Une chose effrayante




 大学の入学式も間近になったとある日の午後、快斗は表には出ていないが、自分にとっては命の恩人ともいえる紅子を誘って、江古田の駅前にできた新しいケーキ屋へと向かっていた。いわば助けてくれたお礼のようなものだ。もっともケーキ屋になったのは快斗の好みによるものだが、それでも快斗のことを心憎からず思っている紅子にすれば、快斗からの誘いということで悪い気はしていない。たとえ快斗には既に白馬と言う恋人がいると分かっていても、それはそれ、これはこれ、である。
 ちなみにこの小泉紅子こと赤の魔女様は、自分が快斗の命を助けたことなど一言も口にしていない。あくまで快斗自身の運が良かったのだと告げていたが、そこに彼女の助力があったのを快斗はよく理解していた。手術を受けている間、ずっと聞こえていた魔女(紅子)の呼ぶ声がそれであったと。
 出会った当初こそ、紅子の魔女だという話を本気にはしていなかったし、幾度となく彼女から告げられる予言とやらも無視していたが、次第に、その的中率に、彼女の行動に、紅子は彼女が告げる通り魔女なのだと思い知るに至った。とはいえ、それは長いこと快斗一人の胸に収められていたが、やがてKIDとして組織戦が激しくなるに従って、自分をKIDとして追っていた探偵からいつの間にか想いを交わすようになり、ついには協力者となっていた白馬にだけは話したが、白馬がどこまでそれを信じているかは定かではない。というより、あまり信じてはいなかっただろう、少なくとも実際に対組織撲滅戦で快斗が負傷を負い、死ぬかもしれない危機を迎えた時までは。
 紅子は白馬に、何があろうと、どんな事態になっていようと、なんとしても自分が快斗を連れ戻してやると言い、連絡を受けてフランスに赴く白馬に、貴方が到着する頃には状態は安定しているはず、との言葉に、漸く信じる気になったというところだったろう。
 そうしてケーキ屋に向かって二人で歩いている途中、後ろから声を掛けられた。
「黒羽君と小泉さんじゃありませんか」
 二人が振り向くと、そこには白馬が立っていた。
「白馬。どうしたんだ、おまえ今頃こんなところで」
「知り合いのところに行った帰りですよ。それより二人こそ、どうしたんです?」
「これから、駅前の新しいケーキ屋に行くとこ」
「珍しいことに黒羽君に誘われましたの」
「え?」
 紅子の言葉に白馬は不審そうな視線を快斗に向けた。一体なぜ、と。
「ほら、例の件じゃ世話になったのに何も礼をしてないからさ。一度改めて礼をしとこうと思って」
 例の件、が何を指すか、それだけで理解できるのは白馬だけだろう。
「そうですか」
 納得したように白馬は頷いた。
「よろしければ白馬君も一緒にどう? 今日は珍しく黒羽君の奢りだそうですし」
「え? 俺が礼をするのは紅子に対してだけのつもりだったんだけど」
「つまり僕の事は無視ですか? あれ程に君に協力したのに」
「だっておまえにはなんだ、その……」
 顔を赤らめていく快斗に、白馬と紅子は同じように微笑んだ。
「分かってますよ、冗談です。それより小泉さんにお礼と言うなら僕も一緒です。今日は僕から二人に奢らせて下さい」
「へ? 俺も?」
「ええ。君にはここまで出歩けるようになるまで回復したことを祝って」
「このくらいの出歩きならもうだいぶ前からしてるぞ。おまえだって知ってるだろうに」
「でもいままで回復祝いをしていないでしょう、ですから今日はそれです」
「では三人でということで。こういうのも両手に華というのかしら?」
 ほほほ、と微笑いながら紅子は白馬の申し入れを受け入れた。紅子がいいと言うなら快斗に否やはない。むしろ自分の懐が痛まない分、却って嬉しい状況である。
 そうして三人は駅前目指して歩き始めた。
 と、そこに一台の2tトラックが走ってきたのだが、スピードを出しすぎていたのだろう、角を曲がりきれずに勢い余って横転してしまったのである。
「うぎゃっ!!」
 と同時に、そんな叫び声がして二人の目の前から快斗の姿が消えた。
「え?」
「どうしましたの、さっきの叫び声、黒羽君でしたわよね?」
 あたりを見渡すも、快斗の姿は見当たらない。が、快斗が叫び声を上げた原因は分かった。
 横転したトラックの荷台から零れ落ちていたものが原因である。
 普通の人間にはなんともない。むしろ平均的な日本人からすれば好きな人間の方が多いのではなかろうかと思われるそれ、すなわち、黒羽快斗の唯一と言っていい天敵、“魚”である。
「そういうことですか」
「そういうことね」
 呆れたように残された二人が呟いた。
「黒羽君、どこにいるんです?」
 白馬は今度は視線を上げて改めて周囲を見回した。
「ここ……」
 声のした方を振り向けば、道の脇の塀の上に飛び乗った快斗の姿があった。しかもしっかりと横転したトラックに背を向けた格好で座り込んでいた。
「……病み上がりの状態でよくそんなことができましたわね」
「流石というかなんというか」
 快斗は塀の上に座り込んだまま、“の”の字を書いているらしい。
「少し遠回りになりますが、戻って1本隣の道から行きましょう。それなら大丈夫でしょう。ですから早く降りて下さい。見ている僕の方が心臓に悪い」
「なんなら、私の魔術であれを見えなくしてさしあげてもよろしくてよ」
 二人の呆れながらの声に、快斗は魚を見ないですむように後ろ向きのまま塀から飛び降りた。
「いてて」
「大丈夫ですか?」
 流石に完全に治りきったとはいえない傷に響いたらしい。呻く快斗に白馬が走り寄った。
「どうします? 痛みが酷いようなら帰りますか?」
「いんや。あれ見たのを忘れるためにもケーキを食う! 食って忘れる!」
 とことん魚から目を背けてそう力説する快斗に、白馬と紅子はお互いの顔を見合わせて微笑(わら)った。
 一体どこの誰がこの姿を見てKIDだと思うだろう、誰も思いはしないだろうと考えながら。
 そうして三人は来た道を少し戻って1本隣の道から目的地の駅前のケーキ屋に辿り着いた。
 見てしまった魚を忘れるように、白馬の奢りならと遠慮なくケーキをパクつく快斗の姿があった。そして白馬と紅子は、そんな日常を取り戻した快斗を微笑ましく見つめているのだった。

── Fine




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