仕入れてきたばかりの品物を整理していると、ふいに表に人の気配を感じた。馴染みのある気配だった。だが、一人とは珍しいこともあるものだ。
しかしどうしたことか、その人物はいっこうに中に入ってこようとはしなかった。
一体何をしているのだろう。いないとでも思っているのか。しかし帰ってきた時に《商い中》の札を出したはずだ。なのに何を躊躇っているのか。これが雨紋だったら《閉店》になっていても戸に手を掛けて入ってこようとするんだろうと思った。
そんなことを考えていると、漸く踏ん切りがついたのか、ガラッと音がして戸が開いた。
「やあ、いらっしゃい」
入り口は今いる位置のほぼ真後ろなので、顔だけを向けて声を掛ける。
「いい、かな?」
何を遠慮しているのか、戸を開けたものの、まだ外にいる彼── 緋勇龍麻── がそう聞いてきた。
「構わないよ。もうすぐ終わるから、好きに見ていてくれ」
その言葉に、龍麻が中に入ってきた。
龍麻は店の中を見回し、品物を手に取ったりしていたが、時折、背中に彼の強い視線を感じた。けれどそれは決して不快なものではなかった。
龍麻と知り合ったのは夏休みに入る前、ほんの数ヵ月前のことだ。それ以前から店に客として来ていたので見知ってはいたが。
ほどなくして品物の整理を終え、彼に声を掛けた。
「お待たせ。何か気に入ったものはあるかい?」
「えっ? あ、いや……」
いつになくはっきりしない態度の龍麻の様子に、不安になる。
「龍麻、何かあったのかい?」
「いや、その、今日は買いに来たんじゃないんだ。明日から修学旅行で暫く来れないから、それで……」
「それでわざわざ挨拶に来てくれたってわけい?」
「うん……、まあ、そんなとこかな」
頷いてそう答えた龍麻だったが、なんとなくそれだけではないように思えた。なぜなら龍麻からはいつもの覇気が全く感じられなかったから。
「……悪かったな、邪魔して。帰るよ」
そう言って帰ろうとする龍麻を、このまま帰してはいけないとそう思って、その次の瞬間には彼の腕を掴んでいた。
「龍麻、待ってくれ。本当は他に話があって来たんじゃないのかい?」
「……」
「部屋に上がって待っててくれ」
俯いて何も言わない龍麻の様子に、彼が溜め込んでいるらしいものを何とかして聞き出すべきだと心に決めて、掴んでいた腕を外すと奥の部屋へと促した。
我ながららしくないことをしているなと、そう思いながら《閉店》の札を出して店を閉める。
龍麻は僕が言ったとおりに部屋で待っていたが、いまひとつ落ち着かなげだった。
「日本茶でいいかな?」
「え? あ、ああ、いいよ」
湯を沸かしてお茶を煎れながら、どうやって龍麻に話をさせようかと考える。
何かあったのは間違いない。
数時間前、仕入れに出掛けた新宿で学校帰りの彼と会った時、彼はどうだっただろうか。確か、美里葵と桜井小蒔が一緒だったが、考えてみればあの時から少しばかり様子がおかしかったような気がする。
なんといったらいいのだろう。つまらなさそうな、ふてくされたような、あるいは拗ねたような、どういう表現が一番近いのか、とにかくそれまでに僕が見知っていた彼のどの表情、態度とも違っていたように思う。そして別れ際、ほんの一瞬、寂しげな表情が過ったと思ったのは、僕の思い違いだっただろうか。
「お待たせ」
龍麻の前に淹れたてのお茶を置いた。
「ありがと」
そう言って、龍麻は湯呑を持つと一口茶を啜った。
「で、何があったんだい?」
「何……って、別に何も……」
「本当に?」
畳み掛けるように重ねて聞く。
「……そんな、何があったってほどのことでもないんだ。ただちょっとイヤなことがあっただけで……。けどそれよりさっきも言ったけど、明日から修学旅行で、たった3泊4日だけど、会えないんだなって思ったら、さっき新宿で会ったけど、挨拶ぐらいしかできなかったし、だから……。何言ってんだろ、俺……」
言いながら、龍麻は右手で長めの前髪を掻き揚げた。
「龍麻、もう一度聞くよ。一体何があったんだい? 今日の君は僕の知っているいつもの君と違う。君が僕に会いに来てくれたのはとても嬉しい。でもだからこそ、気になるんだ。何があったのか、話してくれないか。それとも、僕には言えないことなのかい?」
「……ホントにたいしたことじゃないんだよ。なんていうか、ちょっと疲れたっていうか……。ここに来るとなんか落ち着くし、店の邪魔をするつもりじゃなくて、その……」
「どうしても言いたくないことなら、これ以上無理に聞くのもどうかと思うけど、でも今の君の様子を見ていると、自分の中に溜め込まずに出してしまったほうがいいと思う」
そう言って、僕は龍麻が何か言うのを待つことにした。
暫くの沈黙の後、龍麻が漸くゆっくりと口を開いた。
