とある満月の夜、東都にある一つの高層ビルの屋上で、一人の男がため息を一つ点くと、構えていたライフル銃を降ろした。
彼はある男を狙っていたのだが、僅差でその狙いから逃げられ、しかも次を撃とうとしたほんの僅かの間に逃亡されてしまったところだった。
そこに、背後の給水等の上にだろう、バサッと何かが降り立つ音がして、彼は思わず振り返った。見上げたそこに立つのは、直接目にするのは初めてだったが、その存在についてはよく知っている、世界的に有名な、有名すぎる怪盗。アクセントで他の色を入れつつも、基本的にはスーツをはじめとして、全身を白に統一された衣装に身を包み、マントをハンググライダーとして利用して月夜の空を翔け、宝石をメインに盗みをし、そして盗んだ宝石を返却する、という理解しかねる行動をしている、“星の数程の顔と声を持つ”と言われる変装の名人であり、常に警察を子供のように手玉にとっている“確保不能”と言われ、“月下の奇術師”、他にも日本では“平成のアルセーヌ・ルパン”などとも言われているが、通称として最も有名なのは“怪盗KID”。
「随分と物騒な物をお持ちでいらっしゃいますね」
自分を見上げている男に、KIDはそう声をかけた。静かなテノールだが、それは夜故にはっきりと彼の耳に届いた。
「……怪盗KID……」
彼はその名だけを口から零すように告げた。
「この国では、許可がなければ銃刀の所持はできないのですが、ご存知ではありませんでしたか? つまり、本来ならば怪盗という犯罪者である私が言える義理ではないとは承知していますけれど、あなたはたった今この時も、この国の法律に違反しているわけですが、ご存知ないということはありませんよね、FBIの赤井秀一さん」
「知って……?」
自分のことを知っているのかと、彼── 赤井は眉間を寄せながら問いかけるように口にした。この怪盗なら自分のことを知っていても不思議ではないか、と思いつつも。
「ええ、もちろん存じ上げていますよ。仕事柄、情報は色々と調べていますので」KIDは当然のこと、なんでもないことというように答え、さらに続けた。「ところで、一つお伺いしてよろしいですか?」
「なんだ?」
KIDの問いかけに問いで返した赤井に、KIDは口にした、かねてから疑問に思っていたことを。
「どうしてあなたは、いえ、あなた方はこの国にいらっしゃるんですか?」
「何っ!?」
思いもかけぬその問いの内容に、赤井は困惑した。
「私の記憶に間違いがなければ、FBIはあくまで米国内の警察機関の一つであり、かつ、司法省が管轄する司法警察。つまり連邦法に関する事案の捜査が本来の任務。その関係上、テロ・スパイなどの安全保障に係る公安事件、政府の汚職に係る事件、複数の州に渡る広域事件などの捜査が本来の担当であって、国外での捜査は認められていない、いえ、むしろ禁止されていたと思うんですが、私の記憶違いでしたでしょうか? それとも、私が把握していないだけで組織の在り方が変更にでもなりましたか? 法律が変わりでもしましたか? 他国で捜査活動を行ってもよいと。しかも当事国たるその国に内密で」
KIDのその幾分嫌味を加えられたかのような問いに、赤井は何も答えることができず、KIDにはそうと知れぬように唇を噛み、顎を引いた。しかし夜目の効くKIDにしてみれば、そんなものは何の意味も持たない。
「答えられませんか?」
赤井が己の問いに答えを返すことはないだろうと予想をしていたKIDは、特にがっかりした様子も見せず、確認するようにそう続けて問いを重ねただけで、さらに言葉を続けた。
「まあ、お答えになられないなら、それはそれで構いませんよ。元々お答えをいただけるなどとは思っておりませんでしたし。ただ、あなた方が狙っている“黒の組織”、実は私的に無縁とはいえない存在ですので、偶然とはいえこうしてお会いすることができたのを幸いに、お答えいただければ、と思っただけですから。ああ、誤解していただきたくないのですが、私は黒の組織は潰していただきたいと思っています。ですから、あなた方が一日も早く目的を果たされることを願っていますよ。ただし、これだけは覚えておいていただきたいのですが、あなた方の捜査経過が遅く、もし万一、そのために私にとって大切な方に悪影響が出るようであれば、私は誰に遠慮することもなく、黒の組織を潰すために手を出させていただくことになるでしょう」
「何だとっ!? 泥棒のおまえが、黒の組織をどうするというんだ!?」
「申し上げたばかりでしょう、潰す、と。私にとっての大切な方を守るために」
赤井は困惑した。泥棒という犯罪者である怪盗KIDが、国際的な犯罪組織である、自分たちFBIですら捜査状況が決していいとは言い切れない、思うようにはいっていないとも言える“黒の組織”を「潰す」とはっきりと告げたことに。しかもKIDにとって大切な存在を守る、そのためだけに。そして同時にKIDがあまりにも簡単に「潰す」と言ってのけたことに対して。
怪盗KIDという存在は、FBI── 赤井たちにとっても謎の存在だ、その正体もはっきりとした目的も。そう、ある意味、“黒の組織”以上に情報がない。彼らが知っているKIDに関する情報は、警視庁捜査2課の持っている情報と大差ないといえるだろうと、赤井は思う。
そして今のこの出会い、KIDとの遣り取りの中、KIDは自分たちが日本で活動していることに、理性面では疑問や反発を覚えながら、感情面では早くどうにかしろと、発破をかけてきているのではないかと思った。
「いささか長く時間をいただいてしまいましたね。それでは今宵はこれで失礼させていただきます」
KIDはそう告げると、単に顔を知っている人間と、初めて出会った偶然から少しばかり話をしてみた、という感覚でしかなく、それ以外には何の意味もなかったかのように、再びマントを開きハンググライダーとして飛び立っていった。赤井は、なんとも言えない思いで、その段々小さくなっていく白い姿を見送った。
赤井にはKIDに対する疑問だけが残された。KIDが言う彼の“大切な人”とは一体何者なのか。そしてその人物と組織との関係性。しかしいくら疑問に思ったとしても、黒の組織に対する捜査の合間をぬって怪盗KIDについての捜査も行うなど無理と言っていいだろう。そこまでの余裕などない。だから、せめてKIDが手出しをしてくるような事態を招く前に、黒の組織をなんとかせねば、潰さねば、との思いを強くする。
そうして今夜のKIDとのことはなかったこととして誰に告げる気も持たぬままにビルの屋上を後にした赤井だったが、KIDからの問いかけが脳裏に蘇る。
“どうしてあなたは、いえ、あなた方はこの国にいらっしゃるんですか?”── 。それはまた、“ここで何をしているのか”との意味も含んだものなのだろう。彼の持つ事情など諸々の思いを含めて。そう思いつつ、赤井はビルから立ち去り、夜の街の中にその姿を紛らしていった。
── Fine
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