?」
「そう。私が出仕しないのは、帝王を認めていないため、そしてそれはもしかしたら秘密を知っているからかもしれない。もしそうならば、それがいつバラされるかもしれない──とな。で、確かめたがっている。大方そんなところだろう」
「それで実際のところ、殿はその秘密とやらをご存知なのですか?」
ディエンヌは答えを察しながら、確認するように問い返した。
「ああ、知っている。私と、あともう一人、タイラント殿がな」
「ルキソール公爵家のタイラント様ですか?」
「そのタイラント殿だよ。さあ、もういい加減にこんなつまらない話はやめよう。今日は久しぶりに一緒に街に出る約束だっただろう?」
アエテリスは、もうこれ以上この話をする気はないのだと、そう告げて、ディエンヌを促した。
「さあ、早く仕度をしてきなさい。私はここで待っているから」
「はい、殿」
そう返事をしてディエンヌが居間を出ていった後、アエテリスはつい今し方のディエンヌとの会話の中に出てきたタイラントのことを考えた。
今頃、何処でどうしているのか、と。
タイラントは養子に迎えた甥に家督を譲るとすぐにその姿を消した。
表向きには田舎の方に別荘を建てそちらに移り住んだことになっており、事実を知っている者はそう多くはない。ましてやタイラントが何処へ行ったのかということになると、それに答えられるものは一人もいなかった。
しかしアエテリスには分かっていた。はっきりとタイラントの口から直接聞いた訳ではないが、分かっていた。
タイラントは、彼の王子の後を追ったのだ。後を追って海を越え、新しい土地へ行ったのだ。
タイラントが果たして彼が探し追い求める相手に会えるかどうか、それは分からない。必ず会えるという保証は何処にもない。それはタイラント自身、充分に理解しているはずだ。
しかしそれでも、彼は追い続けるだろう。たとえもう二度と会うことは叶わないと分かっていたとしても、残り少ない人生の最後の時まで、追うことをやめはしないだろう。
アエテリスはそう思っていた。それは確信に近い。何故ならば、タイラントのその想いは同時にアエテリスの想いでもあったから。
それでもアエテリスがタイラントと異なる道を選びあえて国に留まったのは、最期まで見届けようとの想いが一方にあったためである。それはもしかしたら、かつて彼が愛した女性の眠る地を離れたくない、という想いがあったからかもしれない。
そうしてアエテリスは、タイラントが行くのを黙って見送ったのだった。彼が目的を達成することを祈りながら。
「・・・・・・今、何処にいる・・・・・・?」
アエテリスは誰に言うともなく、低く呟いた。
「今日はお別れに伺いました」
アエテリスを訪ねてきた青年は、最初にそう告げた。
「やはり行くか。・・・・・・で、何時?」
「明日か明後日にでも。もう私のすることはありませんし、整理がつき次第に」
「どうしても、か? たとえ私がおまえに傍にいてほしいと望んだとしても、気は変わらぬか?」
「・・・・・・アエテリス様、あなたが追っているのは、私ではなく私の内にある私の母の面影・・・・・・。違いますか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「あなたには感謝しています。あなたが私を目覚めさせてくれた。だから、こうして伺いました。本当は誰にも告げずに行くつもりだったんですが・・・・・・」
そう言って、青年は空の青さを移した瞳を伏せた。
「そうして、国を捨て、民を見捨てるか」
青年はアエテリスの言葉に面を上げた。
「あなたが何とおっしゃろうと、もう決めたことですから」
「無駄、なのだな。もう私が何を言っても・・・・・・」
アエテリスは青年に近づき、右手を彼の頬に寄せた。
「考えてみれば、以前おまえに好きなように生きろと言ったのは、他ならぬこの私だったな。それを今になって傍にいてほしいと言い出すなど、虫が良すぎるか。・・・・・・止めはすまいよ、もう。おまえはおまえの道を行くがいい」
「アエテリス様」
アエテリスはふっと微笑い、青年を抱き寄せた。しかしそれはほんの一瞬の短い抱擁で、すぐにその身を離した。
「さらばだ。今度こそもう二度と会うことはあるまい。息災でな」
アエテリスは青年を残して部屋を出た。
それが、青年に会った最後だった。
それから2年──。だがアエテリスは、彼の母親と共に彼自身のことも忘れたことはない。
かつてまだ少年だった頃に恋した少女、そしてその面影を持った彼女の息子──。そうとは知らず、僅かの間のことではあったが、その身を抱いていたこともあった。
タイラントはその青年を追って国を去り、自分の意志でそうしたとはいえ、残ったのは自分一人──。
アエテリスは、代々家に伝わる『予言の書』に思いを馳せた。
そこには、第三代帝王の妾腹の王子アリックが告げたとされる数々の予言が記されている。そして知られている限り、それらの予言が外れたことはない。
予言は告げている。
偽りの帝王がたち、真の帝王が国を捨てた時、アンティリア帝国はそれを乗せた大陸ごと滅亡するだろう、と。
現帝ルーガルは、ソティエ公爵ヤープがたてた偽者。それを知っているのは当の本人たちと、行方の知れぬタイラントと自分、そして国を離れ海を渡っていったアルヴィン、いや、彼らの王子たる本物のルーガル──。
要件は満たされた。予言は成就するだろう、そう遠くない日に。
アエテリスはそこまで考えて、やめた。
──考えたとて、運命が変わるわけでもないか。・・・・・・アルヴィン、私はおまえと、おまえの母に対する想いを引き摺ったまま、逝くさ。このアンティリアと共にな。
仕度を済ませたディエンヌの呼ぶ声が、アエテリスを現実に引き戻した。
傍らのディエンヌが身じろぎしたのに気づいて彼女の方を見やると、瞳を開けて自分を見つめていた。
「起こしてしまったか?」
「いえ、なんとなく目が醒めてしまって・・・・・・。殿はお寝みにはなられぬのですか?」
「昔の事を思い出していた」
「昔の?」
「ああ」
ディエンヌは寝台の上に半身を起こした。
「聞きたそうな顔だな」
笑いながら、アエテリスはディエンヌの頬に口付けた。
「私は欲張りですから、殿のことでしたらどんなことでも知りたいのです。もしよろしければ、話しては下さいませぬか、殿の昔のことを」
「そうだな、今宵は寝物語に昔話でもするとしようか」
アエテリスはそう言ってディエンヌの躰を優しく抱き寄せ、長い金色の髪をもてあそびながら、語り始めた。
「そう、あれはもう25年、いや、30年近くも前のことだ。まだ従兄弟のネレデディルが生きていた頃の──」
──了
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