「……新宿で会った時、美里と桜井が一緒だっただろ?」
「ああ、醍醐君や蓬莱寺君がいなくて、珍しいなと思ったよ」
「……あれ、京一たちが企んだんだよ」
「どういうことだい?」
龍麻は大きな溜息を一つついた。
「なんでか知らないけどさ、あいつ等、俺が美里に惚れてるって思い込んでる」
「違うのかい?」
「如月もそう思ってた?」
「いや、僕はそういうことはよく分からないが、蓬莱寺君たちの態度から、君たちは付き合っているのかなと思っていたんだが……」
龍麻は僕のその言葉に、自嘲気味に唇の端を歪めた。
「そんなことないよ。なのに、京一たちは俺たちの仲を取り持つつもりで、俺と美里を二人で帰らせようって、つまりデートさせようとしたんだよ」
「だがそれにしては、会った時には桜井さんも一緒にいたよね」
確認するように尋ねる。
「うん。……校門の所でさ、ちょっとモメて── つまり一緒に帰るかどうかで。そのうちに教室で別れた桜井が追いついてしまって。俺はイヤだったから一人で帰ろうとしたんだけど、桜井が三人で帰ろう、それならいいだろうって無理矢理押し切って……。押し切られた俺も俺なんだけど、とにかく強引でさ、イヤだって言ってる俺にグダグダと男らしくないとか言って……」
「つまり、君は美里さんに対して、蓬莱寺君たちが思っているような好意は、持っていない?」
言いながら、一つ気付いたこと、思い出したことがあった。
それは、龍麻は負傷しても決して美里葵の元には行かないということだ。
もともと龍麻自身も治癒能力を持っているので、必要がないと言えば言えなくもないのだが。それでも、自身の力より治癒能力に長けた者の方がよりいい場合があるんは確かだ。
そして現在の仲間の中で治癒能力を持っているのは二人── 美里と高見沢。龍麻はたとえ美里の方が近くにいても必ずといっていいほどに、高見沢を呼ぶが、自分から行くかしている。美里には近寄ろうとしない。
「冗談じゃない、あんな女っ!」
叫んで、それから言い過ぎたというように、龍麻は右手で口を押さえた。
「もしかして、好意を持っていないどころか、嫌ってる、のかな?」
“あんな女”呼ばわりとは、よほどのことがあったとみえる。
「……っていうか、その……もう隠してもしょうがないから言っちまうけど、苦痛なんだよ、美里といるの。いつもってわけじゃないけど、できれば一緒にはいたくないと思うぐらいに…………」
龍麻は唇をかみ締め、顔を歪めた。まるで何かに耐えるかのように。
たぶん、龍麻は誰にも言うつもりはなかったのだろう。それを言わせたのは僕だ。だから僕は最後まで聞いてやらなければならない。
「以前はそんなことはなかった。別に付き合ってるってわけじゃない、鬼道衆の件で一緒に行動してるっていっても、ただのクラスメイトだし、気にしないようにしてたんだ。でもだんだん駄目になってきて……」
「そうなった切欠は? 何かあったんだろう?」
「……もともと、いわゆる好みのタイプっていうのとは違ってた。正直、どちらかっていうと不得手なタイプでね。京一たちはどうもそのへんからして誤解してるみたいなんだけど。美里はさ、何かっていうと、すぐに『私なんか』って言うんだよな。自分を卑下してさ。この街を守りたい、そのためにこの力があるんだと思う、なんて言いながら、自分の力はなんにためにあるのかしら、私には何ができるのかしら、それから、力があっても私には何もできない、って」
龍麻は冷めてしまったお茶を一口のんで口を湿らせた。
「……悩むのは悪いことじゃない。悩んで、考えて、時には失敗もして、そうやって人間は進歩していくんだって思う。けど美里の場合は違う。彼女は同じところでぐるぐる回ってるだけなんだ。何か事件が起きる度に、同じことを繰り返してる」
龍麻は何かを思い出すかのように目を閉じた。
「……前にさ、女の子が一人、死んだんだ、俺を庇って……」
「いつ……?」
僕の記憶の中にはない。ということは、僕が一緒に行動するようになる以前のことかとあたりをつけた。
「水岐の件の前。その事件の後でさ、そう、ちょうどプールで如月に会った日だよ、五人で待ち合わせしてて、俺と美里が先に着いたんだ。そこで、あとの三人が来る前に、俺に聞いて欲しいことがあるのって言って、美里の奴、その死んだ子のことを持ち出したんだ」
龍麻の卓袱台の上で組んだ手が震えている。
今はヘタに口を挟まずに、黙って龍麻の話を聞くことに専念すべきだと思ってそうすることにした。
「……今も覚えてる。俺を庇って負った傷口から流れてた真っ赤な鮮血や、抱き締めた時の重みやだんだんなくなっていく温もり……。そのまま俺の腕の中で死んだわけじゃなかったけど……。償いにって、兄貴と一緒に逝くことを自分で選んで……。俺は彼女を守れなかった、彼女は俺を助けてくれたのに、俺は守れなかった。俺が死なせたんだ、俺が……っ!」
話しているうちに興奮してきたらしく、最後の方は悲痛な叫びになっていた。
「龍麻……」
名前を呼ぶこと以外には、掛ける言葉が見つからなかった。
「あの女、わざわざその時のことを持ち出して俺に聞いてきたんだ」
『私……、今もあのときのことが目に焼き付いて離れないの。
あの人── 比良坂さん……。龍麻を護るために命を懸けた人……。優しくて……、強い人……。
…………。私、あれから考えるの。自分には何ができるんだろうって。私、役に立ってるのかな? 時々、自信がないの。皆のために── 何かしたいのに……』
「……まるで、自分だけが悩んでいて辛いとでもいうように、俺に聞くんだ。俺だったらそれに何か答えをやれるっていうのか? 冗談じゃない。比良坂の件じゃ俺には後悔しかない。自分のことだけで手一杯だってのに、俺にどうしろって言うんだよっ! ?」
掛ける言葉が見つからなくて、どうしてやればいいのか分からない。
自分でもどうしてそんな行動に出たのか分からない。ただ龍麻を放っておけなくて、彼の隣に行き、震えているその肩を抱き寄せた。そしてそれに対して、抵抗するかと思った龍麻は逆に僕に躰を預けてきた。
「……犬神先生が言ってた。美里は自己犠牲の傾向が強いって。それから、皆言ってる。優しくて思いやりがあって、まさしくマドンナだって。九角の時なんか、犬神先生言うところの自己犠牲の精神を発揮して自らあいつのところに行ったけど、俺に言わせりゃ、美里のは考えなしのただの独り善がりだよ。自分では皆のため、なんて思ってるみたいだけどそうじゃない。自分が安心するためだ。自分の心の安定のためだよ。九角たち鬼道衆が何をしてきたか、何をしようとしているか、少し考えれば分かるのに、自分が行けば全て解決するなんて思い込んで、結局俺たちは何の準備もなしに敵陣に乗り込むことになった。却って見事に足を引っ張ってくれたよな。おまけに自分の力のせいでたくさんの人が死んでいく、皆を傷つけてしまう、もう皆とは一緒に生きていけないなんて言いながら、九角を倒したら、さあ皆の待ってる学園に帰りましょう、だ。何考えてるんだよ。おかしくって笑っちまう……」
抱き寄せた肩が小さく震えている。本当に笑っているのか、それとも泣いているのか。僕には泣いているように感じられたのだけれど。
「……俺が好意どころか、こんなふうに思ってること、あいつ等は誰も知らない。全然気づいてない。分かってたら今日みたいなことしないもんな。でもだからって言えない。京一たちは美里を大切に思ってる。京一たちだけじゃないよ。真神の生徒は皆そうじゃないかな。俺だけが違うんだ。……疲れたよ……」
暫くして落ち着いたのか、龍麻は僕から身を離した。
「……ごめん、みっともないとこ見せて。軽蔑、しただろう? だから話すつもりじゃなかったんだけど……」
「そんなことはない。ずっと誰にも言えずに、自分の中に溜め込んでいたんだろう? それを無理矢理に言わせたようなものだけど、僕に打ち明けてくれたのは、僕を信頼してくれてるってことかなと思えて嬉しいよ。もっと早くに話してくれれば良かったのにと思う」
「……もし話して嫌われたら、軽蔑されたらって思ったら……、それが恐くて言えなかった。如月には嫌われたくなかったから……」
龍麻は俯いて、小さな声で呟くように言った。
「僕はずっと他人との必要以上の関わりを避けてきた。それは今も変わらない。でも不思議なことに、君に関しては別なんだ。君のことをもっと知りたいと思うし、何かあれば力になりたいと思ってる。放っておけない。君を、護りたい」
そう龍麻に告げながら、自分の中にある龍麻に対する感情がどういったものなのか、まだはっきりとそれに名を付けることはできそうになかったが、朧げに分かってきた。
自分にそんな感情があるなんて思ってもみなかったし、そんな存在に出会えるなどとも思っていなかったのに、その存在が、今目の前にいる。
「如月……」
龍麻の頬を両手で挟んで顔を上げさせた。龍麻の目は充血したように少し赤くなっている。やはりさっきは泣いていたのだと分かった。
「翡翠だよ。名前で呼んでくれないか、龍麻」
言いながら顔を近づける。抵抗はない。
「……翡……翠……」
口接けて、彼を抱き寄せた。
── お祖父さま、彼が僕の護りたいものです。お祖父さまの言い付けを破ることになるけれど、主たる将軍家でも、東京の街でもない、僕は龍麻を護りたい。許してください。
── 了
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